ニッポンには人を大切にする"ホワイト企業"がまだまだ残っている...。連載企画『こんな会社で働きたい!』第15回は、札幌市に本社を構える北洋建設だ。
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北洋建設は全国でも数少ない、受刑者を積極的に雇用する会社だ。
鳶(とび)、土工、解体工事の専門業者だが、会社には毎日のように刑務所にいる受刑者から「出所後の仕事の相談に乗ってください」との手紙が届く。
手紙の文面から本人の「やる気」と「心からの反省」を感じ取ることができれば、小澤輝真(てるまさ)社長が直接刑務所に赴き、受刑者と30分ほど面接をする(アクリル板越しではなく、普通の部屋で)。
だが、実は小澤社長は5年ほど前に「脊髄小脳変性症」という不治の難病に罹患し、余命ある身だ。小脳が委縮する病気で、言語障害や体の機能障害が現れる。昨年までは杖で歩けたものの、今では車椅子か両脇を支えてもらっての移動で、刑務所に行くにも社員が一緒に同行しなければならない。
面接にかかる費用はすべて会社持ちだ。15年度以降、法務省からその予算が出るようにはなったが、同年度中にはその予算がなくなり、長崎の刑務所へ面接に行くのにもふたりで往復24万円の交通費がかかった。さらに、その受刑者を採用するにしても、出所後の札幌までの交通費もすべて会社で負担する。
小澤社長が受刑者を受け入れるのは、「仕事さえあれば、人は再犯をしない」「罪を犯した者ほど真剣に働く」との信念からだ。実際、出所しても仕事がないため、敢えて刑務所に戻ろうと罪を犯す再犯率は48%(平成28年版『犯罪白書』)にもなる。
北洋建設の社員数は約60人だが、そのうち17人が元受刑者だ。社員になれば、社長が身元引受人になってくれるし、3食付きの寮にも入れる。入社初日には社員有志で歓迎会もしてくれる。
小澤社長はこう断言する――「みんな立ち直りたいと思っている。ここで一所懸命働けば再犯はありません」
●小澤社長の半生
北洋建設は小澤社長の父、政洋(まさひろ)氏が1973年に創業した。当時は景気がよく、どこの現場も人出不足に困っていた。それを埋めるためなのだろう、政洋社長は元暴走族の少年や刑務所からの出所者を積極的に採用していた。
創業翌年に生まれた小澤社長にすれば、彼ら「荒くれ者」たちが身近にいるのは日常だった。といっても、その日常は凄まじいものだった。
一升瓶がパン!と割れる音がしたと思ったら、従業員同士で刺し合おうとするのは日常茶飯。小澤社長の母の静江さん(69)はその光景を間近で目撃すると、すぐに止めに入った。
「どっちがケガしても親が悲しむ。やめて!」
静江さんは創業間もない会社を支えるため、朝4時から数十人の社員の朝食を用意し、昼食用の弁当を持たせていた。さすがの荒くれ男たちも静江さんの言うことには従ったという。
社員が売上金を持ち逃げ。その時...
先代の政洋社長も社員採用の動機はともあれ、一度採用した社員を大切にすることは心がけていただけに、その両親の姿に影響を受けた少年時代の小澤社長は「社員も家族なんだな」と感じていたという。
ところが、先代社長が49歳で急逝する。死因は今の小澤社長の病気と同じ「脊髄小脳変性症」。診断を受けてから数年で亡くなった。急きょ、静江さんが「私にやれるかな」との不安の中で社長に就任するが、同時に輝真さんが母に告げた。
「僕がお母さんの後を継ぐ。それまで頑張って!」
当時、17歳。高校に進学しボクシング部を作って部長に就任するなど、目的のある学校生活を送っていたが、校長が権限を振りかざして部を廃止する。これに我慢できなかった輝真さんは「ふざけるな!」と中退し、その後、製版会社に勤務していた。そこで父の死を受け、入社を決意したのだ。
この右も左もわからない将来の社長を輝真さんの姉の夫であり、北洋建設の先輩社員である多恵智成(たえ・ともなり)さんが鍛えた。
「1日も早く仕事を覚えてお前が会社を継ぐんだ」と、深夜1時に起こされて朝5時まで土木技術を叩き込まれ、そのまま日中の現場作業や営業活動をこなす毎日が続いた。
同じ頃、会社の専務が集金した500万円を持ち逃げするという出来事も発生。17歳の輝真さんが支払い先に頭を下げて回った。静江さんも輝真さんも「社員を路頭に迷わせるわけにはいかない」との思いがあったという。だがーー。
