変わらぬ若さで、デビュー当時の思い出を語ってくれた三田さん

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

第9回のゲスト・高橋ひとみさんからご紹介いただいたのは、女優・タレントの三田寛子さん。

80年代はアイドルとして大人気、ドラマ、バラエティーでも活躍し、歌舞伎俳優の中村橋之助さんと結婚後は梨園の妻として尽くす日々。3児の子育てもこなしつつ、多忙な中、変わらぬ若さの彼女にお会いしたーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―高橋ひとみさんからのご紹介ということで、「ずっとおばあちゃんになっても食事会やりましょうね」というメッセージが。

三田 ええ、もう女子会をずうっと、あの、『ニューヨーク恋物語(Ⅱ男と女)』で共演させていただいたお仲間でね。高嶋(政宏)お兄ちゃんが最近そこにいなくて女子ばっかりだったりして。

当時、(田村)正和さん、篠ひろ子さん、丘みつ子さん、小林稔侍(ねんじ)さんっていう本当にベテランの下に若手がずらっといて。ひとみさんも小林聡美さんもみんな一緒にニューヨークで3ヵ月ロケをして、同じ釜の飯を食べ、自分の出番のない時も、出番のある人には頑張ってねってエールを送って。撮影のない時は朝イチから英会話習いに行ったり、4時間ぐらいかけて車で遊園地行ったりとか…あそこ、なんでしたっけ?

―昔からある老舗の? コロニーアイランドのですかね…。

三田 そこじゃなくて…ああ、もうイヤあね、出てこない(笑)。ほら、あの有名な、そう、アトランティックシティ! そこに行ったら若く見られて、私達が20歳過ぎてるのに入れなかったんです、パスポート持ってなかったらダメ!って言われて。

―(笑)。ほんと青春の1ページ的な思い出ですね。

三田 そうです。ひとみさんはちょっと上だから、いまだにお姉さんって。その前だったかな、『風呂上がりの夜空に』っていうドラマでは本当にお姉さん役だったんですよ。それからもうずっと、お姉さん、お姉さんって、年に何回か会って。

―本当にイイお姉さんキャラですもんね。本人はずっとクールに見られているのが自分じゃないみたいな感じで、最近、楽になったみたいですけど。

三田 ああそっかなあ、優しくて、昔っからオシャレだし、お化粧とかのこともよく伺ったり。いつ会っても温かいし、だからよく仲良くさせていただいてありがたいですね。

―最近はバラエティとかにも出られて、イイ感じに素が出せてるようです。

三田 もう昔っから変わらないですよ、お姉さんも私も。みんないつも変わらないね~って。私も最近ちょっと仕事をまた、下の子供が中学生になったので、ぼちぼち復活させていただいて、ご一緒の現場とかあったりして。楽しいよねぇなんて。

「みんな戦友じゃないけど同志のような」

―じゃあ、ひとみさんがお酒飲むと出てくる、例のみゆきちゃんも目撃してたり?

三田 え、なんですか? 私ね、全然お酒弱いんです。お姉さんも新婚でお酒も我慢して、飲んだら旦那さんに怒られちゃうのよとか可愛いことを言いながら、あんまり召し上がらないんですよね。メンバーがみんな飲まないからかな…この間も小林聡美ちゃんと鳥越マリちゃんとひとみさん、4人で和食屋さん行った時も乾杯の1杯だけ。でもほんとチャーミングで変わらず素敵ですよね。

―なるほど。でも本当に三田さんもお変わりなくっていうか、僕が同世代の66年生まれなんですよ。学年は下ですけど、それこそ高校時代にアイドルとして大全盛でした。

三田 そういう方に会うと、同世代っていっても皆さん、その時は仕事してなかったんですって仰られるでしょ。自分は15歳から仕事してるから、みんな戦友じゃないけど同志のような気がするんですけど、あ、そっか、そっかって。

―あの頃はファンでしたって人が仕事とかで一緒になると不思議な感じですかね。

三田 ありがたいですよね、一緒に青春を送ったみたいな感じで。でも、何かタイムラグを感じないんですよ、私は。つい昨日のような気がする、30年くらい前の感じを。ずうずうしいけど(笑)。

―その時代が濃かったのもあり、印象が強いんでしょうか。ちなみに僕は仙台出身なんですけど、地方もよく回ってましたよね?

三田 私ね、『フレッシュサークル』っていって、1番最初のファンクラブを『仙八先生(2年B組仙八先生)』やってる時に作らせていただいたんです。それで全国7ヵ所ぐらい回ったのも仙台が1番だったんですよ。『仙八先生』のお膝元だし。1番最初のロケも仙台でした、ドラマで。

―主人公の仙八役が仙台出身のシンガーソングライター・さとう宗幸さんで。『青葉城恋唄』の大ブレイク後、抜擢されたんですよね。いや、そんな縁が深いとは…。今はもうないですけど、駅前のエンドーチェーンってデパートの屋上でよくアイドルのショーをやってました。

三田 行きました、行きました。あの頃はサイン会とかキャンペーンが本当にあっちこっちで。今でも日本橋三越とか行ったら懐かしいなって。デビューイベントここだったとか、各都市にあるじゃないですか。そういう所をつい昨日のことのように思い出しますね。

