前回の配信「真田幸村は存在しなかった?」に続き、真田信繁の逸話について『真田丸』の時代考証を務め、真田氏研究の第一人者である歴史研究者の平山優氏に聞く!
“真田十勇士”の物語でも知られ、近年ではゲームなどでもイケメンキャラとして武将人気の高い信繁。一般的には真田幸村の呼び名で通っているが、実はそれが本人をモデルに創作された架空のキャラクターの名前だった?など前編では教えてもらった。
さらに、今回はどんな史実が…。番外編として日本史ファン待望のエピソードの真偽についても聞いてみた!
■その6 “信繁は鹿児島に落ち延びた”伝説はホント?
【ウソ】 信繁は大坂夏の陣で戦死したと伝えられている信繁。しかし、実は大坂の陣では死なずに地方に落ち延びたのではないか…という伝説も存在する。
「慶長20(1615)年5月7日、信繁は家康本陣に最後の猛攻を仕掛けますが、ついに力尽き、松平忠直軍の西尾仁左衛門によって討ち取られます。信繁の獅子奮迅の戦いぶりは敵方の徳川諸将までも感動させ、『真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)』と書き残したほどです。
信繁の死を惜しむ声も多く、特に豊臣方に同情を寄せる人が多かった上方では、『花のやうなる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ』と俗謡に歌われました。こういった生存説は大坂落城当時からリアルタイムで存在しましたが、豊臣家と信繁を慕う民衆の感情がこのような生存伝説を生み出したのかもしれません」(平山氏)
■その7 信繁は人質時代、秀吉に寵愛されたってホント?
【ホント…だけど男色関係はないと思われる】
当時の戦国大名にはつきものの“男色”。伊達政宗、武田信玄など名だたる武将にも寵愛する小姓がいたと伝わる。信繁の周辺には男色関係のウワサはなかったのだろうか?
「信繁に関してそういったことを匂わせる史料はありません。上杉景勝や秀吉から厚遇されたのは本当ですが、主従以上の関係だったわけではない。信繁は元服前の幼名を『弁丸』と言いましたが、その頃に上杉の人質となるも、すぐに領地を貰っています。つまり、人質扱いから一気に家臣扱いになったんですね。
上杉から戻った後は、今度は秀吉の下に人質に送られるのですが、すぐに馬廻衆(旗本)に抜擢され、豊臣姓を許されて高い官職も貰い、また秀吉からの信頼が厚かった大名・大谷吉継の娘と結婚するなど破格の待遇を受けています。武将としての能力を認められただけであって、男色関係にあったわけでありませんよ(笑)」(平山氏)
冬の陣は当時、大坂方の勝利と思われていた?
■その8 信繁はヤジ将軍だった?
【微妙】 かなりの策士であると同時に、戦の時も口汚く相手を罵(ののし)っていたという噂のある信繁。大坂の陣でも、信繁がさんざんヤジを飛ばして東軍を挑発したというのは本当?
「激戦となった道明寺合戦で、信繁は『関東勢百万と候え、男は一人もなく候』つまり、“徳川軍は百万人もいるのに、男と呼べる人物はひとりもいないな”と揶揄(やゆ)したと言われています。とはいえ、これは後世の軍記物が伝えるところで、おそらく創作ですから、信繁が本当にそう言ったのかどうかはわかりません。
ただし、そもそもこういった発言で敵を挑発することを『言葉戦い』と言うのですが、当時は当たり前のことだったんです。弁舌が立つ者に言わせることもありますし、指揮官自ら言うこともありました。その際に言い返せないと全軍の士気に関わってきますから、言葉戦いを禁止する大名もいたくらいです」(平山氏)
■その9 大坂冬の陣は当時、大坂方の勝利と思われていた?
【ホント】 信繁は『真田丸』から盛んに鉄砲を撃ちかけて善戦し、徳川方は大敗を喫した。世間も大坂方の勝利を疑わなかったという。
「『真田丸』での戦闘は、完全に信繁の勝利と言ってよいものでした。実際に、日本にいた外国人宣教師の記録によると、大坂冬の陣について世間では“豊臣方の勝利”と認識されていた節があります。徳川方は城に踏み込むどころか被害が大きくなるばかりで、さらに厳冬下での厭戦ムードも漂っていたのです。
一方、豊臣方では開戦すれば豊臣恩顧の大名が続々と馳せ参じるはずと期待していましたが、冬の陣が始まってもそんな大名は現れず、これ以上の籠城は不利という認識があり、徳川方から持ち掛けられた和睦を受諾するしかありませんでした。局地的な戦闘では勝っていたものの、全体の情勢は芳(かんば)しいものではなく、実際には世評で言われるほど勝利とは呼べませんでした」(平山氏)
大坂城の内堀を埋めさせられたのも信繁の存在が
■その10 大坂城の内堀を埋めざるを得なかった背景には、信繁の存在があった!
