日野秀規ひの・ひでき
フリーライター、個人投資ジャーナリスト。社会経済やトレンドについて、20年にわたる出版編集経験を活かし幅広く執筆活動を行なっている。専門は投資信託や ETF を利用した個人の資産形成。
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上場企業の業績は3期連続で絶好調。なのになんでこんなに賃上げが広がらないの? 足を引っ張る"悪者"はどこにいる? 上場企業経営者、労働組合など、この問題に関わるあらゆるプレイヤーに総力取材して徹底的に考えた!
インフレが続いている。しかしインフレ自体は決して悪いことではない。日銀も政府も、物価上昇率2%を長らく目標として掲げてきたからだ。
ただし、インフレは低賃金と一緒に起きると問題になる。そのため岸田前政権は何度も賃上げの要請をしていたし、石破総理も所信表明演説でその方針を受け継ぐとした。
そうしたかいもあってか、6月には実質賃金(物価上昇率を加味した賃金上昇率)はプラスに転じた。ところが、この傾向は長くは続かない。6、7月はボーナスを出す会社が多かったことが大きく、その時期が過ぎた8月には再びマイナス0.6%に転じたのだ。
賃上げムードはこのまましぼんでしまうのだろうか? この問題を考える上で、不思議とほとんど議論されないことがある。賃上げの元手だ。
本題に入る前に、データを3つだけ見ておきたい。ひとつ目は、上場企業の業績である。2024年3月期の純利益は、なんと3期連続で過去最高益を更新する見通しだという。上場企業に限っていえば、懐は潤っているのである。
ふたつ目は労働分配率だ。これは企業が生み出した付加価値のうち、労働者にどのくらい還元されているかを示す割合である。
今年1月末に経済産業省が発表したデータでは、労働分配率は前年度比で0.3%低下している上、直近の推移を見ても、数値はじわじわ下がりつつある。朝日新聞の調査によれば、大企業に限ると昨年度は過去最低の水準に落ち込んでいたという。
では、企業の儲けはどこに消えているのか? そこで最後に示すデータは、配当を増やす上場企業の数だ。日経新聞の報道によると、25年3月期に増配を計画する企業は全体の約4割にも及び、これは過去最高だという。
配当総額も前期比8%増の約18兆円と、4年連続で過去最高となる見通しで、中には三井物産や森永乳業など、減益予想なのに増配する企業もある。
ここまでのデータを整理すると、上場企業は株主還元を優先するあまり、労働者への還元をおろそかにしているという仮説が浮かぶ。ならば解決策はシンプルだ。
インフレ中は上場企業は増配や自社株買いといった株主還元をやめて、その分の元手を従業員に割り振ればいいのでは? そんなアイデアを、パーソル総合研究所で研究員を務める今井昭仁氏にぶつけてみた。
「発想としては悪くないんですが、事はそう単純ではないんです。まずは、なぜ従業員より株主への還元が優先されるのか、そのメカニズムを説明しましょう」
企業の賃上げが遅れる一因は、労働組合の交渉力が弱いことだと今井氏は言う。
「例えばドイツでは、労使交渉において、伝統的にインフレ率を考慮した賃金上昇率を求めてきました。実質賃金マイナスとなる改定になりにくいわけですね。ところが日本ではデフレが続いたので、こうした意識が乏しい。労働者が個別で交渉することは可能ですが、そうする人はまだ少数派でしょう」
では、なぜそのお金が株主の元に行っちゃうの?
「前提として、株式会社は法的には株主のものです。そのため、経営者は原理的には株主のために行動する必要がある。ですから、従業員ではなく株主を優先するのは、その善悪はさておき、仕組み上は自然なことなのです。
もちろん、経営者は賃上げの必要性はわかっていることでしょう。ただ難しいのは、そのリターンを見積もり、株主に説明すること。となれば『還元を抑えて、その分を労働者に回す』という極端な選択肢はなかなかとりづらく、増配を実現しながら、その後賃上げも進めていくのが無難なのです」
つまり、悪いのは株主だということ?
