日焼けも営業努力と言いつつ、真っ白な歯で常に満面のスマイルを爽やかに発する松崎さん

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

第16回のゲストで芸人のビートきよしさんからご紹介いただいたのは、歌手の松崎しげるさん。

70年代に“CMソングの帝王”として活躍、『愛のメモリー』の大ヒット以来、長年にわたりステージ活動を続け、TVでのバラエティ等でも人気に。すっかり“日焼けキャラ”も定着し、9月6日は日本記念日協会から“96=クロ”にかけ「松崎しげるの日」に認定されるほど。

常に元気でエネルギッシュなその源はーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―『笑っていいとも!』の魂を勝手に引き継いで、友達の輪を広げさせていただいているリレート-クというわけでして…。

松崎 いいじゃないですか!

―ビートきよしさんからのご紹介なんですが、ゴルフとかでもよくご一緒されたり?

松崎 きよしさん! そうそうそう。最近ね、チラチラ会うんだよ。

―特にテーマもなく、茶飲み話風にお話しさせていただくんですが、きよしさんももう自由な方で、いろいろ喋っていただいて。

松崎 俺も自由なほうなんだけど。全然全然OKよ!

―ははは、去年は週プレ本誌のほうでインタビューをさせていただいたんですよね。

松崎 あ、ほんと!? 日焼けか! あ~どうしてもそこいっちゃうんだよね!

―そうなんですよ。なので、今回は逆にその話をしない縛りでいこうかなと(笑)。

松崎 あってもなくてもどっちでもいいんだけどさ(笑)。まぁ俺が、当年とって66歳。あの戦後のベビーブームっていうか、やっぱりもう競争率の激しい時代だったんで。目立ちたがり屋は大体何かで目立ちたいっていうね。俺の場合は何しろもう体育しかなかったんで、うん。そんなようなガキんちょだった。

―早速、ご自分のルーツのようなお話から(笑)。

松崎 それとまだ東京の下町でもバラックが多くてさ。小ちゃい頃なんか、鉄工所の横には戦車があって、中でガンガン遊んでね。飛行機の残骸が置いてあったり、コックピット入っちゃえばさ、そこであーだこーだ遊んでたっていう。そういうガキだったね。

―根本的に原点がやんちゃで野生児的な?

松崎 もう、完全そうだね。周りも何もなかったし、遊ぶものに関しては全部自分で作っていかなくちゃいけなかった。手作りの時代っていうかさ。まぁ江戸川の下町で、紙芝居のおじさん達なんかもいっぱい来るんだけど、腕が片方なかったりね。兵隊さんから帰ってきて、みんな職を探してる時代だったっていうかな。

「うっわ、これたまんねー気持ち!」

―そのエリア自体、結構ヤバかったんですか。

松崎 いや、もう東京の街中でもさ、パトカーのサイレンがウゥーって、なんか1時間に2回ぐらいは聞けた時代というか。なんか逃げまくってる若者やなんかをよく見てたもん。かっぱらいも多かったしさ。

―そんなまだサバイバルな中で、体育でも頑健な自分に自信があって。高校まで野球をされてたんですよね。

松崎 俺はね、高校は1年で野球は退部したから。2年目はケガで完全にプレーできないような状態だったの。で、プレーしなくちゃ野球じゃないって感覚だからさ。カッコよく縁の下の力持ちで、スコアラーでもマネージャーでもやればよかったんだけど、そういうタイプじゃなかったんだよね。もう~小学校中学校から黄色い歓声を浴びながら「松崎く~ん、松崎く~ん」って言われて大スラッガーだったわけだから。

―その頃から黄色い声援が!(笑)

松崎 うん。それでさ、それまで自分が知らなかった学校の放課後。もう何しろ聞こえてくるギターの音と歌声、その放課後を知った時にもうさ。で、あの頃はね…。

―あの…すいません、そのケガをされたところで野球ができなくなり、挫折みたいなものは…?

