「今、現実に起こっていることを知って、今後に備えておくべき、ということを伝えたい。大切なのは構造を知ること」と語る井上氏

牛丼が食べられなくなる―。

そんなキャッチーなサブタイトルが目を引く衝撃の経済ルポルタージュ『牛肉資本主義』。著者はこれまでNHKで数々の報道番組を手がけてきたプロデューサー、井上恭介氏だ。

大国・中国の目覚ましい台頭により、世界の食材の流れが激変、その結果として引き起こされたマネーゲームの余波は、すでに日本の外食事情に少なからぬ影響を及ぼしている。牛肉をめぐって、“強欲化する世界”の現状と今後を聞いた。

―牛丼が食べられなくなるというのは身近なものですし、驚きました。なぜそのようなことが起こるのでしょうか?

井上 私は2008年のリーマン・ショック以降の世界的な金融危機の構造を探るため、当事者たちを徹底的に取材してきました。高度な金融工学によって構築されたはずの仕組みが一瞬で崩壊し、膨大なマネーの一部が消失した背景には、リスクヘッジのための仕組みが余計なリスクを抱え込んでしまうという「本末転倒」が起きていたのです。先進国による牛肉争奪戦においても今、実は同じようなことが起きているんです。

以前は、ほとんど豚や鶏しか食べていなかった中国内陸部の都市で、牛肉の需要が信じられないスピードで拡大し、それに合わせて牛肉輸入量が増大。投資で儲(もう)けたマネーを牛肉につぎ込む業者が次々に現れ、国内にステーキハウスを続々とオープンさせました。その結果、日本の輸入業者が「買い負ける」現象が起きているんです。

―井上さんが牛肉という題材に着目したのはいつ頃ですか?

井上 2014年にある商社の牛肉担当者を取材したのがきっかけでした。これまで買い負けることなどあり得なかった日本の商社が中国に押され、それまで注文していた量の数割しか確保できずにいる現実を目の当たりにし、衝撃を受けました。

ただ、誤解しないでほしいのは、本書では「明日にでも牛肉が食べられなくなるかもしれない」と言っているわけではありません。今現実に起こっていることを知っておき、今後に備えておくべき、ということを伝えたい。大切なのは構造を知ることですね。

―本書で気づかされるのは、「にわかバイヤー」や「にわかサプライヤー」が暗躍することでブームがつくられている、という現実です。

井上 にわかという表現はいささか失礼だったかもしれませんが、言い換えれば、中国で急に牛肉を買いあさり始めたバイヤーたちは目端(めはし)の利く人たちでもある。いち早くニーズの高まりに気づいて、供給を確保する。こうしたバイヤーがいることで、中国の人々はその時々に欲しているものを手に入れることができるわけですから、感謝すべき存在でしょう。

その陰では牛肉の価格が高騰し、何十年もずっと肉の目利きをしてきた日本の業者が、数の論理で買い負けてしまう現実があります。

ブレーキのない自動車でアクセルを…

―この牛肉争奪戦に関わる人々を、世界を飛び回って取材されています。最も印象的な取材地、取材相手は?

井上 一番はやはり、ブラジル内陸部の農家です。牛の飼料としても使われる、大豆の生産を手がけています。中国の爆食のおかげで農業開発が進んだセラード(ブラジル中心部にある草原地帯)に、東京ドームおよそ9800個分もの農地が広がっていて圧巻でした。小型飛行機で農地を空から見ましたが、行けども行けども同じ風景が続きます。

この一農家が、中国系企業や穀物メジャーを相手に価格交渉を有利に進めている。この光景に、まるでブレーキのない自動車でアクセルを踏み続けるような、グローバル資本主義の実態を目の当たりにした思いです。

―商社や農家など、それぞれの立場の懐に深く入り込んで取材されています。

井上 僕自身、決して語学が堪能なわけではありませんが、聞きたいことさえ明確にしておけば、意外と熱意はわかってもらえるものです。要は、問題意識が共有できれば、向こうも胸襟を開いてくれる。「そこまで熱心ならば、じゃあ見せてやろう」と。

実際問題、こうした牛肉争奪戦の舞台裏なんて、当事者にしてみれば知られたくないことのほうが多いと思います。語ってくれた真実は、こちらも不用意に小出しにするようなことはせず、機が熟した時点で一気に出す、という方針で取り組んでいます。

―そうした取材の結果、牛丼をめぐる思いがけない資本主義の実態に迫ることができたと。

井上 この本に書かれていることは、NHKの取材クルーが必死に集めてきた「リアル」であって、何ひとつとしてウソや誇張はありません。今回は僕がたまたまそれを本にまとめたにすぎません。皮肉ですが、取材でリアルをかき集めていくうちに、実体経済とはかけ離れたマネーゲームのバーチャルな側面が浮き彫りになっていきました。

―たまたま牛肉がその対象となっていますが、今後、他に飛び火し、同様の現象が起こることもあり得そうですね。

井上 もちろんです。経済というのは全てつながっていて、それを我々はグローバリズムと呼んでいるわけですから。まだ表面化していないだけで、次の動きもすでに始まっていると思いますよ。

お金を出して買う食糧だけではない

―このまま中国の“爆食”が続いた先、日本の食卓はどうなってしまうのでしょうか。

井上 それを予想するのは難しいですね。というより、予想もつかない未来が待っている可能性があるので、今のうちからシミュレートしておく必要があると思います。もし、牛丼1皿の値段が爆発的に跳ね上がって、庶民の手には届かない食べ物になってしまった時、やみくもに慌てるばかりではいけません。

―食糧をめぐるマネーゲームに抵抗するためには、自給率の向上が問題解決に直結する?

井上 そう思います。ただし数字で見える部分、つまりお金を出して買う食糧だけが、その対象ではないと私は考えています。例えば、隣の畑で取れた野菜をお裾分けしてもらって食べる。これだって自給の一部です。輸入国、輸出国といった外面だけに惑わされず、それは自分にとってリアルなものかどうか、本質的にとらえる必要があるでしょう。

本当の意味での自給率は、着眼点次第でもっと上げていけるはずなんですよ。そのヒントが里山資本主義、里海資本主義にあると思うんです。

(インタビュー・文/友清 哲 写真/山本尚明)

●井上恭介(INOUE KYOSUKE)1964年生まれ、京都府出身。NHKエンタープライズ、エグゼクティブ・プロデューサー。87年、東京大学法学部卒業後、NHK入局。報道局、大型企画開発センター、広島局などを経て現職。ディレクター、プロデューサーとして報道番組の制作に従事。主な制作番組にNHKスペシャル『マネー資本主義』『里海 SATOUMI 瀬戸内海』などがある。藻谷浩介氏とタッグを組んで取材・制作した広島局時代の番組をまとめた書、『里山資本主義』(角川oneテーマ21)は40万部を超えるベストセラーに。かつて人間が手を入れてきた休眠資産を再利用し、原価0円からの経済再生とコミュニティ復活を提言する

■『牛肉資本主義牛丼が食べられなくなる日』(プレジデント社 1500円+税)今や国民食のひとつともいえる牛丼。しかし日本で今、「牛丼が食べられなくなる」という信じ難い事態が起こり得ることを知っているだろうか。その原因をつくっている正体は、リーマン・ショックの後、息を潜めたかに見えた「マネー資本主義」だった―