『雨ニモマケズ 外国人記者が伝えた東日本大震災』の日本語版を出版したルーシー・バーミンガム氏(左)とデイヴィッド・マクニール氏

全ての日本人にとって忘れがたい日、2011年3月11日の東日本大震災と福島の原発事故から6年。原発周辺で避難指示解除が始まる一方、被災地ではなお、地震や津波、原発事故の影響に苦しみ続ける多くの人たちが「震災の記憶」の風化と戦っている。

そんな中、昨年末に1冊の本が出版された。タイトルは『雨ニモマケズ 外国人記者が伝えた東日本大震災』(えにし書房刊)。著者は英紙「エコノミスト」などの東京特派員を務める、アイルランド人ジャーナリストのデイヴィッド・マクニール氏と、米誌「タイム」などに寄稿するアメリカ人ジャーナリスト、ルーシー・バーミンガム氏だ。長年、日本で暮らすふたりが震災直後の被災地を取材し、2012年に海外で出版したルポルタージュの日本語版が約5年の時を経て出版されたのだ。

被災者たちの声を現地で拾いながら、彼らは何を感じ、何を伝えたのか? そして、震災後の日本をどのように見つめてきたのか? 「週プレ外国人記者クラブ」第68回は、マクニール、バーミンガムの両氏に話を聞いた――。

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─まず、おふたりがこの本を書くことになった経緯から教えていただけますか?

バーミンガム 私は長年、日本で「タイム」誌などに寄稿するフリーランスのジャーナリストや脚本家、NHK外国語放送の構成作家などの仕事をしてきたのですが、震災直後に海外の出版関係者から「外国人ジャーナリストの目で見た震災と原発事故に関する本を書かないか」というオファーがあり、元々、知り合いだったデイヴィッドとふたりで分担して、この提案を引き受けることにしました。

ふたりの共著にしようと考えた理由は、そうすることでお互いの長所を活かせると思ったからです。デイヴィッドは原発事故などに関して豊富な知見を持っていましたし、私は津波被災者の取材に重点を置くことで結果的にいい役割分担ができたと思います。

マクニール 実際にはかなり多くの人たちにインタビューしているのですが、最終的にその中から6人の人物を選び、彼らの証言を通じて、6つの異なる視点を軸にしながら、あの震災と原発事故を描くことになりました。これは原爆投下直後の広島を取材したアメリカ人ジャーナリストのジョン・ハーシーの伝説的なルポルタージュ『ヒロシマ』(※20世紀のアメリカジャーナリズムのトップ100の1位にも選ばれている名著で、6人の被爆者の証言を中心に構成されている)と同じアプローチです。

─その6人は、どのように選んだのですか?

マクニール 僕が担当したのは、まず福島第一原発の作業員のカイさん(仮名)。原発作業員の証言者を見つけることはとても難しかったのですが、幸い、仮名を条件に彼の話を聞くことができました。彼は原発作業員であると同時に、福島第一原発のすぐ近くで生まれ育った「地域住民」でもあります。

それから南相馬市長、桜井勝延さん。彼は震災の時、自らYouTubeを使って支援を要請したことで海外でも注目されていましたし、市が壊滅状態にあった中、自分の家族のことよりも、まず市長としての責務を果たそうと必死に奮闘した点が、日本人の「責任感」に対する考え方を象徴していると考えたからです。

桜井市長はとても個性的な人で、政府に対する批判も躊躇(ちゅうちょ)なく口にするし、メディアに対しても自分たちが直面している問題を隠さず、オープンに取材に応じてくれました。これは日本の政治家としては珍しいことだと思います。

もうひとりは、漁師として働いている方を選びました。日本人の生活は海や魚と切り離せないものですが、その海が津波や原発事故によって深刻な被害を受けていたからです。そこで相馬双葉漁協を通じて知り合ったイチダ・ヨシオさんという方から、海で生業を立てている人たちの視点で見た震災について語ってもらうことができました。