松崎 挫折はめっちゃめちゃなったんですけど、それ1週間で消えたね。

―やっぱり切り替えが早いんですねー(笑)。

松崎 まぁプロ野球の選手になりたいっていう、でっかい夢があっという間になくなったわけだから。だけど、放課後、そこの音楽をやってる所で友達と一緒にギターを弾いてね。そしたら、野球と同じことが起こったのよ。「おまえ、上手いね!」って。これが、豚もおだてりゃ木に登るタイプだからさ(笑)。

―(笑)。いつまでも悶々鬱々(もんもんうつうつ)としてられるタイプでもなし、と。

松崎 違ったね。元々、隣のお兄ちゃんとこに『明星』とか『平凡』の歌本があって、小学校の頃からギター教わったりなんかして。結構、弾けてたのよ。で、久しぶりにギター借りて、俺左利きでパッと弾いたら、「何、その弾き方?」って。「高い弦が上でなんで弾けるの、おまえ?」「いや、俺天才だから」って。で、もうすぐ! 1ヵ月もしないうちにバンドリーダーになったもん。

―もう伝説が始まってます(笑)。

松崎 まぁね~。中学2年でビートルズが初めて日本に旋風を起こして。それを聞きながら野球してて、疲れた体を癒すにはもう絶対的なレコードだったのよ。何をするのも気力がないのに唯一、自分を癒してくれるというか。それをなんか感じながらずっと野球やってて、でも断念してね。あっという間にリーダーになって。

その2年の夏休みに、千葉の保田海岸って所でみんなで合宿しようって行って。そしたら、海の家のおばさんが練習所まで来て、「あんた達! うちで練習しな、うちで!」って。そこの客寄せバンドで、人がいる所で今度やり始めたのよ。

そしたらさ、今まで硬派だったわけじゃない、野球やってて。で、背中から黄色い声が「松崎く~ん!」ってきて心の中じゃピースしてんだけど(笑)、「うるせーなー」とか言ってたわけ。それが、バンドやり始めたら女のコが目の前なのよ。目の前で黄色い歓声を感じた時に「うっわ、これたまんねー気持ち!」と思って。

「女の黄色い声聞いてないからケガしたと思う」

―ははは、もう基本、モチベーションはそれですか。

松崎 うん、その時も思ったね、「女のコにずっと動かされてるな」って。もう絶対的な女のコの歓声で、野球でスラッガーになってキャプテンやって。高校入ってこれからだって時にケガして辞めて。で、やっぱり小ちゃい頃から聞いてたのが音楽っていうさ、友達同士の中でも一番聞いてた少年だったから。

まぁ親父お袋の影響もあるんだろうけど。まだ幼稚園ちょっとぐらいまでは蓄音機の時代だったわけよ。そこでハイファイステレオって出たのを家で買い込んだりして。その前から、レコードがあって針を落とせば、親父お袋が抱き合って踊ってるっていうね、下町ではちょっと珍しいモダンボーイ、モダンガールだったわけ。

だから男と女が抱き合うことに関しては全然小さい頃から驚かなかった。人の家に遊びに行った時、「なんでこの家のお父さんとお母さんはこんなに距離置いてるんだろう」って感じるぐらい、ベタベタな親父お袋だったね。

―心温まるエピソードですね。

松崎 まぁそういうのが役に立って。早速やったら、「なんでこんなの歌えるの」とか「おまえ、授業ではいつも寝ててさ、英語なんか全然ダメだろ!」「歌は違うんだよ、歌は。意味わかんねーけど、カッコいいだろ、コレ!」ってね。ほいで、今で言うPOPコン、俺らの時代は『ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』ってフェスティバルがあって。第3回に関東甲信越代表で俺らが選ばれたのよ。

