今年1月30日、マツダは1920年の創立から100周年を迎えた。
数々の名車を世に送り出してきたが、実は100周年を迎えるまでには何度も倒産の危機に見舞われている。マツダは苦難をどう乗り越えてきたのか? モータージャーナリストの小沢コージが解説する。
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■"マツダ地獄"に落ちたワケ
今年1月30日をもってついにマツダ株式会社100周年! つくづく感慨深いぜ! なぜならマツダほど青くさくて面白く、波瀾万丈なニッポンのメーカーはない!とオザワは思うからだ。
それはさながら企業版『坂の上の雲』。広島の片田舎で生まれた小さなメーカーが幕末の志士のごとく、失敗を繰り返しつつ世界を駆け上がる物語なのである。
そもそも100年前、マツダは東洋コルク工業というコルクを作る会社だった。しかし1931年、2代目社長の松田重次郎が「自動車界の光明」たるべくゾロアスター教の光の神「Mazda」の名でオート三輪事業に乗り出す。
ところが第2次大戦の末期に広島に原爆投下。最初の危機に遭い、しかしどうにか持ち直し、1950年代、3代目社長の松田恒次のときに軽自動車造りに参入する。
だが、ここで第2の危機に直面する。1961年に通産省が弱小メーカーを間引きして業界再編を促す「特振法案」を発表。急遽、恒次社長は対抗策としてドイツのヴァンケル社から当時夢の内燃機関といわれたロータリーエンジンのパテントを購入。数々の技術的難題を克服して1967年に世界初のロータリー車「コスモスポーツ」の発売にたどり着いた。
しかし1970年代の2度のオイルショックで燃費の悪いロータリーは大苦戦。再び倒産の憂き目に遭うが、今度は1980年、赤ボディで鮮烈デビューを飾った初代FFファミリアが大ヒット。久々に黒字化する。
だが、苦労話は終わらない。オザワが若かりし頃の1990年代には「マツダ地獄」という言葉が世の中を席巻! 当時のマツダ車は人気がなく、下取り査定額は驚くほど低かった。
それゆえ、一度でもマツダ車を買ったら、そのまま他社よりも高値をつけてくれるマツダディーラーで引き取ってもらい、同時に値引きのデカい新車のマツダを買う。この地獄のような負のスパイラルからマツダは抜けられなくなっていたのだ。
そして最大の失敗はバブル期の5チャンネル体制だ。国内の新車販売は出すクルマ出すクルマがバカ売れ状態となった。しかも、当時のトヨタが車種に応じて5チャンネル展開していたのを見習ったマツダは89年から「マツダ店」「アンフィニ店」「ユーノス店」「オートザム店」「オートラマ店」を展開。
その象徴が同年に出てバカ売れしたふたり乗りオープンのユーノスロードスターだが、そのほかにもミニバンの上に跳ね上げテントをつけたボンゴフレンディ、世界箱庭エンジンたる2リットルV6搭載のクロノスやら個性的にモデルが続出して超面白かった。ビジネス的には問題だが、イケると思ったらヤリすぎまでヤルのがマツダのスゴさなのである。
とはいえ、5チャンネル展開のツケは大きく、バブル崩壊とともに販売は一気に低迷。ディーラー固定費はかさみ、新車も思うように出せなくなり、フォードの出資比率が33.4%に引き上げられ、96年に事実上の子会社となる。
■フォード傘下時に多くを学んだマツダ
その苦労を現副社長の藤原清志氏は「フォード統治による抑圧に苦しんだのと同時に勉強になったことも多かった」と話す。要するに当時はフォード傘下にはマツダのほかに、ボルボ、ランドローバーもいて、毎年利益を持っていかれた上、強引なプラットフォーム共有化を迫られた。
具体的にはデミオを当時のフォードコンパクトと共有。それもエンジンは1.25リットル1種類で左ハンドル、ギアボックスはMTのみというムチャぶりだったという。
当時、藤原氏は商品企画本部長だった。このフォードの方針に不慣れな英語で徹底抗戦。「コーヒーカップをフォード開発陣に投げつけた」という伝説も誕生した。
だが、同時に光明も差し込む。フォードからマツダ開発部門トップに就任した英国人から「君たちは、何がマツダの魂だと思う?」と質問された。ここで開発陣は初めて、世界視点から見たときの己のセールスポイントを考え始めることになる。
その結果、80年代に大ヒットしたキビキビハンドリングの赤いFFファミリアを象徴とし、今も続くマツダの「ズームズーム(子供がクルマの走行音を表すときの英語表現)戦略」が本格化する。
具体的には心躍るデザインであり走りでありモノづくりだ。それから己の特長を自らが把握し、強調するセルフブランディングを覚えたし、マツダの規模ではフォードのような数の論理を振りかざす経営ではやっていけないことも理解する。
そしてマツダが掲げたのが「世界2%戦略」。世界市場の2%を確実にとりにいくという考え方だ。バブル期に失敗したような、年間生産1000万台のトヨタと同じ数の戦略は決して取らない。
それが今のマツダを支える「一括企画」「コモンアーキテクチャー構想」「フレキシブル生産構想」なのである。具体的には一括企画は5年から10年先まで見据えて開発プランを練る手法で、コモンアーキテクチャーはサイズの違うコンパクトカーから大型SUVまでを同一特性で効率よく開発する。フレキシブル生産構想は、ひとつの生産ラインでいろんな車種を造る。
要するに、多車種を少量ずつ効率よく生産するマツダ独自の方式を開発した。例えば現在マツダのAWDシステムはほぼ全ラインナップに搭載されているが、ハードウエアとしては2種類しかなく、設計の考えに関しては1種類しかない。まさに"クルマ金太郎アメ大作戦"であり、それこそが今に続くマツダのプレミアムブランド戦略の本質だ。
■販売不振でも値引き販売は控える
結果、2012年には新商品群第1弾たるSUV、初代CX-5が生まれて大ヒットする。このときに生まれた"魂動(こどう)デザイン"や"低圧縮ディーゼルエンジン"はスゴかった。欧州車並みのエレガントなプレミアム感に、燃費性能こそハイブリッドに一歩負けるがパワー感で上回る画期的なパワートレインが生まれた。
そして、マツダは14年から18年まで5年連続で世界販売を更新する快進撃を披露。特に18年は圧巻で、161万台を売り過去最高をマークした。
同時に重要なのは、値引きを基本的にしないという決断である。かつてマツダ地獄といわれたのは直近の成績を伸ばすために安易に値引いた結果だ。
特にマツダのような中規模メーカーが値引き勝負に出ればデカいメーカーに必ず負ける。それより世界の2%でいいので、マツダらしい商品を造りファンを着実に増やす。細かい改良を頻繁にやって新車価値を維持する。それこそがマツダの新プレミアムブランド戦略なのだ。
しかしである。値引きを控えたり、戦略ミスもありで、昨年のマツダの世界販売は149万台となり久々の前年比割れとなっているのも事実である。
ただ、値引き控え戦略は青くさい理想主義だと言う人もいるが、踏ん張るところは踏ん張り、直すべきところは直せばいい。今こそが成功と失敗を繰り返してきた広島流理想主義メーカー、マツダの正念場なのかもしれない!