世界最大の自動車メーカーであるトヨタの勢いがマジでハンパない。4~6月期決算で過去最高営業益を叩き出し、新車を出せばどれも爆売れ。加えてモータースポーツも絶好調。
そんなトヨタを束ねる若きトップ・佐藤恒治社長が歩んできた道とは? 自動車研究家の山本シンヤ氏が聞いた。
■初めてつくった部品はカローラのチルトレバー
――子供の頃からクルマは好きでした?
佐藤 もちろんです。トヨタに入っていますしね。ただ、「クルマに乗って、走って、楽しみたい」という気持ちもありますが、私はそういうクルマをつくりたいんです。
――それは学生時代から?
佐藤 そうですね。大学時代はエンジンの研究をガッツリとやっていたので。当時はディーゼルエンジンでメタノールを燃焼させ、その環境影響を見ていました。
カーボンニュートラルの技術の先駆けというか、そういう使命感もありトヨタに入社しました。でも、一秒もエンジンなんてやらせてもらえず(苦笑)。
――最初の配属先はどちらで?
佐藤 アドミ(アドミニストレーション=管理)部門に配属されました。今となっては、自分のキャリアにとって大きな一歩ですが、エンジンの技術者になりたくてトヨタに入ったのに、現実は技術管理部という管理部署に配属されましたから......ショックで。
――技術管理部の上司を覚えていますか?
佐藤 内山田竹志(うちやまだ・たけし)さん(現トヨタ自動車エグゼクティブフェロー)です。
――内山田氏は、世界初の量産HEV(ハイブリッド)「初代プリウス」の開発を指揮された方です。
佐藤 内山田さんはもともと振動実験の権威というか、技術屋として、とても実力のある方です。当時は管理部署で技術部門の業務改革のリーダーでした。
ただ、内山田さんは自らのセンサーを鈍らせないようにと、週に2、3回は他社も含めいろんなクルマに乗っており、そのクルマを取りに行くのが私の役目でした。
――つまり、最新のクルマに乗り放題だった?
佐藤 クルマを取りに行くのを口実に、テストコースで、スゴい数のクルマに乗せてもらい、気がついたら「自分の思うクルマをつくってみたいなぁ」と。
そしてあるとき、内山田さんから「君はたぶんエンジンは向いてないと思うから、チーフエンジニア(以下、CE)を目指したらいいんじゃない?」と。今振り返ると、完全にここが私のターニングポイントですが、当時は「えー、マジですか(泣)」と。
――技術管理部で得たものはなんですか?
佐藤 トヨタがどういうメカニズムでクルマをつくっているのかを理解しましたね。
――そして、次はシャシー設計部に異動します。
佐藤 内山田さんから「CEを目指すなら車両運動を理解しないとダメだから、車両運動の基本のシャシー設計で修業を積んでこい」と。
――初めてつくった部品は?
佐藤 カローラのステアリングコラムのチルトレバー(ハンドルの高さや角度の調節機能)。最初に自分が描いた図面の製品が完成したときはディーラーに行き、「ついてる! うわー、ついてる!」ってひとりでニヤニヤしながらずっと見ていました。
■すべてが変わった、豊田章男氏の言葉
――入社後は順風満帆?
佐藤 いいえ。例えば、シャシー設計でサスペンションロアアーム(車の足回りを構成する骨組みのひとつ)を描いて、溶接の指示や溶接記号を図面に入れて出力します。すると後日、「佐藤っているか? ちょっと来い」と現場の工場から呼ばれて。
足を運ぶと、20人ぐらいの熟練の親方たちが待ち構えており、「この図面を描いたのはおまえか? 溶接記号あるだろ? これで溶接してみろ」と言われ、そこで気がつくんです。「あっ、溶接記号が間違っている」と。
――親方たちの口からはどんな言葉が?
佐藤 真剣な顔で、「この図面が俺たちのすべてだ。モノづくりをする基準になるんだ。おまえがこの図面の記号を間違えるだけで何が起こるかわかって図面を描いているのか? ロアアームは、お客さまの安全を守っている重要保安部品なんだぞ。中途半端な気持ちで図面を描いてはダメだ!」と。
――現場で勝手に直せるはずですが、親方たちはあえてそれをしなかったわけですね。
佐藤 現場にモノづくりを教わり、図面に思いを込めることを学んだ。同時に、「人がモノをつくるんだ」と知って、グッときましたよね。
――続いてカムリを担当します。これはシャシー設計?
佐藤 製品企画ですね。
――そこではどんな仕事を?
