1月5日にスタートしたNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』(主演:岡田准一)。これは戦国時代から江戸時代初期にかけての乱世を生き、“戦国最強のナンバー2”と呼ばれた武将・黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)の物語だ。

しかし、織田信長や豊臣秀吉ならいざ知らず、黒田官兵衛がどのような人物だったのか、詳しく知らない人も多いだろう。そこで、NHK Eテレ『高校講座世界史』のメインMCを務める“歴ドル”の小日向えりちゃんに、“軍師・官兵衛”とはどんな男だったのかを教えてもらった。

そもそも、なぜ“最強のナンバー2”と呼ばれたの?

「官兵衛は、戦国の三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)に仕えていました。また、生涯五十余の戦(いくさ)でも負け知らずでした。プロ野球でたとえれば、楽天のマー君(田中将大投手)ですね。マー君が投げれば勝つ。官兵衛がいれば勝つという信頼感があったのでしょう。マー君は表のエースですが、官兵衛は陰のエースといったところでしょうか。そのため“最強の軍師”“最強のナンバー2”と呼ばれています」

五十戦以上無敗とは、まさに最強の軍師。よっぽど恐ろしい豪傑かと思いきや、実は官兵衛の戦術は「戦わずして勝つ」だった?

「“戦わずして勝つ”というのは、孫子の兵法の中でも上策とされていますが、官兵衛もそれを実践していました。『鳥取城の渇え殺し(飢え殺し)』は有名です。鳥取城に米が行かないように、戦の前に鳥取周辺の米を高値で買い取っていました。また、同時に陸上や海上を封鎖し、米が運び込まれないようにもしていました。そのため鳥取城は兵糧が尽き、半年で落城しました。

また、『備中高松城の水攻め』も有名です。高松城は山城ではなく、沼地の低い土地に建てられていました。そして、三方が山に囲まれ、足守川が近くを流れていたため、堤防を造り、川の水を高松城へと流し込んだのです。季節が梅雨だったこともあり、すぐに城の周りは湖のようになりました。こうして官兵衛は戦わずして勝っていきました。もし兵を出せば、多少は犠牲が出たでしょう。兵力を温存して、知力で制する。これが官兵衛の戦い方でした」

ほかにも、城造りの名人、説得の名人などとして名高い官兵衛。その卓越した知力で戦国時代をどう生き、最強の軍師となったのか、現代のサラリーマンにも学ぶべき点は多そうだ。

(取材/村上隆保)

■週刊プレイボーイ3・4合併号「5分でわかる黒田官兵衛」より