ベートーヴェン作曲『交響曲第九番ニ短調「合唱付き」』。楽聖ベートーヴェンが1824年に書き上げた生涯最後の交響曲にして、人類の宝物だ。この『第九』は、日本では年末に好んで演奏されることで知られている。
これは元々、戦後に日本放送交響楽団(現在のNHK交響楽団)がこの時期にやったら客が入り、それが定着したものらしい。なんだ、つまらないと思うかもしれない。が、その通りーーそんなことははっきり言ってどうでもよいのだ。重要なのは、『第九』こそ“人類史上初の参加型・体感型長編映画”であるということ。
多くの人がなんとなく知っている『歓喜の歌』は、全体で74分くらいかかる曲の残り20分あたりでようやく登場する。有名な合唱はそのさらに少し先だ。この部分だけ聴き覚えて『第九』を知った気になっていたら、もったいないなんて生易しいものではない。
以下、『第九』にまだ一度も夢中になったことがない人を対象に曲案内をしよう。
『第九』は全部で4楽章からなる。まず第1楽章。めちゃくちゃカッコいいけど厳しくて重々しい。大いに悩み、闘う章だ。とにかく力強い。
ここでちょっと、クラシックは知らないけどロックなら大好きだという方のために、無用なジャンル分けを取っ払うきっかけを提供しよう。この曲の冒頭でホルンと弦楽器がずーっと鳴らしてる音に聞き覚えはないだろうか?
これはロックギターでいうところの「パワーコード」と全く同じつくりの音なのだ(ラとミを重ねただけ)。え、…超簡単? なのにこの神秘的な雰囲気は何?
次に第2楽章。またもやめちゃくちゃカッコいいしノれるけど、なんか不気味。ざわざわしている。
続く第3楽章は、打って変わって優しく安らぎに満ちた曲だ。全編これ“天国ロケ”。聴き手は天女の至上の膝枕に憩(いこ)ったりのんびり散歩したりと、楽園暮らしを満喫できる。だけどここが葛藤と彷徨(ほうこう)の果てにたどり着いたゴールじゃないことは音楽がほのめかしている。
よく聴いて。少なくとも1回は「これでいいのかな?」と心配にさせられる物憂げな響きがあるだろう。この楽園がダメなら、じゃあどうすればいいのか? 答えは終楽章にある。ここまでおよそ50分。
歓喜にはひとりじゃ到達できない
さあ、いよいよ第4楽章だ! 冒頭、非常招集をかけるようなけたたましいメロディが鳴らされる。もはや楽園に入り浸っている場合じゃない。ここから破格の展開になる。
なぜか第1楽章が再び鳴り始める。しかしすぐにチェロとコントラバスが「これは違うな」とダメ出しするように声を上げる。続いて第2楽章。これも却下だ。今度は第3楽章…。このやりとりの結果生まれるのが、あの有名な『歓喜の歌』のメロディだ。
だが、これがゴールではない。この後、ついに人間の声が出てきて、こともあろうに、こう歌うのだ。「ああ、友よ! こんな音楽じゃない!」と。またもやダメ出しだ。「もっと気持ちよく、みんなで歌おうじゃないか、喜びにあふれて!」
言葉。そして人間の歌声。『歓喜の歌』の完成にはそれが必要なのだ。なおかつ「みんな」で歌う。歓喜にはひとりじゃ到達できない。
なお、先述の歌詞はベートーヴェン自身が書いた。彼はこの時すでに楽器の音もほとんど聴こえない状態になっていた。それを考えると、この短い歌詞は孤独な天才が我々に宛てた、個人的な、いわば友達申請であるように思えてくる。耳をふさいで喋ってみればわかるように、ベートーヴェンも自分の声は聴こえたに違いないのだ。
楽器はだめでも歌なら。だからこそ。「みんな(uns=英語のusにあたる)」の中に彼自身も加わりたかったように思えてならない。
こうして合唱が始まる。歌詞(ドイツ語)はドイツの詩人・シラーの詩『歓喜に寄せて』からとられており、思いっきり要約すると「喜びのもとですべての人間は兄弟となる」。人類愛がうたわれている。
ベートーヴェンがこの詩と出会い、曲をつけたいと思ったのはまだ22歳の時だった。しかしなかなかうまくいかず、苦節30年、人生の辛酸を散々なめた後、『第九』という最高のカタチに結実させたのだ。この詩のメッセージこそ、彼がみんなと共有したい理想だったのだろう。
CDでも動画サイトでもなんでもいいから、とにかく最初から最後まで聴いてみてほしい。ノってきたら、でたらめでもハミングでもいいから歌ってみよう。こんな曲がある。こんな曲を書いてしまった人がいた。それを全身で知れば、これからの人生に切り札がひとつ増えるはずだ。
(取材・文/前川仁之)
■週刊プレイボーイ1・2合併号(12月21日発売)「世界が荒れている今こそ……『第九』を聴こうぜ、歌おうぜ!」より