4月9日、戦後初の学者出身者として植田和男氏(71歳)が日本銀行の総裁に就任した。
およそ40年ぶりの物価上昇率に加え、海外では大手銀行が破綻したりと、経済の先行きは不透明。だからこそ、総裁交代によって何が変わるのかは理解したいところだ。しかし、経済ニュースは専門用語も多く、とにかく難しい!
そこで、エコノミストの崔真淑(さい・ますみ)氏に、知識ゼロからでもわかるように日銀総裁交代の解説をお願いした。
■異例の金融政策をどう継ぐかが焦点
――まずそもそも、日銀総裁交代はなぜ大きなニュースになっているんですか?
崔 日銀総裁には5年の任期があり、前任の黒田東彦(はるひこ)氏(78歳)は過去最長の2期10年を勤め上げ8日に退任しました。そこで植田氏に白羽の矢が立ったわけですが、注目される最大の理由は前任の黒田氏が行なった政策の出口戦略です。これが理解できれば、このニュースの全体像はつかめます。
――では、黒田時代のおさらいからお願いします。
崔 まず、日本は長らくデフレに苦しんできましたよね。ここに問題意識を持ち、「物価を上げれば経済も良くなる」と考えたのが黒田氏でした。そこで彼が行なったのは、世界でも例のない金融政策。世に言う異次元緩和ですね。
――異次元緩和って、具体的に何をやったんでしたっけ?
崔 いい質問です。大きく3つの施策に分かれるのですが、ここが多くの方がつまずくポイント。なぜなら、異次元緩和の説明には金利の話を避けては通れないからです。
――金利......。ニュースではよく聞くけど、いまいちよくわからないんですよね。
崔 普段の生活ではなかなか実感できないですもんね。しかし、日銀を理解するには金利の知識が必要不可欠。逆に言えば、金利さえわかれば、怖いものはあまりありません。ですので、ここからは基本に立ち返ってみましょう。
――お願いします!
■金利って結局、何?
崔 金利とは、借りたお金に対する利息の割合のことです。で、ポイントは、日銀の主な仕事が金利を操作することだという点。さまざまな働きかけをして、日銀は金利を適切な値に調節しているのです。
――それって、そんなに大きな効果があるの?
崔 これが大ありなんです。そのメカニズムをこれから説明しましょう。
例えばわれわれがお金を借りる場面を考えてください。住宅や自動車のローンを組むとか、クレジットカードのキャッシングを利用するのもそうですね。このときの貸出金利は事実上、日銀が決めているといえるんです。
――ん? 金利は銀行やカード会社が決めてますよね。
崔 最終的にはそうです。ただ、各社の金利の差はごくわずかですし、しかも金利が上下するタイミングはほぼ横並びだったりします。これは、日銀の決定を基に各社が金利を決めてるからなんですよ。
――なるほど! となると、大本の日銀は何の金利を決めているんですか?
崔 日銀が決めているのは、世の中の銀行同士がお金を貸し借りするときの金利です。
――例えば、三菱UFJ銀行と三井住友銀行がお金を貸し借りしてるってこと?
崔 はい。金融機関は日々互いにお金を融通しており、日銀はこの金利を決めているんですね。翌日に返済されるこの金利は短期金利の代表例で、日本で長く続いている「ゼロ金利」は、この短期金利をゼロにすることを指します。
――銀行はゼロ金利でお金を借りて、それをどうするの?
崔 銀行にとってお金は商売道具、つまり商材ですから、日銀がゼロ金利にすれば商材を安いコストで仕入れられます。これなら、貸出金利を低く抑えることができますよね。
――つまり日銀は人々にお金を借りやすくさせ、ひいては経済が活性化することを狙ったと?
崔 そのとおりです。これで異次元緩和は半分以上理解できてます。が、もう少しだけ金利の話をさせてください。実は異次元緩和の対象となる金利はもうひとつあるんです。
――というのは?
崔 それが長期金利です。国債の中でも、10年で元本が返ってくる「10年国債」の金利のことで、日銀は10年国債の売買に参加して金利を0%付近に抑え込んできました。
――この長期金利はわれわれの生活にどう影響する?