「いえ、そうとは言い切れないでしょう。株主は制度の中でやるべきこと、合理的なことをしているだけですからね。自身がお金を出しているのですから、経営の改善を要求するのは自然なことです」
うーむ、完全に納得できるわけではないが、理屈はわかった。ここまでは上場企業の話だったけど、中小企業の賃金が上がらない理由は?
「インフレにより利幅が圧迫されたり、価格交渉力が弱いことで利益が出ておらず、そもそも賃上げの原資がない会社もたくさんあるでしょう。
ただ、事情はそう単純ではありません。日本の企業は、長く経済が低迷する中で社会的責任として雇用維持が求められてきました。そのため、業績が悪くても人員削減が難しい環境にありました。
また、お金を借りている銀行に対して迷惑をかけてはいけないという価値観もあり、苦しくても会社を畳みづらかった。その結果、経営が硬直化し、賃金を柔軟に上げるのが難しくなっているのです」
そして今井氏が続ける。
「賃金問題の議論では、株主や経営者を悪魔のように位置づける言説が散見されます。しかしそれは単純化しすぎていると思います。現状はすべてのプレイヤーが、それぞれ自分にとって合理的に振る舞っているんです。誰も悪さをしようとは思っていない。その結果膠着状態に入っているからこそ、この問題は難しいのです」
では、解き明かすべきは各プレイヤーの視点から見える合理性だろう。まずは、土木業界の労働組合関係者に話を聞いた。
「賃上げムードを受けて、うちの業界でも大企業との交渉に対する熱意は高まっています。ところが、成果ははかばかしくない。なぜなら大企業の経営陣は『1次請けには十分還元しているが、それ以降がどうなっているかは関知しておらず、介入もできない』というスタンスだからです。
私の体感では、職人さんたちにはほとんど賃上げの効果は波及していない。『大手が十分に賃上げをしたら、最終的には全体に波及する』と言う人もいますが、あまりに楽観的すぎるように思います」
これに同意するのは、埼玉県にある従業員20人程度の金属加工会社のA社長である。
「大手は自分たちのことしか考えてない。大企業と仕事してもどうせ買い叩かれるということで、自分の周囲でも受注を断る人が増えています」
ちなみに、賃上げはできた?
「できてないですね。私の会社は真鍮を扱うんですが、材料となる銅の価格が2年前に高騰し、大打撃を受けたからです。とても賃上げをするような懐事情ではありません。
とはいえ、うちの社員さんにはいい思いをさせたい。ベースアップの鍵を握るのは、納入先への価格改定が成功するか否かです。近く交渉する予定で、その準備を進めています」
原資として、現預金を使うという選択肢はなかった?
「検討はしました。ただ、うちは一時的に赤字になることもある。赤字の期でもボーナスは出してあげたいということもあって、断念しました」
一方、対照的なケースもある。茨城県で従業員数30人弱の金属加工業を営むB社長は、何度もベアを行なったという。
「この2、3年で基本給は3万円以上は上げたんじゃないかな。それとは別に、インフレ手当も月1万出してますよ。2年前に導入して、今も継続中です。なんでって? 人材の流出を抑えたいんですよ。優秀な人材をつなぎ留めるのに一番手っ取り早いのはお金ですからね」
原資はどこから?