救助に参加した外国人の姿も描きたかった

バーミンガム 私はまず、陸前高田を襲った津波で夫を亡くしたウワベ・セツコさんを取材しました。突然の災害で愛する家族を失い、自分たちの住む街を失った彼女の喪失や悲しみを通して、我々が共有すべき、分かち合うべき何かを感じたからです。

もうひとりは、日本に暮らす外国人の目で見た震災を描こうと、テキサス出身のタイ系アメリカ人、デイヴィッド・チュムレオンラートさん。松島に住む彼は日本人と共に津波で被害を受けた人たちの救助に加わり、その勇敢な姿がアメリカのTVでも紹介されていたのですが、自分がそうした形で注目されることに抵抗を感じていて、当初は取材を断っていました。しかし、我々の取材の意図を理解してくれて、彼が英語を教えていた松島の小学校で溺れかけていた人たちを助けた時の様子を語ってくれました。

震災では多くの日本人たちに加えて、日本に暮らす多くの外国人たちも、被災者を助け、支え合う人たちの輪に加わっていました。また、海外からも多くの人たちが救助や援助に参加しています。そうした一面を伝えることも意義のあることだと感じたからです。

そして最後に若い世代。あの震災から「未来」を生きなければならない人たちを描きたくて、当時高校3年生のサイトウ・トオルさんを取材しました。彼は名門の東北大学への入学を心待ちにしていましたが、故郷である牡鹿半島の荻浜地区が津波に飲み込まれ、祖父を失いました。聡明な彼は、今もこの悲劇と向き合って生きています。

─おふたりはジャーナリストであると同時に、東京で暮らす市民であり、それぞれにご家族もいます。マクニールさんは以前のインタビューで「震災の翌朝に東北の取材に出発した」と話されていましたが、バーミンガムさんはどこであの地震に? 

バーミンガム 私はあの時、NHKの放送センターで仕事をしていました。長年、日本に住んでいるので「いつか大地震が来るかもしれない」とは思っていましたが、地震の後、放送センターに各地から送られてくる情報や映像を見て、それがにわかには「現実のもの」と思えなかったことを憶えています。同じフロアーにいた同僚たちも、津波が街を飲み込んでいく空撮映像を見ながら、茫然と「信じられない」「映画みたい…」と叫んでいました。それほど、地震と津波がもたらす被害は想像をはるかに超えたものだったのです。

─ご家族の安否はすぐに確認できたのでしょうか?

バーミンガム 携帯は全く通じなかったんですが、幸い固定電話が通じて、家にいる母やふたりの子供の安否は確認できました。ただ、もうひとりの娘は全く連絡がつかず、安否が確認できたのは最初の地震発生から8時間後でした。彼女が自分の写真と共に「大丈夫」と伝えてきた時の気持ちは、今でも忘れられません。

震災発生時、NHK放送センターという、各地からの情報が集まってくる場所にいたこともあり、私はNHKの英語ニュースだけでなく、「タイム」などの海外メディアに最初に震災の情報を発信したひとりになりました。そして、この本を書くことが決まり、3月末から現地での取材を始めました。まず、陸前高田を訪れたのですが、それまで様々な形で被災地の映像に接してきたにもかかわらず、実際に自分の目で見た現地の惨状、破壊のものすごさに、改めて大きな衝撃を受けたことを憶えています。

「心のケア」の重要性があまり認識されていなかった

─長年、日本で暮らしているおふたりが、震災の現場や被災者たちの取材を通じて、日本人について改めて感じたことや発見したこと、驚いたことなどはありましたか?