ほんと、昔っていう感覚はないんですけど、自分の中では。スタッフさんのお顔や名前も最近覚えた方よりも印象に強いのか全部覚えてて。今回、この『(語って)いいとも』の蛭子さんの記事も拝見したんですけど、そしたらこの間、久しぶりに『(笑って)いいとも』の曜日レギュラーでお世話になった永峰(明、元フジテレビディレクター)さんと一緒にご飯食べたんですよ。

―おおっ、永峰さんには本誌の「サヨナラ、タモさんと“友達の輪”」という『いいとも』終了前の大特集で当時の裏話をいろいろお話伺いました。

三田 そうなんですか。それで今度、『いいとも』のなんかの取材なのって言って、そうなのかぁって。その頃のADさんで吉田(正樹)さんも今ナベプロの会長やってらして、パーティーの時にお会いして「やだ、久しぶり~」とか。昔のスタッフだと、ぱっと見た瞬間に顔と名前もバーンと出てくるんですよね。

「手相が悪きゃスカウトしない」?

―その本家『いいとも』では、やっぱり三田さんのエピソードというのが今も語り継がれるほどですが(笑)。

三田 いや、もう恥ずかしいばかりで。本当に私は『いいとも』には育てていただいて。素敵な思いをさせてもらいましたね。

―でも意外だったのが、今さらですが『セブンティーン』出身なんですよね、最初。

三田 そうなんですよ、あの時代はみんな女子中学生は『セブンティーン』をタイムリーで読むじゃないですか、愛読書で。それが中学3年生の時にちょうど塾が流行り、みんな受験だって、わーっと行きだして。私は塾とか行かなくても目標がしっかりしてたらいいんじゃないかって、一切行かなかったんですよね。

自分で言うのもなんですけど、非常に生真面目なところがあって割とぶれないので。京都にいて、普通に高校進んで、大学は行きたい大学があって。英語が好きだったから英語系の先生か京都だから通訳を夢見てて、外国旅行、留学生とかビジョンも自分の中であって。

そこで、みんながこぞって夏休みとか塾行っちゃってる時なわけですよ。つまんないなぁと思って『セブンティーン』ペラペラ見てたら、読者モデル募集って書いてあった。遊んでくれる友達もいないし、ただ試しに送ってみようかなみたいな。そしたら選ばれちゃったんですよね。

―受験前の夏に何してるんですか(笑)。で、選ばれて…?

三田 なんか東京で写真撮って楽しそうみたいな、お母さんと行こうよってふたりで行って、集英社の傍のスタジオで撮影して。みんな親と来てるんですよ、夏休み企画だから。それで1泊して、おいしいもの食べて帰ってきたんですね。

そしたらそれが割と見開きでしっかり載っちゃって。私、スポーツが全くできないのに、スポーツのファッション特集で、ボール蹴ってて、スポーティーなファッション決め込んで。新学期1番に誌面に載ったわけですよ。そうすると学校行ったら「おまえ、雑誌出てただろ」って言われて。自分もまだ見てない、買いにも行ってなかったのに…。

―大反響になってたと。でも普通、真っ先に買いに行きませんか(笑)。

三田 なんかぼーっとしてて。撮影だけで楽しい夏休みの青春の1ページみたいな感じ。そんな派手なことになるなんて露(つゆ)とも思わず、もう本当大変だったんです。結構地味なコだったんで、どうしよう、やばい、恥ずかしい~。私じゃないない!って言ってたんですけど。

―地元だけじゃなく当然、編集部や関係者からも反響があったでしょう。

三田 なんか自分の思ってたより流れがうわーってなって。すぐその誌面出たかくらいの日に当時のスターダストプロモーションの方からお電話があって。何がなんだかわからないけど会いにいらして「京都の女のコ探してたんだよ」って。「まずは手を見せてくれ」…え? 「手相が悪きゃスカウトしない」みたいに言われて、えー?みたいな(笑)。

「そしたらやっぱりあのコは誰だ?って」

―手相なんですか(笑)。じゃあ、いい手相だったんだ。

三田 そうなんですか~みたいな。写真バシバシ撮られて、東京帰られたらすぐ今度はオーディション受けてもらいたいって、話がうわーって進んでいって自分でもちょっとビックリ。もう夢みたい、夢見てるのかなって。

そしたら今度いきなりね、ソニーのコマーシャルのオーディションだったんですよ。東京行って、生まれて初めての。それがまたぼんっと決まっちゃって、江の島で1日ロケして、すぐ撮って出しみたいに。当時、みのもんたさんが司会されてた『プロ野球ニュース』ってわかります? あそこでしか流れなかったんですよ、1日1回。そしたらやっぱりあのコは誰だ?ってなって。

―あの頃『プロ野球ニュース』の影響力は絶大ですから。男はみんな観てました。

三田 それで同じ事務所の沖田浩之さんが『金八先生(3年B組金八先生)』にちょうど入られてて、シリーズが人気だったので、来年、さとう宗幸さんがやる『仙八先生』のオーディション受けてみないかって。秋口に受ける話になって。それが当時3千人くらい、すごい人気で自分が受かるなんて思わない。まだ青春の1ページ状態ですよね、それも。

でも、そのオーディションの1次が書類選考で受かった時にちょっともう東京に出てこないかって。高校も受けるところを決めてたんですけど、堀越とか明大中野、都立代々木とか芸能のお仕事してる人が行く学校の受験しないかってことになって。

―上京するも何も芸能界に入るって覚悟もまだ決まってないような?