輝真さんは翌年に専務となるが、その4年後、今度はある役員が1700万円の空手形を切って逃げた。この時は、さすがに静江社長も諦め、社員には会社を畳むから好きなところに行きなさいと告げたそうだ。すると、出所者である数人の社員から「お金はいりません。一所懸命働くので、どうかここに置いてください!」との悲痛な声が返ってきた。
幸いにも、専務となった輝真さんが元請け企業に「ウチは潰れます」と頭を下げに行くと、代わりに大口の仕事を回してくれたことで息を吹き返すことができた。現在の小澤社長がこう振り返る。
「今思えば、ウチの仕事が丁寧だからだと思います。ウチは札幌ドームでの大手芸能事務所のコンサートの設営を任せられるなど信頼は高い。その理由は現場での事故が極めて少ないからです。肉体労働だけに極力、残業させないこともその理由のひとつですが、仕事に集中できるよう社員の仲がうまくいくことに気を遣っています。社員は家族ですから」
だが、こう言われて素朴な疑問が湧く。現在、北洋建設の社員の約4分の1を出所者が占めるが、前科のない社員との間に心理的な溝はないのだろうか? それに「ない」と小澤社長は断言する。
「ウチでは出所者を採用するにあたっては、その過去を隠さないようにしています」
2016年、殺人未遂で収監されていた山村強さん(50代、仮名)は栃木県の刑務所を出所、すぐに北洋建設に入社したが、その初日、社員の有志が集まり、歓迎会を開催してくれた。自分の過去を受け入れ、明日からの応援をしてくれる人たち。
「私は罪を背負って生きていきますが、私をわだかまりなく受け入れてくれた会社には本当に感謝しています」(山村さん)
「唯一、全国の刑務所に求人が出ている会社」
では、北洋建設はどのようにして受刑者を採用しているのだろう。
簡単に言うと、ハローワークを通じて全国の刑務所に求人案内を出し、関心を持った受刑者が北洋建設に手紙を出す。同社は「全国で唯一、日本全国の刑務所に求人が出ている会社」(小澤社長)だ。
もしくは、法務省の「矯正就労支援情報センター室」(受刑者の出所時期や移住予定地などの情報を一括管理する部署)が雇用条件にマッチする受刑者の情報を企業に紹介する『コレワーク』という制度も活用している。
受刑者からの手紙は毎日のように北洋建設に届くが、その中から社会復帰への意欲を感じるものがあれば、小澤社長が直々に刑務所まで面接に訪れる。刑務官が立会いの下、およそ30分間、受刑者と話し合い、「やる気あり」「反省もしている」と認めれば採用を決めるのだ。
そして、本人が出所した時、札幌までの航空券と自由に使っていい交通費1万円も用意する。これらの費用はすべて自腹。北洋建設ではこれまで500人以上の出所者を受け入れてきた。そこに、ざっと2億円以上は使っている。
前出の山村さんは殺人未遂を犯し、懲役6年で栃木県の刑務所に収監された。だが出所が近づくにつれ、出所後の生活で悩んだ。刑務所内にはわずかながら求人案内も出る。当初は農業関係の仕事をやろうかと考えていたが、困ったのが住所を持たなければ就職も決まらないことだ。
そこで北洋建設に手紙を出したところ、読んだ小澤社長が15年7月、面接に来た。そこで話す中、山村さんは「温かい人だ」と感じ、小澤社長は「この人なら間違いない」と判断したという。
16年5月。山村さんは出所し、そのまま北海道まで飛ぶ。もちろん、その旅費は北洋建設持ちだ。札幌駅では小澤社長が出迎えてくれた。
北洋建設には定員20人の社員寮がある。つまり住所を持てる。しかも3食付きだ。さらには小澤社長が身元引受人になってくれた。初出勤の夜、社員の有志8人が山村さんのために歓迎会を開き、ジンギスカンを腹いっぱいに食べさせてくれた。
北洋建設ではもちろん月給が支払われるが、特筆すべきは社員が「もういいです」と言うまでは、毎日2千円を別途支給し続けることだ。実際、この取材中も小澤社長は財布から2千円札を取り出して「はい」と山村さんに渡していた。
「お金があれば気持ちに余裕が生まれて、再犯が激減しますから」(小澤社長)
山村さんは今でも「心底、安心しました。僕は自分が犯した罪を一生背負っていきますが、この社長のためにも一所懸命働くぞと誓ったんです」と振り返る。
これは山村さんだけではない。どの出所者に対しても小澤社長の行動は変わらない。「仕事さえあれば、人は再犯をしないんです。特に出所者はもう刑務所には戻るまいと一所懸命働きます」ーー。
★続編⇒出所したらこんな会社で働きたいーー裏切られても元受刑者を採用する北洋建設社長「人間は絶対に立ち直る」
(取材・文・撮影/樫田秀樹)