フルコンタクト空手界で1位、2位を争う実力者と言われていた長田賢一。1987年4月、タイに渡った長田は思いがけない形で現役ムエタイ王者と対戦することになる(写真提供/大道塾) フルコンタクト空手界で1位、2位を争う実力者と言われていた長田賢一。1987年4月、タイに渡った長田は思いがけない形で現役ムエタイ王者と対戦することになる(写真提供/大道塾)

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第16回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。

■外国人選手は「生きて返すな」

ムエタイに空手家が挑戦する。

それは空手家にとって大きなロマンであり、避けては通れぬ道だった。ムエタイが"地上最強の格闘技"と呼ばれているなら、それ以外の選択肢はなかったのだ。

1964年2月には、大山道場(のちの極真会館)から黒崎健時、中村忠、藤平昭雄がタイに遠征し、ルンピニースタジアムでムエタイとの異種格闘技戦に挑んだ。極真はまだ自前の大会を開催していない時代だったので、そうすることで自分たちの力量を測れるという意味合いもあった。

その後も空手家たちはムエタイに挑戦し続けた。74年7月16日には添野ジム(のちの士道館)の物江勝広が空手衣に素手という出で立ちでルンピニーにリングイン。のちにスーパースターとなるノンカイとフリースタイルと呼ばれる異種格闘技戦的なルールで闘い、2ラウンドに左のヒザ蹴りで壮絶なKO負けを喫した。ノンカイは普通にボクシンググローブを付けての一戦だった。

80年代後半になってからもムエタイに挑んだ空手家はいる。87年4月24日には大道塾の長田賢一(おさだ・けんいち)がルンピニーで当時同スタジアム認定ウェルター級王者だったラクチャート・ソーパサドポンと対戦している。

何ヵ月も前から決まっていたマッチメークではなく、いきなり決まった一戦だった。タイは365日、毎日どこかでムエタイの興行が行なわれているようなお国柄。当日の対戦相手変更など日常茶飯事なのだ。

それから40年近くの月日が流れた。現在は総合武道「空道」を標榜する大道塾の第2代塾長を務める長田は懐かしそうに振り返る。

「当初は雑誌の取材で西(良典=のちにヒクソン・グレイシーやロブ・カーマンと闘った"北斗の覇王")先輩とタイに行って練習しようという程度の軽い気持ちだったんですよ」

そんな長田の思惑とは裏腹に試合の話はとんとん拍子に進み、ルンピニーのリングに空手王者として上がることが急きょ決まった。試合形式はエキシビションやデモンストレーションの類ではなく、3分5ラウンドの公式戦だった。試合前まで長田は空手衣をまとっていたが、実戦ではボクシンググローブをつけ、トランクスを履いていた。

体重は長田のほうが重かったが、キャリアは大人と子供ほどの差があった。ラクチャートが百戦錬磨なのに対して、長田はこれがムエタイデビュー戦だったのだ。

今でこそムエタイで外国人選手が王者になることは決して珍しいことではなく、ウェルカムのムードすら漂う。しかし80年代のムエタイはまだ排他的で、海外勢に門戸を完全に開いているわけではなかった。ちょっとでも強い外国人選手が出てくれば、「生きて返すな」といった野次が普通に飛ぶ時代だった。この一戦も王者ラクチャートの強さをアピールするために、日本の空手王者という"生贄"が用意された可能性が高い。

大道塾の全日本選手権「北斗旗」を重量級と無差別級で7度制し、現在は同塾の二代目塾長を務めている(写真提供/大道塾) 大道塾の全日本選手権「北斗旗」を重量級と無差別級で7度制し、現在は同塾の二代目塾長を務めている(写真提供/大道塾)