三田 決まってなかったです。でも、もう最初のコマーシャル受かって、それでソニーのほうから歌のお話もいただいて、京都にいてはいろいろできないんで。うちの親も、いや、まだそんな箸にも棒にもかからないのに、まだ出せませんみたいなことだったんですけど。

『仙八先生』の1次通過して、これ受かったら、半年間TVの撮影だからって言われて。2次審査でカメラテスト、台詞のテスト、いろんなテストがあって、そしたら通ったんですよね。後まだ3次審査があるけど、さすがにもう具体的に準備しないといけないから東京の高校受けませんかって。

慌てて願書出して、私立が先じゃないですか、それで堀越にまず受かったんです。もう、とんとん拍子ですよね。それまで地味過ぎたので、中学の先生がビックリして「ええーーっ! あなたがー!?」って(笑)。

―すごいシンデレラストーリーですよね、80年代の。

三田 本当に私にとってはその夏の『セブンティーン』の応募から、たった半年で人生が180度、パン!って。

「本当は私、宝塚に入りたかったんです」

―そもそも当時、自分の中でブレないビジョンっていうのは語学方面だったんですよね。

三田 でも元々、本当は私、宝塚に入りたかったんです。『ベルサイユのばら』の全盛期だった1975年くらいから、鳳蘭さん筆頭にあの4人の『ベルばら』に燃え尽きてたというか。もう、親不孝なのは最初で最後っていうくらい、徹夜でチケットガイドに並ばせて(笑)。割と真面目なお家だったので父が付き添いで宝塚に行くっていう。

それがもう大好きで、宝塚音楽学校に入りたくて、中2くらいの時にこんな分厚い音楽学校の本を親に見せて、募集要項を母親が見たら「あんたは無理やなあ」って。え、なんで? 私ここに入りたい、ダメもとで受けたいって言ったら「見てみなさい、この容姿端麗って書いてあるでしょ? あんたには無理や」と。それで私も単純なんで、はっ、そうだ私、容姿端麗じゃないから無理だ!って諦めたんですよ。

―諦めたんですか?(笑)

三田 はい。そしたら英語が大好きで、もう絶対スチュワーデスになりたい! 『アテンションプリーズ』ってドラマがあって、まだその頃は堀ちえみちゃんの(『スチュワーデス物語』)じゃなくてそれでしたから、どうしてもなりたいって今度また募集要項を見てたら、やっぱり身長と容姿端麗って。それでもう、すこんって諦めちゃったんですよね。

―思い定めたら一途だけど、ハマらなかった。

三田 割ともう潔く、ダメなものはすぱっとダメと思うので。もう、ふたつの夢は断たれて、将来、京都外国語大学を目指すためにビジョンは絞ってたんです。それでコツコツ、このままちゃんと真面目にやれば問題ないって太鼓判も押されてて。だからとっても楽な気持ちで『セブンティーン』に遊び感覚で出したのに。

宝塚もスチュワーデスも無理って言ってた自分がCMに出てソニーでデビューとか言われて。『金八先生』のシリーズでオーディションとか、田舎から出てきたらもう本当にきらびやかで。周りは可愛らしい人がいっぱい受けてるんですよ。TV局も初めて行って、どこ見回してもリカちゃん人形みたいな人がいっぱいいるわけ。お芝居も劇団の子役からのものすごい上手い人とか。

私はもう記念オーディション受験みたいな。それがとん、とん、とんって決まっちゃったんで、頬っぺた何度つねったことかっていうくらい。だから夢って諦めないでこんな私でも頑張れば、急になんか楽しい夢がうわーって開けて。

―そういう意味では典型的な夢見がちな少女だったんですね。

三田 もう本当に夢見る夢子ちゃんですよ、王道ですね。自分で結構盛り上がるけど、家族に完全否定されて、ああ、そうだよねって我を知るっていう感じだったんですけど。

●この続きは次週、9月6日(日)12時に配信予定!

●三田寛子(みた・ひろこ)1966年生まれ、京都府出身。14歳の時、雑誌『セブンティーン』に応募し、モデルデビュー、1981年に『2年B組仙八先生』の生徒役でドラマデビュー、82年に「駈けてきた処女(おとめ)」で歌手デビューを果たすなど80年代のシンデレラガールとして駆け抜けてきた。その後、CMや数多くのドラマに出演し、バラエティ番組でのレギュラーや情報番組の司会など多方面で活躍。1991年に歌舞伎俳優の中村橋之助と結婚、現在は梨園の妻として、また未来の歌舞伎役者でもある3児の男児の母としての生活を中心に活動を続ける

(撮影/塔下智士)