1983年、大学構内に貼りだされた企業の求人票に見入る学生たち。60代半ばに差し掛かるであろう彼らはいま、どんな働き方を選択しているのだろうか(写真:時事) 1983年、大学構内に貼りだされた企業の求人票に見入る学生たち。60代半ばに差し掛かるであろう彼らはいま、どんな働き方を選択しているのだろうか(写真:時事)

1980年代の日本は"バブル景気"に沸き立っていた。土地の値段が上がり、株価も暴騰していった。

家電メーカーや自動車、銀行、商社など日本企業が世界中で"ブイブイ"言わせていた時代――多くの会社が事業拡大、多店舗経営を目指した時に求められたのが勢いとパワーのある若手だった。

企業によっては前年比の2倍~10倍にものぼる人数の新人を採用したため、実際の実力以上の会社に入った新卒の学生がいた。それが"バブル入社組"だ。しかし、数年後に"バブル"が崩壊、日本中は一気に不景気になった。

1980年代後半の就職活動について、当時の大学生がこう振り返る。

「資料請求のはがきに履歴と志望動機を書いて200社くらいに送り、それが戻ってくるのを楽しんでいました」

インターネットがない時代、企業研究をしようとしても、材料は限られていた。

「大学の就職課にOBやOGの体験談が書いてあるノートがあって、就活日記みたいで面白かった。今のSNSみたいな感じかな」 

そしてまた、会社の若手が新入社員を選別する権利を持った"リクルーター"をつとめるケースも多かった。

「いろいろな先輩に『うちに来いよ』と言われて、どこの会社がいいかよりも、どの先輩と働きたいかという感じで考えていました」

ゆるゆるの就職試験を通過し、いくつもの会社から内定通知をもらう大学生は珍しくなかった。「5社以上からもらった」という大学生もたくさんいた。優秀な学生を取られたくない会社は文字通り内定者を"監禁"することが恒例行事となっていた。まだ携帯電話が普及していなかったため、身柄を抑えれば"勝ち"だったのだ。

あれから30数年が経った。当時、大企業にもろ手を挙げて迎え入れられた"バブル入社組"は50代半ばに差し掛かり、還暦がすぐ目の前に迫っている。

■バブル入社組が直面する現実

バブル崩壊後の"失われた30年"を経て、"バブル入社組"のうち、ある人は転職し、ある人は独立、またある人はその会社に居続けている。

本来であれば定年退職になるタイミング(多くの企業は60歳)で、2000万円とも3000万円以上とも言われた退職金を得るはずだった。ところが、退職金はスズメの涙で、定年退職後に再雇用されても年収は大幅ダウン。「息子の学費がかかるのに......」「親の介護で金が消えていく......」という人がたくさんいる。

50代で転職しようとしても難しい。ある企業の人事担当者はこう嘆く。

「経歴がきれいな人はプライドが高い。でも、望まれるほどの年収は出せません。自分の値打ちを知らない人がいるんですよ」

独立するには金がいる。転職は現実的でなく、会社での待遇は悪くなるばかり......それでも、まだまだ働き続けないといけない――そんな50代がたくさんいる。筆者は1989年に就職活動を行った"バブル入社組"のひとり。悩める50代の生の声を聞いた。

■38歳で会社をやめて弁護士を目指す

ひとりは、38歳から法律の勉強を本格的に始めた行政書士のTさん。

法学部の学生だったTさんはマスコミを志望していた。創業20年足らずの出版社に入ったものの、配属されたのは経理部。その後も総務部や営業の管理などを任され、気づいた時には30代半ば。40歳が見えるところに来て、会社を辞める決断をする。弁護士になるためだった。Tさんは言う。

「僕は人に評価されるのが大嫌い。仕事自体は好きだけど、人と一緒に働くことに向いていなかった」

会社員として貯めた資金を使って法科大学院へ。一日10時間以上も法律の勉強をする日々を送った。法科大学院に3年通い、卒業後に3回司法試験を受けたが、合格できず。6年目に行政書士資格を取得して、44歳で行政書士として独立した。

しかし、「資格」が勝手にお金を稼いでくれるわけではなかった。法律の知識はあっても、集客のノウハウがまったくない。Tさんの収入は、会社員だった頃の半分以下、同世代と比較すれば3分の1くらいだった。

Tさんは大手の行政書士事務所で"見習い"として修行することにした。そこでスキルを磨き、新たな知識を得て、49歳で再び自分の会社の看板を掲げることができた。

「相変わらず人と会うのは苦手だけど、交流会とかに出かけていくようにしました」と語るTさんは、ここ数年でやっと稼げるようになったと言う。

「まわりの先輩方を見ると、75歳くらいまでは現役を続ける人が多い。自分に置き換えると、あと20年くらいは働くことができる。士業の利点は、自分が得たい収入を考えながら仕事ができること」

そして「早めに引退したい」と言うTさんは、退職時期を自分で設定している。

「69歳までなら責任を持って仕事ができると思っています」

Tさんのように会社員としての仕事に疑問を感じ、外に世界に飛び出したいと考える人もいるが、それは簡単なことではない。Tさんは迷いながら会社に勤める人たちにエールを送る。

「基本的に、自分のやりたいことしか長く続けられないと僕は思っています。だから、『これをやるんだ。残りの人生でやり遂げるんだ!』という強い気持ちがないのなら、そのまま会社に残ったほうがいい」

■MBAを取得して会社を変えたい

もうひとりは、旅行会社に勤めながら、大学院でMBAを取得したFさんだ。

「会社に入ってからいろいろな経営者と接し、自分の知識のなさに気がつき、勉強することの大切さを痛感しました。30代半ばで勉強を始めて、40歳になる前に大学院に行きました。間違いなく忙しかったんですけど、学ぶということ自体に喜びを感じていました」

大学院で学んだ同期は起業したり、転職したり、多くがキャリアアップしているが、Fさんは新卒で入った会社で最後まで働くつもりだ。

「MBAを取得したあとも転職しなかったのは、会社をいい方向に変えたいと考えたから。今はラインに乗っているのか外れているのか、微妙なところですけどね」

Fさんは2030年にゴールが設定されているプロジェクトを任されている。

*  *  *

多くの会社員にとって、悠々自適の老後もハッピーリタイヤメントも、これからの日本では現実的ではない。だからこそ"バブル入社組"より若い世代にもしっかりと考えてほしい。「これからどうやって、働きながら生きるか」を。けっして他人事ごとではない。


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元永知宏著/野田稔監修 翔泳社刊 価格:1,760円(税込)
元永知宏

元永知宏もとなが・ともひろ

1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、出版社勤務を経て独立。著書に『期待はずれのドラフト1位』『敗北を力に!』『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)、『トーキングブルースをつくった男』(河出書房新社)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』『近鉄魂とはなんだったのか?』(集英社)、『プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話』(東京ニュース通信社)など

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