「ディスカウント戦争のとき、モスは価格に価値を求めるのではなく、品質に価値を求める『バリューフォークオリティ』の道を選んだのです」と語る櫻田厚会長

わずか2.8坪の小さな店舗から始まり、今や業界第2位のハンバーガーショップにまで成長したモスバーガーが、今年で創業50周年となる。創業期からモスバーガーに携わってきた櫻田厚会長を直撃した。

■人気バーガーの開発秘話が次々と!

――創業50周年、おめでとうございます!

櫻田 ありがとうございます。『週刊プレイボーイ』といえば、私が中学生のときに創刊されてますよね。よく見てましたよ。もう愛読誌といっていいくらいに(笑)。

――本当ですか!

櫻田 ただ、自分では買えなかったので、友達から回してもらったり、兄の見たやつをかすめたりしていました。当時は水着のグラビアでさえ、「おお、すごい!」って。そういう時代でしたから。

――会長、一気に親近感が湧いてきました! さっそくですが、まずはモスバーガーに携わるようになったきっかけからお願いします。

櫻田 私が高2のときに父親が急死したんです。それで大学進学を断念して、家計を支えるために高卒で働きに出ました。それから2年くらいたったときに、私の叔父でもある創業者(故・櫻田慧[さとし]氏)から、「ハンバーガーの店を始めるので手伝ってくれないか」と誘われまして。

――それで、すぐ入社されたんですか?

櫻田 最初はアルバイトで入りました。というのも、社員より給料が良かったからです(笑)。創業の翌年(1973年)から本格的にモスバーガーを手伝うようになりましたが、社員だと月給が6万7000円くらい(注・73年の大卒初任給平均は6万2300円)。ところが、アルバイトだと時給210円で、休みなしで一日16時間くらい働くと月給が10万円を超えるんですよ。

――一日16時間労働って今なら完全にアウトです! 最初はどういう仕事を任されたんですか?

櫻田 全部です。開店準備から仕込みから製造から接客から最後の掃除まで、すべてをやって一人前ですから。

創業期のモスバーガー1号店。青果店の倉庫を改築した店舗は、わずか2.8坪でカウンター席が5つという小ささだった

――なるほど。ひとりですべてをやるとなると、一日20時間働いても足りなくなりそうですね。

櫻田 私は今でも働き始めた初日の朝が忘れられません。6時に店に入って、創業者と一緒に開店準備を終えたのが6時45分くらい。開店が7時なので少し休憩ができるかなと思ったら、創業者が「店の前の道路を見てごらん」って。

道端にはたばこの吸い殻や枯れ葉などのゴミが散乱していて、それをよけるように通勤・通学の人が歩いていました。それを見ながら創業者が「道をきれいにしておいたほうが気持ちよく歩けると思わないか?」って。それ以来、朝の開店準備を終えてから必ず店の向こう三軒両隣を掃除するようになりました。

――そうなんですね。

櫻田 それから1、2ヵ月たつと、「おはようございます」とか「ご苦労さまです」とか通りがかる人たちから声をかけられるようになって、次第に地元の方々と自然にコミュニケーションが取れるようになっていったんです。

――すごい! まさにモスが目指している地域密着のお手本のようです。

櫻田 掃除って全身を動かすじゃないですか。それって無意識のうちにウオーミングアップをやっているようなものなんですよ。ラジオ体操と同じ。だから、開店と同時にしっかり動けるんです。

――そんな効果まで!