【ホント】 通説では、大坂冬の陣で和睦を締結後、豊臣家滅亡を最終目標にする老獪(ろうかい)な家康の謀略により、夏の陣に至ったと言われている。
だが、平山氏はこの通説に異を唱える。家康は実際には戦争を回避しようと交渉していたのであり、再度の開戦および豊臣滅亡を招いたのは、もっと別の要因があり、それには信繁も深く関与しているという。
「従来、和睦の際、“(大坂城の)外堀だけを埋める約束だったのに徳川方が内堀まで埋めてしまった”と言われていますが、それを巡って双方が争った形跡はありません。つまり、外堀・内堀を埋めたのは大坂方も合意の上でした。なぜ同意したかといえば、『牢人問題』があったから」
この『牢人問題』は、関ヶ原の戦いが発端。敗者となり領地を没収された大名家では、多数の家来が“リストラ”同然の憂き目に遭った(そもそも信繁自身がそういった“リストラ”牢人たちのひとり)。そんな行き場を失った牢人たちにとって、大坂の陣はもうひと花咲かせる絶好の機会。そして冬の陣の「真田丸の戦い」にて信繁が善戦したことにより、“大坂方有利”との評判を聞き付けたリストラ牢人たちが全国から大阪城に集結。この存在が大坂方の運命をも左右することになったのだ。
「徳川方から“大坂城の牢人達を追い出せ”と言われていたにも関わらず、牢人達は大坂に留まり続けます。彼らにすれば、大坂城を出たって再就職先もなく、行き場がないわけですから出るわけにはいかない。秀頼も豊臣家のために奮戦してくれた信繁はじめ牢人達を追い出すことはできなかった。
だから豊臣方としては、大坂城を裸城にして無力化し、内外に戦意がないことを表明して、牢人達に諦めさせ、彼らが再度蜂起する可能性を封じようとしたのだろう、というのが私の推測です。
しかし、豊臣方は一枚岩ではなく内部でも意見が対立していました。秀頼は結局、牢人達をコントロールできずに、徹底抗戦を主張する強硬派に引きずられるようにして再開戦(大坂夏の陣)に向かってしまったのです」(平山氏)
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後世の軍記物語のような“フィクション”ではなく、信繁直筆の手紙や同時代に生きた人々による記録など“事実”を積み重ねて検討することによって、明らかになる真実。“幸村”伝説に限らず、歴史というものには多くの真実が隠されている。平山氏も「最新の研究を大胆に取り入れて、ドラマの展開も予定調和ではないものに変わってくる可能性も大いにあり得るでしょう」と語る。…ということで、最後に日本史ファン待望のエピソードの真偽についても聞いてみた。
小松姫は沼田城にいなかった?
■番外編 あの名エピソードはウソ? 小松姫は沼田城にいなかった説
【?】 関ヶ原直前、真田家は東軍・西軍どちらに味方するか?を話し合う、究極の“家族会議”を開いた。その結果、兄・信幸は東軍に、一方、信繁と父・昌幸は西軍に味方することになり、家族が敵味方に分かれ、別々の道を歩むことになった。これが世にいう、「犬伏(いぬぶし)の別れ」である。
そして、犬伏の別れに関連して、欠かせないのが以下の挿話だ。
信幸と袂(たもと)を分かった信繁と父・昌幸は、居城の上田城に戻る途中、今や敵となった信幸の居城・沼田城を陥落させようと立ち寄った。だが、留守を預かっていた信幸の妻・小松姫は女性の身ながら甲冑に身を固めて城を閉ざし、城内に義父を一歩も入れなかった。
ちなみに、小松姫の父は徳川四天王のひとりで、猛将で知られる本多忠勝。さすがは本多の娘、夫が不在の城を命がけで守り通りしたのだという、歴史好きならお馴染みの逸話だ。
大河ドラマでも後半の見どころになるのは必至のエピソードだが、平山氏によれば、研究者の間でもこの逸話の真偽に疑問が持たれているのだという。
「実はこの時、小松姫は沼田城にはいなかったのではないか?という説を支持する研究者もいます。当時、諸大名の妻子は人質として大坂にいたので、小松姫が沼田城にいるのはおかしいというのが論拠です。確かにそれはそうなのですが、私の見立てとしては“事前に危険を察知した信幸が何かしらの理由をつけて前もって小松姫を大坂から引き揚げさせていた”…つまり、小松姫は沼田城に戻っていたのだ、というもの。この逸話に関しては、時代考証担当者の間で今後、議論を詰めていく必要があります」(平山氏)
尚、NHKの『真田丸』公式サイトでは現在、小松姫(稲)役の吉田羊が凛々(りり)しい甲冑姿でバッチリ紹介されている。果たして奮戦する吉田羊の姿を見られるか否か…興味は尽きない。
(取材・文/山口幸映)
●平山優(ひらやま・ゆう) 1964年、東京都生まれ。1989年、立教大学大学院文学研究科博士前期課程修了。現在、山梨県立中央高等学校教諭。著書に『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』(ともに戎光祥出版)、『武田信玄』『検証 長篠合戦』『長篠合戦と武田勝頼』(ともに吉川弘文館)、近著に『大いなる謎 真田一族』(PHP文庫)『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(角川選書)など多数。2016年大河ドラマ『真田丸』では時代考証を担当中。