1988~94年、TV業界では革新的な出来事があった。第1次女子アナブームだ。番組アシスタントという枠を飛び越え、この時代から芸能人のような活躍を見せるようになった才色兼備な女子アナが人気に――!
女子アナがタレント化しているという批判も聞かれる昨今、その原点を振り返ってみた。
■局主催のイベントに女子アナが水着で出演
根強い人気を誇る女子アナたちだが、最初にブームが起きたのは1980年代後半。その大きな原動力になったのは、1988年にフジテレビに入社した八木亜希子アナ、有賀(ありが)さつきアナ、河野(こうの)景子アナの3人だった。女子アナ評論家の戸部哲也氏が話す。
「フジテレビが局を挙げて、3人を“花の3人娘”として売り出したんです。それまで女子アナはバラエティ番組に出演してもアシスタントに徹していて、タレントのように脚光を浴びることはほとんどありませんでした。でも、彼女たちはその枠を超えて活躍し、女子アナの概念を変えていったんです」
そのひとつの例といえるのが、1989年にフジが発売したビデオマガジン『VINBO』。宮沢りえや五十嵐いづみといった当時の人気タレントが出演するイメージビデオシリーズなのだが、その中に3人娘も出演しているのだ。
「アイドル顔負けのポージングを披露するなど本人たちもノリノリ。新世代の女子アナとして一気にブレイクしました」(戸部氏)
彼女たちの成功により、フジは局を挙げて女子アナを猛プッシュするようになる。女子アナを撮り続けて30年になるベテランカメラマンA氏が話す。
「まだフジが東京・河田町に社屋があった1992年、野外イベント『フジテレビまつり』で女子アナが出演するファッションショーを開催。最初は普通の衣装を着こなしていましたが、ステージ中盤に有賀さつきアナがビキニ姿で登場! そりゃあもう、夢中でシャッターを押しました」
局主催のイベントで女子アナが水着姿になるなんて今では絶対に考えられないが、まだ寛容だった当時は珍しいことではなかったという。
「八木亜希子アナは新人時代、『ゴルフコンペのプレゼンターとしてバニーガールになってくれ』と上司から言われたと告白していますし、近藤サトアナは温泉中継でバスタオル一枚になってリポートしていました。日本テレビの薮本雅子アナに至っては、お昼のバラエティ番組『スーパーJOCKY』(1993年放送)の熱湯コマーシャルに挑戦することになり、スタジオで水着に生着替えをしています」(戸部氏)
ちなみに薮本アナが熱湯コマーシャルに登場したのは、その年に永井美奈子アナ、米森麻美(まみ)アナの3人で結成した女子アナユニット「DORA」のデビュー曲を宣伝するためだった。
「フジの女子アナが活躍しているのを見て、日テレもそれに便乗したんです。活動は期間限定でしたが、歌番組『夜も一生けんめい』に出演して人気を博すなど大成功を収めました」(戸部氏)
敷居の低かった女子アナたち
タレントさながらの活躍を見せるようになった女子アナだが、当の本人たちは“自分は会社員”という意識が強かったようだ。女子アナの追っかけをしていたカメラマンB氏が話す。
「当時、TV局の前や出演イベントの会場前でしょっちゅう出待ちしていたんですが、声をかけると皆さん気さくに写真撮影に応じてくれるんです。いつだったか、TBSの進藤晶子アナに(当時担当していた)深夜の『ランク王国』をいつも楽しみに見ています。セーラームーンのコスプレ似合っていましたって話したら、恥ずかしそうに笑っていたのをよく覚えています」
前出のカメラマンA氏もこう振り返る。
「今は女子アナ出演イベントの大半が撮影禁止ですが、当時は撮り放題。でも、その頃は雑誌で女子アナが取り上げられるとしても熱愛などのスキャンダルばかりで、胸チラやパンチラといったセクシー写真が掲載されることはまずありませんでした。だから、女子アナたちもボクらのことをまったく警戒していなくて『私たちのことを応援してくれるなんて…』っていう感じで、謙虚にファンサービスをしてくれたんです」
次々と人気アナが誕生していった第1次女子アナブームだったが、牽引(けんいん)していたのはフジと日テレ、TBSの3局だった。
「当時、テレビ東京は専門職としての女子アナ採用が始まってなく、他部署から選抜している状態。バラエティに出演する女子アナは少なく人気アナを輩出するどころではありませんでした。正統派を地で行くテレビ朝日は他局のアイドルアナ路線を冷ややかに見ていた印象ですね」(戸部氏)
この時代、今よりも大らかな空気感の中、女子アナたちもまだ純粋ながらバブルのイケイケなノリで扱われていたようだが、タレント化の萌芽はやはりしっかりと根付いていたようだ。