櫻田 これはモスの伝統になっていて、全国で開店前に店舗の向こう三軒両隣の掃除をしています。

72年に開店した成増(東京都板橋区)にある1号店のチラシ。創業当時の値段はモスバーガーが120円、コーラは60円、ソフトクリームは60円だった

――ほかに当時のエピソードはありますか。

櫻田 70年代の日本はまだハンバーガーの認知度が低かった時代です。1号店は2.8坪の小さなお店で、屋台か何かと思われたのか、「たこ焼きください」とか「焼きそばある?」とか、お客さまに言われることがちょくちょくありました。「いや、これはハンバーガーです」と説明すると、きょとんとした顔で「じゃあ、いいや」って(笑)。

――それほどハンバーガーの認知度が低かったんですね。

櫻田 また、私が1号店の店長だった頃は、昔でいう駄菓子屋のように小中学生がよく集まっていました。そうすると、親御さんが店に電話してきて「うちの子は来てませんか?」って。「はい、来ています。すぐ帰るように伝えますね」といったこともよくありましたね。勉強を教えたり、テストのアドバイスをしたこともありますよ。

――ハンバーガーショップの枠を超えた、家庭のような店舗です! モスバーガーはもともとアメリカにあるハンバーガーショップの商品に感銘を受けた創業者が、日本風にアレンジしたものだと伺いました。

櫻田 そうなんです。創業者が証券マン時代に食べていたアメリカの「トミーズ」というお店のハンバーガーが抜群においしくて、なんとかこれを日本で作れないかと。

それで、現地で修業をさせてもらって、ノウハウを日本に持ち帰ったんです。もっとも本家はチリソースなんですが、老若男女を問わず多くの人に食べていただくためにミートソースにアレンジしています。

■テリヤキバーガーは女子高生が広めた!?

――モスバーガーにかかっているミートソースの温度は85℃だとお聞きしましたが、理由はあるんですか?

櫻田 まずモスバーガーは構造的に、パティ(温)、オニオン(冷)、ミートソース(温)、トマト(冷)と、温かいものと冷たいものが交互に組み合わさっているんですね。そうすることで、お互いの個性を引き立てあって、おいしさのハーモニーを奏でるんです。

創業期のモスバーガー。当時は現在よりも香辛料が強めでスパイシーなソースを使用。パティも牛豚合いびき肉(現在は牛ひき肉)だった

――なるほど。

櫻田 その上で100℃だとヤケドをしてしまいますが、60℃だと明らかにぬるいんですよ。また、おいしさを程よく引き出すのは85℃だという説もあり、ミートソースの温度は85℃にしています。

――次にテリヤキバーガーの誕生秘話を教えてください。

櫻田 創業2年目の73年、日本人であることに強いこだわりを持っていた創業者が、味噌と醤油という日本の象徴ともいえる調味料を使ってソースを作れないかと考えたんです。ハンバーガーの定番であるトマトケチャップはアメリカが発祥ですし、モスのミートソースはヨーロッパが発祥です。だからこそ、あえて和の味のソースを使いたかったんだと思います。

73年5月に発売された創業期のテリヤキバーガー。当時のソースはみたらし的で味噌の風味が前面に出ており、かなり濃厚な味だった

――試行錯誤の末、今では定番となっていますが、チェーン店では日本初のテリヤキバーガーが誕生!

櫻田 正直、最初はあまり売れなかったんです。食べ慣れない味というのに加えて、テリヤキが魚の「照り焼き」をイメージさせたからです。あるとき、お店に来ていた女子高校生が売れてないという話を聞きつけて、だったら宣伝してあげるということで、学園祭で配ってくれたんです。そこから徐々に火がついてモスの人気商品となりました。

――では、お米をバンズにするという、前代未聞のライスバーガーはどのようにして誕生したのでしょうか。

櫻田 もともとは日本で米離れが問題視されていた80年代に、農林水産省から「米を使った商品を作ってもらえないか」という打診を受けたんです。それで、天むすをヒントに考え出されたのがライスバーガーでした。

――まさかの天むす!