学校じゃ校則でエレキギター持っちゃダメだっていうのに、でもそこはもう学校にも先公にも見っかんないわけだから。いい歳して先公っていうのもおかしいけどさ(笑)。

―ははは、先公、懐かしいです。久しぶりに聞きました(笑)。

松崎 ははは! そうだろ?(笑) それで雑誌載ったり、あーだこーだして呼び出しくったりしたんだけど、それはそれでさ。その時はインストルメンタルで『花』っていう曲をボサノヴァに変えて。めっちゃめっちゃかっこよかったの。くわーんかくわーんかかかかかか~ぐわーんがぐわ~ん…ガガガガガガ、ダッダ、ガガガ、ババッバ、ガッガ、ジャーン!(ギターを弾いている様子で)ブーンスカッカ、ブーンスカッカ、ぐわーんがぐわーんが…。(また最初から始まる)

―終わんないですね(笑)。

松崎 そう、そうなの! でさ、もうプロになりてーなと思ってたわけ。高校3年の頃は、タイガース、テンプターズとかグループサウンズ時代だったから、そういうの完全にコピーして。最後の学園祭でしっかりエレキギター持ってね、もう坊主になる覚悟で出たら、先生達も喜んじゃって!

だから学校始まって以来だよ。もう~最高! 男子校だったからさ、野球をやってた1年間って、女の黄色い声聞いてないから、俺ケガしたと思うんだよ。ははははは!

―女のコからパワーがもらえてなかった(笑)。

松崎 学園祭になると他の女子校からとか、いっぱい集まってくるわけ。も~う、最高に嬉しくて! そこでガンガンやりましたよ。で、それが終わって、大学どうしよう、音楽やりたいって、日芸(日大芸術学部)行ったんだよ。

宇崎竜童クンが「おまえらプロになんない?」

―高校球児から芸術学部に繋がりましたね。

松崎 うん、もう簡単よ。音楽やるなら日芸。芸術やるなら日大! それしか決めてなかったから。やっぱり日大一高で系列だから入りやすいだろうってのもね。で、受かって、日本中からいっぱいイイ奴が来てるわけよ。さぁ一緒にバンドができるなと思ったらさ、もう学園紛争! 行って2週間でバリケートが30メートルぐらい…迷路みたいにそこで学生証見せて、検問しないと入れなかったわけ。

その学園紛争で思いっきり頑張ってたのが同級生のテリー伊藤だよね。けど、俺はさ、反戦歌歌うにはあまりにもポリシーないし、ノンポリだったから。やっぱりアメリカ、ヨーロッパの音楽に憧れてたわけだし。

―そこで目論見が外れて…すぐにでもプロにみたいな勢いだったのが。

松崎 で、高校の時のメンバーとずっとやってたわけ。ある時、俺らの噂を聞いて、今の宇崎竜童クンが来てね、「おまえらプロになんない?」って。俺らの練習見て、面白いのがいるって。俺もいいなと思って、すぐ手を挙げてプロですよ。

―宇崎さんは当時、プロダクションのマネージャーをされてて。見込まれたわけですね。

松崎 うん。で、そこ入って、もうガンガン頑張って。それこそ登竜門って言われるジャズ喫茶アシベ(『新宿ACB』)とかでガンガン歌ったね。けど、2年間やって、ちょうど僕らが20歳になる頃、メンバーがだんだん自分の将来のこと考えて、これやりたい、あれやりたいとか。やっぱりこう方針がさ。

グループサウンズの火も消えてきて、僕らの仕事場所っていうのも米軍キャンプとかになってね。ベトナム戦争がすごい時で、米軍の兵士達がたくさんいて、向こうからも慰問でアーティストが来るんだけど、それでも足りないって呼ばれて行って。

そこで、なんか人生であんなにカルチャーショック受けたの初めてだったな、うん。今まで味噌汁とご飯と、それからまぁ魚焼いたのとか、小っこいお店の定食みたいなのしか食ってなかったんだけど。わらじ状のこんなデカいステーキが出て、コーヒーがタダで飲めるってのもまず信じられないことで。コーヒーサーバーがあって、フリーなのよ。これスッゲーなーと。

ミルク使い放題、シュガーいくらでもOK! そこでガブ飲みしてさ。で、向こうの兵士と友達になると、それこそジーパンが1万円とかする時代に米軍キャンプの中は5千円ぐらいで売ってるのよ。スッゲー特権があるんだって。

