CDのミリオンヒット、Wミリオンが当たり前だった1990年代。しかし、その幕開けとなった90年には、ミリオンヒットが1枚しかなかったことを覚えているだろうか?
80年代後半から続くバブル景気で、まだ街がにぎやかだった90年。年間1位に輝いたのはB.B.クィーンズの『おどるポンポコリン』。1990年1月にスタートしたアニメ『ちびまる子ちゃん』の初代エンディング曲で、130.8万枚を売り上げた。2位の『浪漫飛行』(米米CLUB)が61.9万枚なので、倍近い差があったのだ。
『おどるポンポコリン』に代表されるように、90年代の初期はアニメやCM、ドラマや映画とのタイアップからヒット曲が誕生する時代だった。
91年の年間チャートを見ると、フジテレビ系月9ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌だった小田和正の『Oh!Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に』に始まり、CHAGE and ASKAの『SAY YES』(ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌)、KANの『愛は勝つ』(『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の挿入歌)、槇原敬之の『どんなときも。』(映画『就職戦線異常なし』の主題歌)など上位をタイアップ曲が独占。
さらに当時のシングル曲の売り上げに大きく貢献したのがカラオケの存在。80年代後半から増え始めたカラオケボックスは、92年に通信カラオケ時代に突入。常に最新曲が歌える環境が整った。音楽業界に詳しい評論家の麻生香太郎氏は言う。
「TVで見聞きしたヒット曲を人よりも上手に歌いたい。そんな人たちが練習用にシングルCDを買ったりレンタルしていたのです。この時、重要なのはCDという形態。音楽を買う層は主に中高生で、音楽はよく“女子供を相手にする商売”といわれますが、女性や子供にとってレコードというのは意外にハードルが高いのです。
盤面に傷がつかないようにゆっくりと針を落とし、レコードプレイヤーは時々、針の交換も必要です。でもそれがCDの普及で一気になくなった。誰でも気軽に扱えるCDという形態が当時の売り上げを後押ししたのは間違いないですね」
時代の幕開けを担った存在とは
そして90年代といえば、音楽プロデューサーの存在が大きかった。小室哲哉や小林武史、つんく♂、織田哲郎、伊秩(いぢち)弘将など多くのプロデューサーが活躍。中でも前出の麻生氏は、90年から93年を音楽プロデューサー・長戸大幸率いるビーイング系の時代だと言う。
ちなみにビーイングとは音楽事務所のことで、B’z、ZARD、WANDS、DEEN、T-BOLAN、大黒摩季など多くのアーティストを輩出。93年の年間チャートを見ると、上位30曲中15曲(中山美穂&WANDS含む)がビーイング系のアーティストだ。
「あまりイメージにないかもしれませんが『おどるポンポコリン』を歌ったB.B.クィーンズのメンバーは近藤房之助をはじめ、全員がビーイング所属。また作曲とアレンジを担当した織田哲郎は、長戸大幸と共にビーイングを設立した創始メンバーのひとりです。
彼はその後、92年にポカリスエットのCMソングに起用された『いつまでも変わらぬ愛を』をヒットさせたり、ZARDの『負けないで』や『揺れる想い』などをプロデュースして大ヒットさせますが、その活躍は90年から始まっていたわけです」
こうしてビーイングは、プロデューサーが大ヒットを生む時代の幕開けを担っていったのだ。
今やCDすら縁遠い世代の若者たちも主流だが、華やかに競い、盛り上がったJ-POPの源流を今聴き直し、伝説を学ぶのもいいのでは?
(取材・文/井出尚志[リーゼント])