佐藤 下働きです。一日中、部品の質量をエクセルに打ち込み、認証届出資料を作成し、試験車の洗車など、このへんのことを全部やる。
――僕は若い頃、某自動車メーカーに勤めていたんですが、まったく同じことをしていましたよ。
佐藤 逆に言うと、そういう下積みをやったことで、CEごとにクルマのつくり方は違うとわかった。でも、共通する"トヨタらしさ"がちゃんとある。個性的な魅力をつくるには、意志や哲学が大事なのだと学びました。
――そしてレクサス時代。GS(3代目)を担当します。
佐藤 GSもカムリと同じく企画から立ち上がりまでやりました。途中でGSのチーフエンジニアが代わったところから番頭役をやって、次にLCの担当(CE)になった。
――GSは「3代目は必要か?」という議論が社内で巻き起こったそうで?
佐藤 今だから言える話ですけどね。最終的には私を含めた現場の情熱を章男さんが認めてくれて、「自分が責任を取るから、そこまで言うならやり切ってみろ。その代わり、"モリゾウ"が納得できる走りで、俺を笑顔にしてくれよ」と。
――その言葉はどう響いた?
佐藤 事業性だとか仕事のプライオリティを指摘する人が多い中で、トップが「俺を笑顔にしてくれよ」とさらりと言う。私はそのときの章男さんのひと言が本当に忘れられなくて。
こんなにクルマを愛していて、自分が責任を負ってでも、挑戦をさせてくれ、クルマ産業の未来も考えている。そんな人が託してくれたチャンスってスゴいなと。その一方で、自分の視野は狭かったなと。それに気づかせ、でもやる気は失わせず、チャレンジさせる。そこから自分の中ですべてが変わりました。
――このGSは2011年に米カリフォルニア州のペブルビーチで発表しました。
佐藤 ただ、GSはすごく悔しい思いをしました。試乗した米のジャーナリストから「boring(つまらない)」と言われてしまった。
歯を食いしばって、走りも頑張って、全部やって出したのに、そういう評価でした。でも振り返ると、「自分たちのこの前提条件だったらこれがベストだ」と最初から言い訳をしていた。「世界と戦うってそういうことじゃないんだな」と痛感しましたよね。
■会社人生が終わったと思うほど上司に怒られた
――そして、レクサスLCでCEになります。僕は12年の米デトロイトモーターショーを現地で取材しています。LCの源流となるコンセプトカー「レクサスLF-LC」を見て、「すっげぇ!」と皆驚いていた姿が今も印象に残っています。
佐藤 このモデルは、あくまでレクサスのデザインのアイデンティティを伝えることが目的でした。ところが、出展したら非常に評価が高かったので、後に引けなくなりGOサインが出ました。
――初のCEの心境は?
佐藤 最初は部下もおらず、私ひとりだけ。しかも、あのコンセプトモデルを市販化に落とし込むべく、トヨタが持つリソーセスを組み合わると、法規の条件を満たす前にクルマにならない......。新たな挑戦をするにしても、LF‐LCはあまりに物理量がぶっ飛びすぎていたんです。
――いきなり挫折ですね。
佐藤 それで、章男さんにできない理由を説明に行ったら、「わかっている。だからやるんだよ。できないからやる。それが挑戦なんだよね。だからまず自分を変えていくところからじゃないの?」と言われたんです。
――その言葉によって何か変わったことはありますか?
佐藤 そこがレクサスの大きな変化点だったと思います。もっといいクルマづくりに向けた仕込みが始まったんです。
――LCの開発で印象に残っている仕事は?
佐藤 まずはマスタードライバーとして章男さんに乗ってほしいと思い、手持ちのクルマとポンチ絵だけで先行試作車をつくったことですね。
――なぜ乗ってほしかった?
佐藤 クルマの動き、特にヨー(イング=旋回時にクルマの上下の軸に生じる回転挙動)方向の動きにリニアリティ(連続性)がないのがトヨタの課題だと思っていたので、試作車のアプローチはマスタードライバーの期待するような動きかどうか知りたかった。
ただ、上司に相談したら、「何を考えているんだ。まず危ない。こんな、切り貼りして、図面もなく、現場でつくったものに社長を乗せるのか? 安全上、配慮が足らない」と一蹴されてしまった。
――結局どうしたんですか?
佐藤 当時は東富士(研究所)で役員研修会という開発中のクルマに乗ってもらう研修があり、そのイベントに現れた章男さんに駆け寄って「LCの佐藤です。今日、乗ってほしいものがあちらに」と半ば強引に。
――豊田氏はなんと言った?