櫻田 ところが、バンズをお米にする方針は決まったものの、ライスプレートの開発が大変だったんですよ。固めすぎると粒感がなくなり、柔らかすぎたらボロボロになってしまう。ちょうどいい硬さでつなぎなしでライスを結着させるまでに丸2年かかりました。87年の発売当時は、「画期的である」という声と「バンズがお米?」という声が半々でしたね。

――とはいえ、バンズをお米にしたことで、あらゆるおかずを具材にできるという可能性が広がりましたよね。

櫻田 結果的にそうですね。

87年12月に発売された初代のモスライスバーガー。直火焼きのつくねに、ソテーしたタマネギとインゲンをライスプレートで挟んだ逸品!

――97年に創業者が急死。翌年に47歳の若さで社長に就任されました。そのときのご心境はいかがでしたか?

櫻田 一代でモスバーガーを築き上げたカリスマ創業者が亡くなって、社内は大混乱に陥りました。そんななかで社長の打診を受けて、最後の最後まで悩みました。受けるべきか、それとも受けずにモスを去るべきか......。

――究極の二者択一ですね。

櫻田 取締役会で結論を出さなければいけない日の前夜、実家近くの池上本門寺(東京都大田区)へ行って、境内のベンチで深夜3時ぐらいまで考えました。「このまま断るのは無責任だな。でも、この大混乱を立て直すのは難しいよな」と。最終的には、創業者の思いを誰よりも知る人間として腹を決めました。

1991年2月に海外本格出店となった台湾にて。その責任者時代に現地で創業者の故・櫻田慧氏(右)と

■ディスカウント戦争で値下げをしなかった理由

――90年代後半にハンバーガーのディスカウント戦争が勃発。マクドナルドは一時ハンバーガーを59円まで値下げし、ほかのチェーン店も追随。それでもモスは一切値下げすることなく、独自の道を歩まれたのはなぜですか。

櫻田 当初は厳しい経営状況に追い込まれたのですが、「おいしくて体にいいものを作ることが、自分たちのアイデンティティである」という原点に立ち返りました。そこでモスは価格に価値を求めるのではなく、品質に価値を求める「バリューフォークオリティ」の道を選んだのです。

実はディスカウント戦争のとき、フランチャイズ店から「このままだと店が潰(つぶ)れませんか?」という不安をよく耳にしました。でも、「こういうときだからこそクオリティの高いものをきちっと出しましょう」と説得したのです。

――そうすれば、おのずとお客さんはついてきてくれるはずだ、と?

櫻田 そのとおりです。実際にそれを痛感するような出来事がありました。創業30周年のときに、290円のモスバーガーを90円下げて200円で売ったことがあるんです。これがものすごく売れたんですが、モスのファンの方からは大変なお叱りを受けました。

――どういうことです?

櫻田 モスはそんなことをするな、と。自分たちは値段が安いからではなく、おいしいからモスを食べているんだ。それよりも新商品を開発したり、居心地のいい空間をつくるとか、そういうものでお客に還元してほしい。要約するとこんな感じです。

われわれ以上に愛着を持ってくださっていて、それが大きな支えになったし、とても勉強になりました。モスは価格ではなく、クオリティ重視で間違っていなかったのだと。

――そんなことがあったのですね。最後に、読者に何かメッセージをいただけないでしょうか。

櫻田 何歳になっても好奇心を持つことですね。好奇心を持つことが、夢の実現につながっていくと思います。また、毎日が好奇心で満ちあふれている人ほど、楽しい人生が歩めるような気がします。私は引き続き『週刊プレイボーイ』を愛読しますので(笑)、ぜひモスバーガーもよろしくお願いします。

ざっくばらんに話をされる櫻田会長。インタビューで驚いたのは記憶力のすさまじさ。50年前のことを昨日のことのように語り、日付や名前もポンポン出てくるのがすごい!

●櫻田 厚(さくらだ・あつし)
1951年11月25日生まれ、東京都出身。高校卒業後に広告代理店勤務を経て、72年に「モスバーガー」の創業に参画。98年に代表取締役社長に就任し、14年より代表取締役会長を兼任。16年に代表取締役社長を退任し、20年より現職に