真田氏研究の第一人者、歴史研究者の平山優氏

NHK大河ドラマ『真田丸』が好調な滑り出しを見せている。

平均視聴率は初回19.9%、第2話では20・1%となり大河ドラマでは2013年放映『八重の桜』以来、3年ぶりに大台を突破。第3話からは18・3%、17.8%と微減しているが視聴者の評判は上々のようだ。

同作の主人公は、知将と名高い真田信繁(幸村)。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、父・昌幸と共に西軍(大坂方)に味方し、居城・上田城で徳川秀忠(東軍)の大軍を翻弄(ほんろう)。徳川本隊の参陣を遅らせて家康に大ダメージを与えた。

戦後は“戦犯”として高野山の麓(ふもと)、九度山(くどやま=現在の和歌山県九度山町)に配流され約14年間の雌伏の日々を送るが、豊臣秀頼の求めに応じて脱出し、大坂に入城。慶長19(1614)年の大坂冬の陣では軍事要塞「真田丸」にて東軍に甚大な被害を与え、翌年の大坂夏の陣でも獅子奮迅の働きで家康本陣に猛攻、日本全国に武名を轟(とどろ)かせた。

寡兵(かへい)をもって徳川の大軍を震撼させた信繁のドラマティックな生涯は後世の軍記物語や講談の格好の題材となったが、その一方では真偽の入り乱れた“伝説”を後世に残すことに…。そこで今回、『真田丸』時代考証担当者のうちのひとりであり、真田氏研究の第一人者である歴史研究者の平山優氏を直撃。ドラマをより楽しめるよう、“真田信繁(幸村)伝説10の真実”を伺ってみた!

その1 そもそも真田幸村なる人物は存在しなかった!

【ホント】猿飛佐助の活躍で知られる“真田十勇士”の物語を始め、信繁(幸村)の功績には後世の創作による影響も多く、史実なのか創作なのか判断に迷うエピソードも多いという。

「“真田十勇士”で知られる武将『真田幸村』は真田信繁をモデルに創作された架空のキャラクターの名前です。晩年になって信繁も実際に『幸村』に改名したのだという説もありますが、生前の署名はすべて『信繁』ですし、今回の大河でも信繁を採用しています。

幸村の名が初めてお目見えするのは、信繁の死後、約半世紀ほどたった寛文12(1672)年に書かれた軍記物語『難波戦記(なにわせんき)』から。幸村の“幸”の字は、真田氏の通字(とおりじ)。まぁ、いかにもありそうな名前をよく考えたものです。江戸時代以降、幸村の名のほうが広く流布することとなり、信繁の兄・信幸(信之)の家系、上田真田氏の正史においても幸村と伝えているほどです。

なお、『真武内伝(しんぶないでん)』では、信繁の名は父・昌幸が武田信玄の弟『武田信繁』の名前にちなんで名付けたとしています。武田信繁は川中島の戦いで兄・信玄をかばって討死した勇猛な武将。昌幸と武田氏との繋がりを思えば、さもありなんという気がします」(平山氏)

歴史ゲームではイケメン設定だが…

甲府駅の武田信玄像。真田氏は、信繁の祖父・真田幸綱の代から武田氏に仕えた。信繁の父・昌幸は武田信玄から信頼が厚く、『我が両眼のごとき者』と言われるほどだった。

その2 無類の焼酎好きで、借金王だったってホント?

【ホント】徳川政権に立ち向かったヒーロー・幸村として、江戸時代の庶民に愛された信繁だが、実は焼酎が大好きで、しかも周囲の人に借金を重ねていたというダメダメなエピソードもあるとか。

「焼酎を好んだのは本当で、旧臣の河原綱家に宛てて“焼酎を送ってくれ”と依頼する手紙が残っています。そもそも、焼酎は九州や西日本の文化ですから、信繁のような東日本の大名の資料に焼酎が登場するのは非常に珍しい。若かりし日の信繁は、秀吉の人質になってから約13年間を上方で過ごしていました。当時の大坂には日本全国からあらゆる文物が集まっていたはずですから、きっとそこで焼酎の味も覚えたのでしょう。

また借金の話も本当。九度山配流時代には子供が7人も生まれましたし、自分の家臣を養うにも難儀し、経済的に困窮していたようです。兄の信幸や上田の旧臣から仕送りをしてもらい、周囲からもたびたび借金をしていました。とはいえ、借りたお金を焼酎代につぎ込んでいたわけではないでしょう。来るべき時に備え、捲土重来(けんどちょうらい)を図り、再軍備のためにお金を使ったこともあったのではないでしょうか」(平山氏)

その3 大坂の陣ではヨボヨボだった?