佐藤 まず、「このクルマのどこは評価しちゃいけないのかを教えてほしい」と言われたので、「見ていただきたいのはステアリングの切った量とヨーの動きのつながり、リニアリティだけです。こういうのがマスタードライバーの目指すクルマなのかどうか。それだけを知りたいので、あとは見ちゃダメです」と言ったら、「おお、わかった」と。
――先行試作車に乗ってもらえ、万々歳?
佐藤 そこに関しては......。でも、章男さんを勝手に乗せたことが、先の上司に知られてしまい、「俺の会社人生、ここで終わったかもしれない」と思うほど怒られました(笑)。
■佐藤社長が考えるトヨタの経営哲学
――2017年に常務理事、役員に昇格します。常務になりレクサスとGR(ガズーレーシングカンパニー)のプレジデントを兼務するようになっても、佐藤さんは佐藤さんのままで、常に誰とでも必ず同じ目線にいると感じていました。
佐藤 私はエンジニアであり続けたいんです。エンジニアリングに肩書の上下なんて関係ない。それに肩書は一時的なものであって、そのとき与えられた役割なだけ。佐藤恒治という人間は何も変わらない。そもそも私の根っこにあるのは「クルマが好き」というシンプルな思いのみ。クルマ好きな人に悪い人はいません。
――余談ですが、経済系の人は、豊田会長と佐藤社長の経営を比べたがります。
佐藤 都合10年以上、章男さんの下でずっとクルマをつくってきた。章男さんがどんなクルマをつくりたいか。章男さんが言う「限界を超える」って意味とは何か。
クルマづくりの現場で"章男流"が見えてきた。だから、そこが自分の軸になっている。商品を軸に経営するってどういうことか、十数年かけて伝承されています。私はそれを愚直に守り伝えていくだけです。
――トヨタの経営とは?
佐藤 トヨタの経営の根幹にあるのはクルマ。クルマへの愛や希望が一番強い人がリード役をやらないと会社全体がおかしくなっていっちゃう。「一緒にいいクルマつくろうぜ!」。それに尽きる。
――ところで、最初に買ったクルマはなんですか?
佐藤 学生時代はホンダ愛にあふれていたので(笑)、シビック(EF型)を買いました。ただ、仲のいい友達がAE86カローラレビンのGTVに乗っていた。
ふたりで「富士スピードウェイ」(静岡県小山町)のコース員のアルバイトをしていたので、2台で夜の国道246号線をひた走る。FF(前輪駆動)のシビックとFR(後輪駆動)の86を取っ換え引っ換えしながら走りましたね。そこが私の原体験かもしれません。
――入社後の愛車遍歴は?
佐藤 ハイラックスサーフ、先輩から中古で買ったクラウン、フォルクスワーゲンのパサート、スーパーストラットのセリカ、LC、そしてAE86レビンですね。
――確か4代目スープラもお持ちですよね?
佐藤 スープラは1993年製で元は義理の父が乗っていたものをもらいました。私がLCを開発することになったとき、義父が「俺のクルマを持っていけ。同じクーペだから、何か参考になるんじゃないか」と言ってくれて。レストアして今も元気に走っていますよ。
――AE86購入の経緯は?
佐藤 トヨタの先輩たちは、どんなクルマを世に送り出したのか。それを一度オーナーになって感じたかった。愛車の86は今工場でレストア中です。時間があったら本当は自分でやりたいところですが、本業があるので、プロにお任せしています。
―――レストアは進んでいる?
佐藤 これはエンジニアの性なのか、単なるクルマオタクなのかわかりませんが、パーツひとつひとつを愛でてしまうので、作業がどんどん増えている状況ですね。最近では「むしろ、いつまでも完成させない方が楽しみは続くかも?」と思っています。最近のルーティン? 夜中のネットオークション。愛車のパーツ落札に一喜一憂しています(笑)。
●佐藤恒治(さとう・こうじ)
1969年10月19日生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。92年4月にトヨタ自動車入社。レクサスのチーフエンジニアなどを経て、2020年1月レクサスインターナショナルプレジデント。同年9月ガズーレーシングカンパニープレジデント。21年1月に執行役員。23年4月より執行役員・社長に、6月より代表取締役社長
●山本シンヤ
自動車研究家。日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)会員。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。ワールド・カー・アワード選考委員。YouTubeチャンネル『自動車研究家 山本シンヤの「現地現物」』を運営