■「うわっ、これはすごいなと思いました」

とはいえ、序盤からラクチャートのワンサイドゲームという流れではなかった。むしろその逆で試合開始早々、強いプレッシャーをかけていたのは長田のほうだった。

右インロー(内股へのローキック)を効かせるだけではなく、ムエタイではポイントが高いとされている左ミドルキックもヒットさせ、超満員の場内を大きくどよめかせる。極めつけは右ストレートを効かせ、見た目にはダウンを奪ったシーンだろう。

ところが、レフェリーはこれをダウンとは見なさなかった。ムエタイでは少なくとも2ラウンドまではよほど大きなダメージを与えない限り、ダウンをダウンと見なさない。案の定、このときもそうだった。レフェリーはダウンカウントをとることもなく、試合再開を即座に命じた。

試合が大きく動いたのは2Rだった。大振りのフックで猛攻を仕掛ける長田にラクチャートはカウンターを狙う。ムエタイ独特の「こかし」のテクニックでスリップダウンを奪おうとしても、バランス感覚に優れた長田は倒れなかった。

しかしながらその直後にヒザ蹴りを食らうとピタリと攻めの手が止んでしまう。その刹那、ラクチャートは猛攻を仕掛け、最後は右ヒジで対戦相手をキャンバスに沈めた。長田は失神していた。

かくして大道塾主催の全日本選手権──北斗旗王者のムエタイ挑戦は終わったが、初陣で現役王者からダウンを奪う実力には脱帽するしかない。改めて善戦できた要因を聞くと、長田は「単純に情報不足だったからじゃないですか」と推測した。

どういうこと?

「当時は今みたいにYouTubeもない時代だったので、手元にあるムエタイのビデオを擦り切れるくらい観たり、映画『地上最強のカラテ』でタイ人がヒザ蹴りをやっているシーンを「ああ、こうやってやるんだ」と思いながら真似ていました。それしか研究材料がなかったんですよ。自分で『たぶんこうだろう』とイメージしたものを突き詰めてやるしかなかった。そうすることで、研ぎ澄まされた感覚はあったのかもしれない」

序盤、圧力の強さが尋常ではなかったことを突っ込むと、長田は一笑に付した。

「当時キックボクサーと空手家が試合をやると、最初は空手家がキックボクサーをボコボコにするけど、その局面を凌いだキックボクサーは3Rあたりから逆襲を開始することが多かった。そのとき空手家のほうにはもうスタミナが残っていないというパターンです。僕もそうだったんじゃないですかね」

ムエタイではデビュー戦ながら、日頃の練習で培ったボクシングテクニックに長田は自信を持っていた。そうであるがゆえに自分のパンチがラクチャートにすかされると逆にうれしくて仕方なかったという。

「あれで『うわっ、これはすごいな』と思いました。あんな経験はやろうと思ってできるものではないですし」

恐怖よりも先にうれしさが込み上げてくるとは......。いや、だからこそムエタイのデビュー戦で、現役王者を相手に2R途中まで互角に渡りあうという修羅場をくぐれたのだろう。

一方、長田を撃破したことで、日本におけるラクチャートの知名度は急上昇し、"長田賢一に勝った男"という看板を売りにしようとするプロモーターも出てきた。当時の長田はフルコンタクト空手界の中でもパウンド・フォー・パウンドで1位、2位を争う実力者と見られていたのだから無理もない。

中にはラクチャートに無気力試合を強いるプロモーターもいた。格闘技の光と影。それなりの見返りと引き換えに、このタイ人はそれを受け入れる人間だった。異国の地で相手に花をもたせる試合をしたとしても、その話は母国には知れ渡らないと思ったのだろうか。

そういったラクチャートの無気力試合を見るたびに長田は複雑な心境になった。

「わたしと出会っていなければ、ラクチャートの人生はタイでチャンピオンとして終われた人生だったんじゃないですかね」

それだけではない。長田がムエタイ挑戦で外に一歩踏み出したことで、大道塾の流れも大きく変わっていく。その流れは日本格闘技界全体を揺るがすものになるのに時間はかからなかった。

(つづく) 

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布施鋼治

布施鋼治

1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。

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