女優写真の第一人者―。
立木義浩(たつき・よしひろ)氏を語る上の枕詞ではあるが、『週刊プレイボーイ』の仕事を振り返るとまた、別の顔が見えてくる。
齢(よわい)78にして現役バリバリの写真家が語る、時代の女、文豪、役者、そして写真とは?
■雑誌の撮影であれほど大掛かりな撮影は、後にも先にもない
この手のインタビューだとよく質問されるんだけど…「立木さんにとって女を撮るとは?」「グラビアとは?」って。もうご容赦願いたいね。今回は「写真」を主語に話をしよう。
週プレで初めて撮影したのはいつの頃だったか。1968年? ずいぶん昔の話だな。当時、若い野心のある写真家は競って作品撮りをしてカメラ雑誌で発表して、その流れで週刊誌にも掲載されることがあった。私たちの前の世代はヌードといえば顔のない、フォルムを強調した写真がほとんど。だから有名人が脱ぐこと自体が衝撃だったし、どこかでそんな現場があれば週刊誌がこぞって写真を奪い合った。どこも一誌独占で掲載したいわけだから。
1969年からフジテレビの『テレビナイトショー』に出演して、番組のレギュラーコーナーで毎週ヌードを撮ることになった。その写真を『イヴたち』(1970年)という写真集にまとめて日本橋の高島屋で展示をやったところ、100万人以上の客が押し寄せた。このことでも当時の事情がわかるでしょう? 大衆は新しい写真を渇望して、男たちは新しいヌードを熱狂的に欲していた。
週プレと本格的に仕事をやり出したのは80年代に入ってから。旧知のアートディレクター・江島任さんが『月刊プレイボーイ』をやっていて、週プレも触るようになったのがきっかけ。最初に作った写真集が『鬼龍院花子の生涯』(1982年)だったかな。五社英雄監督の映画に準じた作品で、主演の夏目雅子さんほか、岩下志麻さん、夏木マリさんなど女優7名を撮り下ろした。映画が元気な時代だったから、今ではタイアップなんて言うの? 現場のセットを借りて撮影することも多かった。
夏目さんとは神様の思し召しか、折に触れて撮る機会に恵まれた。売れている女優さんはとにかく時間がないから、メイク中の楽屋や舞台挨拶の合間でパッと撮る必要がある。迷惑になるギリギリのタイミングまで粘ってさ。お互いその加減がわかってくると、戦友とも呼ぶべき心地よい関係ができあがる。
彼女は個人的な作品『花気色』(1981年)にも出てくれて、着物を振り乱して走り回ってもらったよ。女優というと、まな板の上の鯉のような存在だけど、その鯉が堂々としてくれたらこっちも一生懸命になってシャッターを押したくなる。夏目さんはまさに全身全霊でぶつかってくれる、男気のある女優だった。
予算を湯水のように使った大掛かりなロケ
女優というと浅野ゆう子さんとの仕事も印象深い。当時の誌面を見ると「創刊20周年記念。構想3年、制作1年」なんて大げさなことが書いてあるけど、確かに予算を湯水のように使った大掛かりなロケだった。作家の大沢在昌(ありまさ)さんがシノプシス(物語のあらすじ)を作って、LAでは現地のスタントチームを雇って爆破したり、本物の黒豹を借りたり、車同士をぶつけて大破させたり。
大掛かりなロケになるほど写真の本丸からは遠ざかるけど、編集部にはこれまでの常識を打開したい、違うものを作りたいという熱気があったはず。結局、LAの写真だけでは納得がいかず、ハワイに飛んで追加の撮影をすることになった。後にも先にも雑誌の撮影でここまでやったロケはないはずだよ?
先ほど“写真の本丸”なんて話をしたけど、雑誌の写真の良し悪しを決めるのはやっぱり読者だから。時代の証言者じゃないけど、彼らが支持する写真こそ“いい写真”であり雑誌の“雑”な部分の魅力であるはず。よく仲間内で「2秒しか写真を見ない読者の手を止めるのはどんな写真だ…」と議論したものだよ。
そもそも女性を撮ることは、器としてどうやったって日常の構図にはならない。自意識過剰なカッコいい写真を撮りたい写真家がいて、綺麗に写りたいモデルがいる。その中でいかにして、ちょっとしたリアリティが漂う写真を撮れるのか。ここに写真家としての価値があるはずだし、読者、すなわち大衆に媚びない純粋な“写真”としての勝負がある。日々、“目線写真”ばかり撮って読者に埋没しているような写真家は不幸だよ。
■ジタバタするなよ。人生の心得は笑って暮らせ
だからというわけじゃないけど、こちらが会いたい、撮りたい対象に真っ向から勝負したくて、能動的に動いて撮影するモノクロ写真の連載を90年代にやることになった。こちらからオファーを出して返事を待ち、声が掛かったらその日の予定をぶっ飛ばしてでも行く。相手方の現場だから、空気を読んで邪魔せず撮影する。こういった負荷のかかる現場こそ燃えるものがある。
たけしさんの笑顔なんて珍しいでしょ? このときは、この一枚まであえてほとんど撮らなかった。待ちに待って、車に乗った帰りがけの最後の一発。健さんも思い出深い撮影だったよ。映画『四十七人の刺客』の現場で、吉良上野介(きらこうずけのすけ)の首をぶった斬るシーンの前日に、「立木さん、斬った首は抱えた方がいい? ちょんまげを持った方がいい?」と聞かれてさ。興奮したね。
このシーンがカットの直後に、ちょんまげを持って私の前に来てニカッと笑ってくれたんだ。ページになった後には丁寧なお手紙までいただいて。読者の反応はもちろん、被写体からほめられるのは無上の喜び。
文豪に感じた“魔が差す”瞬間
週プレでは柴田錬三郎先生、開高健先生との幸運な邂逅(かいこう)もあった。撮影の前日は背筋が伸びるというか、子供のように興奮したものだ。だって、一生かかっても身につけることができない教養の宝庫と少なからず時間を共にするんだから。
ふたりに共通して感じたのは“魔が差す”ということ。ワッとしゃべっているけど、不意に意識が内側に寄りかかる瞬間があった。きっと、言葉を生み出す文豪の性(さが)なんだろう。
開高先生の撮影の帰り際には必ず大きな声でこう言われたよ。「セニョール、笑って暮らせ!」。人間は思考が止まることがない、何かを考えないではいられない生き物。無知は幸せで、知ることは悲しみがつきまとう。それでも表現を試みるのが小説家であり、写真家であり、キミたち雑誌の人間もそうでしょ?
だからジタバタするな。週プレが50年になるなんて今日初めて知ったけど、これを肝に銘じておくべきだよ。いいか? 笑って暮らして、ジタバタするな。これは人間の生き方すべてに通じること。
最後にもうひとつ。写真を軽んじるな。週プレなりの“品”を忘れてくれるなよ。
■『週刊プレイボーイ』34&35合併号(8月8日発売)の「1986年の立木義浩」より
●立木義浩(たつき・よしひろ) 1937年10月25日生まれ、徳島県出身。NHK朝の連続テレビ小説『なっちゃんの写真館』のモデルになった立木写真館の次男坊として生を受ける。1958年、アドセンターに入社。広告、雑誌、カタログなど幅広く活躍した後、1969年にフリーに。主な作品に『GIRL』(中央公論社)、『マイ・アメリカ』(集英社)、『家族の肖像』(文藝春秋)などがある。近著はスナップショットをまとめた『動機なき写真』(日本写真企画)
(取材・文/WPB 50th Researcher’s)