―そこでまた新たに目覚めてしまったわけですね。

松崎 そうそうそう! そこで本場の対バンドがいてさ。「うわ~、うめ~なぁ。こいつらプラターズみて~じゃ~ん!」「プラターズだよ」「え?」とか言って。「俺たちの前座がプラターズ?」みたいな。ひっくり返っちゃって(笑)。

「逆に売れない頃が一番楽しかった」

―なんか、米軍キャンプの話だけで終わってしまう勢いですが(苦笑)。それで下積み時代というか、結局バンドの解散もあって?

松崎 下積みはあったけど…20歳を迎える1970年に解散しようってなってね。で、まだ学園紛争の名残(なごり)があって、学校行けるか行けねーかでぐじゅぐじゅしてたわけ。まだバリケードも外せないし。「しょうがねーな。じゃあ俺、歌い手になろうか」って、ソロ歌手でビクターからデビューしたんだ。

でも、あんまり気に入らない曲歌ってる歌い手になっちゃってさ。「なんだよ、オリジナル歌わせてくれよ」って。レコード会社にはちゃんと作詞、作曲の先生もいて、その曲がばっときて、「なんだよ、こんなイモみたいなのよ~」みたいな。でもそれを蹴るとクビになっちゃうわけだから。しょうがなく歌ってね。

―やっぱり、くすぶってた時期というのもあるんですね。

松崎 くすぶってるっていうか、でも逆に売れない頃が一番楽しかったけどね。その頃の芸能界って、演歌ブームだったから、何しろお涙頂戴の話をしないとトップになれないみたいな。そんな下積みとか苦労の話をして、苦しいのは当たり前っていうか、こうやっていろんな地方に行けるだけでもありがたい、見るもの何も新しいもので嬉しいんじゃないの?って思って。

なんでそれをみんな苦労話に変えちゃうの?と。みかん箱上がって歌ったって、俺なんかレコード店の前で歌えること自体いいじゃん!って思うしね。そういう演歌的なお涙に反感があって、「ポップじゃねーなー!」って。

―ポップ以上に松崎さんからはラテン体質なものも感じますが(笑)。明るさというか太陽のようなエモーショナルなものというか。

松崎 あ~、あるある! 自分のモチベーションはいつもそうだったし、うん。で、やっぱりステージに出ることが一番嬉しかったの。ほんで、一番の悩みがソロ歌手になったら全然ステージがないのよ。1ヵ月に1回あるかないか…。バンドやってる頃は毎日40曲、50曲は歌ってたのが「え、歌い手ってこんなに歌わない日々が続くの?」って。いっつもプロダクションに文句言ってたね。

そのうち、一緒にやってたバンドのメンバーふたりがガロってグループを作ってさ。まぁ後々のマークとトミーなんだけど、こっちがソロ歌手で一生懸命やってんのに、俺の上、ひゅ~って超えて売れちゃうしさ。エールを送る気持ちと悔しい気持ちと半分ぐらいで「しょーがねーなー」と思いながら。

ふたりとも同級生なんだけど。もうさ、亡くなっちゃったのよ。66になりゃあ、まぁしょうがねーけどな。

●この続きは次週、2月21日(日)12時に配信予定!

●松崎しげる1949年11月19日生まれ、東京都出身。大学時代から日高富明、堀内護とバンド活動を始める。その後、1970年にソロとして活動を開始。1972年『グリコアーモンドチョコレート』CMソング『黄色い麦わら帽子』が大ヒット。1977年には『愛のメモリー』も大ヒットし、紅白歌合戦に初出場。2015年には日本記念日協会から9月6日をクロのゴロ合わせで「松崎しげるの日」として認定された他、「黒フェス~白黒歌合戦~」なる初の主催フェスを開催するなど現在も勢力的に活動。ソロデビュー45周年記念アルバム『私の歌~リスペクト~』が好評発売中

(撮影/塔下智士)