「うちはお客さんに恵まれてて、価格交渉をしてもだいたいのんでもらえるんですよ。それで利益率も3割弱を維持できているので、ここから従業員への還元に回せています。人件費が増えた分、内部留保や設備投資に回せるお金は減りましたがね」
明暗を分けたのは、価格交渉力ということだ。これは多くの業界にいえることだろう。
製造業以外の経営者にも、賃上げ事情を聞いてみよう。東京都で従業員数50人ほどの不動産業を営むCさんの談だ。
「弊社は2022年に、7%ほどのベアを実施しました。建築資材の高騰という逆風があったのですが、コロナ禍でビジネスモデルを少し変えたことで、業績は好調です。
ただ、この決断に至るまではかなり悩みました。やっぱり、固定費が上がるというのは怖い。賃上げをしたところでどのくらい社員がそれを評価してくれるかもわからないし、パフォーマンスが上がる保証もないですしね。
正直、利益が出たときだけボーナスを増やすほうが楽だし、社員も喜んでくれます。それでも、物価が上がっている中で身の回りのことを気にせず、仕事に集中してほしいという思いで、ベアに踏み切りました」
続いて話を伺ったのは、東京・下北沢で世界各地の発酵食品を販売する「発酵デパートメント」の経営者・小倉ヒラク氏。これまで登場した製造業、不動産業とはまったく異なる特有の事情で賃上げの難しさに直面しているという。
「小売業を営む零細企業社長としていえるのは、間接税、中でも消費税の負担が大きすぎること。消費税は決算を締めた後に支払う必要がありますから、納税分の現金は社内にストックしておかなければならないんです。
常に資金繰りがカツカツな零細にとって、この制度設計は地味に痛い。食品小売業はもともと利益率が低い業態で、売り上げの5%が利益になればいいほう。うちの会社の場合、利益の半分以上が実質的に消費税に持っていかれているので、継続的にベアをするのは本当に厳しいですね」
大企業と下請け企業の取引関係は改善に向けた取り組みが進んでいるが、税制は現状に即しておらず、対応が遅れていると小倉氏は訴える。
「また、ベアをするとなると、地味に社会保険料の存在も大きいですね。ざっくり計算して、給与に2、3割ほど負担が上乗せされますから」
社会保険料などへの不満から、多くの社員を業務委託契約に切り替えた経営者もいる。ITベンチャーを3社経営するD氏は、一時期6人雇用していた正社員を、今はひとりまで減らしたという。
「社会保険料が高いのと、解雇規制が厳しいのが時代に合ってないんですよね。基本給は一度上げたら下げづらいし、業績が一時的に落ち込んだときに人を減らせないのはリスクが大きすぎる。
関われる時間や上げた成果に応じて臨機応変に給与を変動してもらえることに魅力を感じる人も一定数いますから、形式上退職してもらって業務委託に切り替えてもらいました」
ここまではすべて非上場企業の話だったが、多くの株主を持つ上場企業から見た景色はどうだろうか。東証プライム市場に上場するソフトウエア開発会社・サイボウズの青野慶久社長に、株主と労働者への還元のバランスについて聞いた。
「上場企業の経営者は、株を保有する機関投資家からプレッシャーがかかります。それと比べると、労働者からかかるプレッシャーは弱かったんですよね。
こうした構造があるので、どうしても株主に応えざるをえなかったということは一般論としてあると思います。うちの会社は株価ではなく、配当で応えるという方針を打ち出しており、納得できない方は株を手放してもらっても構わないと覚悟をしていますが。
最近の賃上げは経営者の意識が変わったというよりは、人手不足が大きいでしょう。実際、サイボウズからも『給料が倍もらえるから』といって外資系企業に転職した社員もいますからね」
では、社長的に一番効くプレッシャーのかけ方は?
「『仲間を誘って辞めますよ』って言われると困ってしまいますね(笑)。機関投資家に増配を迫られるよりもキツいかもしれないです」
ここまで経営者と労働組合の立場から見た、賃上げのジレンマを見てきた。冒頭の今井氏の言うように、確かに"悪魔"は存在しない。ただ、製造業の例のように、大企業に利益が偏っている実態はありそうだ。今後は取引先や労働者が交渉力を高めなければならないだろう。
とはいえ、膠着状態が続いているのも事実。それを打破するには、外からの働きかけも必要だ。この状況を石破政権は変えることができるか? 真価が問われている。
フリーライター、個人投資ジャーナリスト。社会経済やトレンドについて、20年にわたる出版編集経験を活かし幅広く執筆活動を行なっている。専門は投資信託や ETF を利用した個人の資産形成。
X【@kujiraya_fp】