崔 長期金利を参考にした金融商品がいくつかあって、例えば企業が資金調達のために発行する社債はその一例です。このほか、固定金利型の住宅ローンは10年国債を基に金利を決めます。
――あれ? 短期金利が住宅ローン金利に影響するってさっき言ってましたよね。
崔 はい。ややこしいのですが、固定型の住宅ローンは長期金利に、変動型は短期金利に連動しています。が、長短金利の違いまで頭に入れようとしなくて大丈夫。とにかくここで覚えてほしいのは、長期金利にせよ短期金利にせよ、上がったら景気が冷え込む方向に作用するということ。
――だからこそ、日銀は金利をとにかく抑え込んでいたと。
崔 そうです。その上日銀は、世界的にも例のない株式ETF(上場投資信託)の買い入れを実施して、株価に影響を及ぼそうとしました。企業の株式での資金調達を助けるのが狙いです。ただ、買い入れをしすぎて、今は売るにも売れず困っているという負の側面もあります。
まとめると、①短期金利の引き下げ、②長期金利の引き下げ、③ETFの買い入れ。この3つが、異次元緩和の中身です。
■正常化は針の穴に糸を通すようなもの
――異次元緩和は成功だった?
崔 評価できる点として、目標の物価上昇率2%を一応達成しました。賃金も上がりつつあります。ただし賃金上昇はまだ部分的で、株価が上がったことでかえって格差が広がったという批判もあります。
――手放しに評価はできないんですね。さて、そこで気になるのが新総裁です。異例の金融緩和を植田総裁はどうするつもりなんでしょうか?
崔 もちろん、ゆくゆくは世界標準の金融政策に戻すでしょう。とはいえ、すぐに手を打つことはないはずです。
――そんなに悠長に構えてて大丈夫なの?
崔 むしろ、急いで正常化するほうが危険です。
金利の話を思い出しましょう。金利を上げれば借金がしづらくなりますから、景気に悪影響が出ます。また、抱え込んだETFを売れば株価は下がりますから、これも景気にマイナスとなります。
――でも、世界の中央銀行はインフレに対して金利を上げて対応してますよね。なぜ日本ではそうしないの?
崔 鋭い質問です。確かに、利上げは物価上昇を抑える効果があります。なので、金融政策を正常化させるのが本筋でしょう。しかし、日本は経済が本調子に戻ったとは言い難く、ここで利上げをすると副作用が大きすぎるんです。
要は、日銀は本当は金融正常化をしたいんだけど、今はそのタイミングではないということ。日本経済を壊さないように正常化を進めるのは、いわば針の穴に糸を通すような難題なんです。
――植田さんはよく引き受けましたね。
崔 噂では、黒田総裁と共に異次元緩和を推進した雨宮正佳(まさよし)前副総裁が後任の本命だったそうです。ところが雨宮氏が固辞したことで総裁人事が混迷に陥り、植田氏にお鉢が回ったんだとか。植田新総裁は、異次元緩和の手じまいが至難の業であることは承知の上で、火中の栗を拾ったのかもしれません。
――なるほど。
崔 植田総裁は学者出身で、金融の学識は国内でも随一。むちゃはせず、賃金と物価の両方がマイルドに上昇したのを確認して初めて、本格的に正常化に着手するはずです。
■今後も円安が続きそう
続いて、生活への影響面について、経済評論家の鈴木貴博氏に伺った。
* * *
――総裁の交代でわれわれの生活に変化はありますか?
鈴木 当面は黒田時代の政策を維持するので、すぐに変化があるわけではなさそうです。
となると、われわれの生活に影響を与えるファクターは大きくふたつ。ひとつは円安です。現状の金融緩和が続けば円安につながりますからね。
――もうひとつは?
鈴木 これは可能性レベルの話ですが、痛みを伴う金融正常化も想定しておいたほうがいいでしょう。もしこの先、インフレが想像以上に急激に起これば、植田総裁は金利を上げざるをえませんからね。
――具体的にどんな影響が?
鈴木 金融緩和が続くパターンから考えると、円安が進みますから、これは物価上昇につながります。エネルギー代や輸入品の価格はさらに上昇するのではないでしょうか。
――できる備えはある?
鈴木 銀行預金や日本株などの資産の一部を外貨や現物資産に換えておくことが有効でしょう。外貨なら、例えば証券会社で買える米国株や外貨MMF(安定運用型の投資信託)でOK。現物資産とは、賃貸に出せる不動産や金などの貴金属のことです。
――ほかにできることは?
鈴木 ちょっととっぴに聞こえるかもしれませんが、今のうちに借金をしておくことでしょうか。借りたお金を将来返すときには、お金の価値が下がっているので返済負担は軽くなっているわけです。すでに住宅ローンを固定金利で組んでいる人にとっては有利に働きますね。
――ほかに大きな影響がある人はいますか?
鈴木 円安や金利上昇によってプラスの影響、あるいはマイナスの影響がありそうな人は図表にまとめました。植田氏の動向は今後も注目ですが、明るい話ばかりではないので備えは今のうちにしておくといいと思います。