【ウソ】「真田幸村」というクールな名前のため、歴史ゲームなどではもれなくイケメン設定の信繁だが、約14年の九度山配流時代を経て、大坂城に入った時にはすでに40代。実は結構オッサンだったのでは?

「平均寿命が50歳前後の当時からすれば、初老と言ってもいい年齢です。自分でも、姉の夫(小山田茂誠)に宛てた手紙では“くたびれ果てて歯も抜け、髭も白くなり、すっかり老け込んだ”と書いているくらいですから、九度山時代の困窮生活で苦労を重ねたのは本当です。

ところがそんな信繁が、大坂の陣では一変して華々しい活躍をするわけです。ということは、おそらく困窮生活の中でも戦いに備えて、近隣の地侍(土着した武士)や猟師と交流を深めたり、鍛錬を重ねたりしていたのでしょう。前述の『真武内伝』でも日々、軍事教練に明け暮れ、夜は兵書を読み耽(ふけ)ったと書かれています。

実際に大坂の陣では、信繁の下に参じた紀州の鉄砲衆や猟師たちが真田鉄砲隊の主力を担った可能性が高いと考えられているんです。大坂の陣であれだけ奮戦したわけですから、あくまでも『見た目』が老け込んでしまっただけで、決してヨボヨボではなかったと思いますよ!」(平山氏)

敵方の伊達家になぜ信繁の血筋が?!

その4 サナダムシの由来は、真田氏と関係ある?

【ウソ】木綿糸で織り上げた丈夫な紐「真田紐」。実は、寄生虫「サナダムシ」の名前の由来は、細長い紐状の形がこの真田紐に似ているため。一方、真田紐は真田氏に関係が深いとも言われている…ということはサナダムシのネーミングの原点は真田氏にあった?

「いやいや、それはさすがに関係ない(苦笑)。確かに“生活が苦しかった九度山時代に信繁が作って売り歩いたのが真田紐”だと、まことしやかに言われていますが、これは江戸時代の武士の内職から連想された俗説でしかないでしょう」(平山氏)

ということは、もちろん、サナダムシと真田氏、なんら関係はナシ!

その5 信繁の娘は、仙台に拉致(らち)されたってホント? 

【おそらくホント】兄・信幸の家系(上田真田氏)の他に、仙台真田氏を称する一族が存在するらしい。仙台といえば“独眼竜”伊達政宗で知られるが、一体なぜ、敵方(東軍)の伊達家に信繁の血筋が伝わっているのか。

「大坂夏の陣における道明寺合戦で激戦を繰り広げた両者ですが、戦後、政宗の重臣・片倉小十郎重綱(重長)が信繁の娘・阿梅(おうめ)を後妻に迎え、さらに信繁の遺児を保護したのです。これにはふたつの説があります。

まず、伊達藩に伝わる『老翁聞書』という記録では“長刀を手にした16、7歳の美女が片倉氏の陣中にやってきたので、『これはただモノではない』と感じた重綱が連れ帰った”…つまり、重綱が信繁から阿梅や次男・大八など遺児数人を託されたので保護したように書かれています。仙台真田氏ではこの時、片倉氏に養育された大八こそが仙台真田氏の祖となった真田(片倉)守信であると伝えているのです。

もうひとつの説は、片倉家に伝わる『片倉代々記』によるもので、阿梅は『乱取り』で連れて来られた、とする説です。この乱取りとは戦場から女子供を戦利品として奪い取って来ることで、当時は当たり前に行なわれていました。連れてきた女性を侍女として召し使っていたところ、それが信繁の娘と判明し、重綱が後に後妻に迎えたとしています。このふたつの説がありますが、私は、阿梅も乱取りで連れて来られた多くの女性達の中のひとりだったと見ています」(平山氏)

●この続き、6~10&番外編は明日配信予定!

(取材・文/山口幸映)

●平山優(ひらやま・ゆう)1964年、東京都生まれ。1989年、立教大学大学院文学研究科博士前期課程修了。現在、山梨県立中央高等学校教諭。著書に『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』(ともに戎光祥出版)、『武田信玄』『検証 長篠合戦』『長篠合戦と武田勝頼』(ともに吉川弘文館)、近著に『大いなる謎 真田一族』(PHP文庫)『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(角川選書)など多数。2016年大河ドラマ『真田丸』では時代考証を担当中。