マクニール ひとつは、桜井市長もそうですが、あのような極限状態の中でも自分に課された責任や義務を誠実に果たそうとする人たちの姿勢には改めて心を動かされました。また、あれほど自分たちの街が破壊されても避難所などで同じコミュニティの人たちが助け合い、支え合いながら、上からの指示によってではなく、自然に秩序を形成できるのは日本人のすごいところだと思います。これは逆の言い方をすれば、日本人が混乱や混沌に対する恐怖心みたいなものを抱いているからかもしれませんね。

もうひとつ感じたのは、今回の震災に限らず、歴史上、何度も大きな災害を経験してきた日本人、特に東北の人たちの「つらい過去を自分の胸に秘めて、あまり話したがらない」という特徴です。例えば、私が取材した漁師の方は「一度だけ話すから」と、津波の時の経験を語ってくれたのですが、その後、我々の本を読んだBBCが取材を依頼したところ、「一度だけ話すという約束だったじゃないか」と断ったそうです。苦しい経験を重ねてきた東北の人たちにとって、記憶をあえて胸の奥にしまうということは、彼らがそれを乗り越え、前を向いて生きていくための知恵なのかもしれません。

バーミンガム でも、それは日本人に限らず、他の国の人でもそういう部分はあるんじゃないかしら? アイルランド人は別かもしれないけれど(笑)。

マクニール うーん、確かに。その漁師さんは本当にギリギリの状態で津波に飲みこまれずに済みましたが、アイルランド人ならその経験をちょっと誇張して、何度も自慢する人がいる気がするなあ(笑)。

また、一般的な日本人は政治や社会の問題に対して、あまり声を上げて抗議しないというイメージがありましたが、震災と原発事故の後は、官邸前などで大規模なデモが起きて、市民が政治に対してハッキリと声を上げたことにも少し驚きました。残念ながら、それは長続きせず、政治をなかなか変えられないという現状もありますが、少なくとも政治に対する不満や意見があることが目に見える形で示された。それはおそらく70年安保以来の出来事だったんじゃないかな。

バーミンガム 私が感じたのは、震災時の国や地方自治体の対応が時として柔軟性に欠けていたというか、彼らが「自分たちのやり方」に強いこだわりを持っていたという点です。海外からの支援の申し出に対しても「とりあえず、なんとかするので大丈夫です」という対応になってしまうことが少なくなかったと思います。

例えば、アメリカの団体から被災者の「心のケア」を行なうための支援をしたいという申し出があっても、自治体がそれを断ってしまうことがありました。その団体のスタッフはアメリカで専門的なトレーニングを受けた日本人でしたから、言語の問題で役所の負担になることもなかったと思うのですが、「ありがとうございます、でも大丈夫です」と断られてしまう。

結局、彼らは避難所の片隅にカフェみたいなスペースを作り、そこで被災者たちの相談に対応しました。多くの人たちが親や子供や伴侶を失い精神的に大きな負担を感じていた中で、心のケアの重要性があまり認識されていなかったと側面もあったのかもしれません。

マクニール 確かに、日本には文化的に「我慢」を重く見るところがありますからね。つらい気持ちや哀しい気持ちも我慢して自分の内側に抑え込んで外に出しづらいところがあるかもしれない。そういう我慢の文化が外からの援助を受けたがらなかったり、心のケアの優先順位を相対的に下げてしまったりするのかもしれませんね。

●後編⇒「日本が国のあり方を見直さないことに大きな失望を感じる」 外国人記者が見た震災後6年の歩み

(取材・文/川喜田 研)

●『雨ニモマケズ 外国人記者が伝えた東日本大震災』 (えにし書房 2000円+税)

●ルーシー・バーミンガムジャーナリスト、脚本家、編集者。長年、米「タイム」誌などの記者を務め、「ウォールストリートジャーナル」「ニューズウィーク」「ブルームバーグ」など様々な新聞や雑誌に寄稿。著書に『Old Kyoto: A Guide to Shops, Inns and Restaurants』がある

●デイヴィッド・マクニール「エコノミスト」「インディペンデント」紙の記者。クロニクル・オブ・ハイヤーエデュケーションのアジア地域特派員。社会学の博士号を持ち、母国アイルランド、英国、中国の大学で教鞭を取り、現在は上智大学講師としてメディアと政治の講義を担当している