
かつてはTVでも引っ張りだこだったが、“残念”なことに一発屋となってしまった波田陽区。しかし、本人は再起を期待しているようだ。
―お笑い芸人を目指したきっかけは?
波田陽区(以下、波田) 九州で大学生だった頃、友達とお笑いコンビを組んでいて、文化祭なんかでそこそこウケてたんですよ。それで「卒業したらすぐに東京に行こう。絶対、売れる」って思っちゃって。
でも、卒業が近くなったら相方から「俺、就職決まったから」って突然言われて、それで仕方なくひとりで上京してきたんです。それが1998年。
お笑い事務所に行ってネタを見てもらったり、飛び込みでお笑いライブに出ていたけれど、地方の素人が勘違いしているだけだからライブでもまったくウケないんですよね。何しろ当時のネタは「犬のぬいぐるみを連れて歩く」とか「手の3本の指に顔を書いて話す」でしたから。
それで「もうちょっとわかりやすいものをやったほうがいいのかな」と思って、上京した時に一緒に持ってきたギターを使ってみることにしたんです。当時、ギターを弾くお笑い芸人は少なかったからライブで取り入れてみようと思って。
―それで「ギター侍」が生まれたんですか?
波田 違います。ギターを持ち出したのはデビューして2年後くらい。その頃はギターをポロ~ンと鳴らして「冷蔵庫の中に~(ポロ~ン)セルジオ越後~」とか言ってました。ギター侍ができたのは2003年の後半ですね。『エンタの神様』に出る半年くらい前でした。
ギターのネタをいろいろやってて、たまには人を斬るネタをやってみようと。人を斬るから侍、じゃあ、名前は「ギター侍」。和服を着たのは、とにかくわかりやすいキャラにしたかったから。
すると、ライブが終わった後、子供たちが僕に向かって「残念!」って、言ってくるようになったんです。「あ、少しウケてるのかな」と思いましたね。
ラッキーなことにたまたまそのライブを見ていた『エンタの神様』の関係者が、いきなり僕を番組に呼んでくれたんです。本番では舞い上がっちゃって「なんとかって言うじゃな~い」がオネエ言葉になったり、力が入りすぎて「残念」が「残念~!」になっちゃった。でもそれが逆にめっちゃウケたんです。
これが転機になりましたね。チャンスを逃さなかった。それでレギュラーになって、3、4ヵ月後にはすごい人気になっていたんです。
人気が落ちた時ってわかるんです
―その人気がずっと続くと思ってました?
波田 心の中では続いてほしいと思っていたけど、僕の前にダンディ坂野さんとかテツandトモさんがいたので。人気が落ちた時ってわかるんですよ。例えば、電車の中とかで「残念~!」って言ってた子供が「フォー!」とか言い出すんです。
それからライブのお客さんは、それまで笑って拍手をしてくれていたのが拍手だけになる。「懐かしいものを見せてくれてありがとうございます」的な拍手なんですよ。
今は地方の地味な営業でギター侍をやりながら、なんとか生きている状態です。でも、もしかしたらもう一回チャンスがやって来るかもしれない。
歴代ライダーがそろうとカッコいいじゃないですか。だから、歴代一発屋がそろって何かをするのもいいと思うんですが、どうでしょう?
(取材・文/村上隆保 撮影/本田雄士)