デビュー35周年を迎え、ますます意気軒昂な山川豊さん

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

第28回のゲストで歌手の氷川きよしさんからご紹介いただいたのは歌手の山川豊さん。

今年がデビュー35周年ということで、実兄の鳥羽一郎さんとともに演歌界を代表する顔となった今、最近ではバラエティ番組等でも素の魅力を発揮。後輩の氷川さんも絶大な信頼を置く、その男気とはーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―氷川きよしさんの御紹介ということで。事務所の大先輩であり、兄貴のような感じですかね。

山川 いや、そんな大したあれでは…芸歴が長いのと年を取ってるだけですから。全然向こうのほうがしっかりしてるし。いや、本当に。

―でも、氷川さんからメッセージをいただいてまして「アイ・ラブ・ゆ・た・か!」と伝えてほしいと(笑)。一生ついていきますんで、いつまでも弟として可愛がってあげてくださいということでした。

山川 ははは。その割にはよく電話番号変えるんだよね。この前、会ったら「いやぁ、変えたんですよ! メールしといてください」って(笑)。だけど、僕はメールができないから。それで、みんなにやーやー言われるんですよ。

―メールはイヤなんですか? 面倒臭いというか。

山川 ダメなんですよ。電話できないところにいるからメールしてくるんだよってのは、わかってはいるんだけど。それはやっぱり電話で話してとか、会って話したりとかっていうものがあるんじゃないかっていうね。

―ダイレクトにやりとりするほうが気持ちも通じるんじゃないかと。

山川 僕って頼りない男だけど、なんかあったら電話してきてよ、とか言うんですよ。話して少しこう、気が紛れたり楽になればいいなと思うし。だけどやっぱり、きよし君なんかも遠慮してるのか知らないけどね。

―でも御自宅に遊びに行かせてもらったり、いろんな相談をさせてもらってる存在で、本当に感謝してますと。

山川 (うっすら目を滲ませ)デビュー前にうちに来てね、お酒飲んで…女房と一緒に皿を洗ってる光景を思い出しますよ。僕もそういうのがあったからわかるけど、(デビューできるのか)不安で不安で大丈夫なのかっていう、そういう時期に来てましたから。それをずっと覚えているんでしょうね。

いつもショーでも言うんだけど、きよし君が未だに「コロッケの味が忘れられない」って。いや、伊勢エビもアワビも出したんだよ、そっちも言ってよ!みたいな(笑)。でもコロッケが美味しくて、それが印象に残ってるみたいなんだよね。

―おふくろの味的に忘れられないんですかね。

山川 それからデビューして紅白にも出場して「もう(うちには)来ないか?」って言ったら「いや、行きます!」って。同じように女房と皿を洗ってましたね。あぁ、このコはそのままだなと。やっぱりずーっと今もそのままですよ、うん。

だから、ずっと仕事でも緊張緊張の連続で、苦しいことも辛いこともあると思うんだけど、やっぱり人間ひとりで生きていけない部分もあるし。歌のこと含めていろんな意味で相談してくれればいいですしね。

自分で抱えられちゃうから抱えるんじゃなくて、たまには発散して人に言うとか。僕になんでも言えばいいんだよ、それで気持ちっていうのは多少楽になるからね。

「タレントの絆が仕事の中でも出てくる」

―本当に弟分というか親戚の甥っ子のような。そう思わせる魅力がファンからも愛される理由でもあるんでしょうね。

山川 そうですよね。だからやっぱりファンの皆さんも可愛がりたいっていう。なんか支えてあげたい、困っていたらなんとかしてあげたいみたいな。

―母性本能をくすぐる的な。

山川 そういうのはずっと変わらない。それがやっぱり地の氷川きよしじゃないかと思うんですよ。自分を演じてどうこうっていうよりは、そのままが出てるから、やっぱり共感するんでしょうね。自然だから。

本当にもうたくさんのファンがいる中で、ひとりの人が困ってても自分から行って「どうしたの?」って、そういうタイプだね、きよし君って。

―そういう関係も演歌っぽくもありますけど。山川さんもお兄さんの鳥羽(一郎)さんも同じ感じじゃないですか。

山川 やっぱり家族的なところはあるんですよね。うちの事務所の…亡くなられた長良会長もやっぱりファミリーじゃなきゃいけないって。それだからこそ、プロのタレントの絆みたいなのが仕事の中でも出てくるっていうか。自然のままが出るみたいな。

もちろん、その中でも同じ世界にいてお互い自分自身が頑張らないといけない、みんな負けたくないっていうのは絶対どっかにあると思うから、それは必要だと思いますけど。

―アスリートとか職人の世界でもそうですが、ライバルであり仲間でもある。

山川 そう、だからうちの兄なんかでも35年間、ライバルでやってきたわけだし負けたくない。それは事務所もレコード会社もファンの皆さんもやっぱり同じ気持ちだと思うし。なんとか少しでも山川豊を押し上げようっていうね。

鳥羽一郎が活躍すれば、こっちも負けられない、そういう部分ってすごくあるけど、仕事離れた時には、やっぱり兄は兄ですから。男同士だと「おまえに言われたくないんだよ」みたいなこともあるけどね。

―この時代、家族の絆があらためて言われたりしますが、鶴瓶さんの『家族に乾杯』とかでも、いろんな地方の家族が出てきて、まだまだ日本にもそういうのが残ってるんだなと思いますけど。山川さんのところもまさにそういう…。

山川 うん、今はそういうのって少なくなりましたね。見て見ぬ振りするみたいな、そういう時代だから…。あとは、やっぱり近所のおばさんとか、おじいちゃんやおばあちゃん、親父やお袋の話をよく聞くってことはすごく大事なことですよ。

「あの時、千円もなかったんや、苦労したんやな」

―親や家族の経験があって、当然受け継がれることがね。

山川 まぁ僕の場合は、うちが貧しいほうで…当時は皆そうでしたけどね、もう食うか食わずかで精一杯ですよ。母親も働いてね、子供なんか面倒見る暇なかったんだけど、そういうのを見ながら子供って育つし。

学校の給食代を月末の30日に持っていくのでも、千円のお金がなかったんでしょうね。朝、母がどっか親戚に借りにいくんです。それがずーっと記憶に残っていますよ。それで自分も頑張れたみたいなね。

そういう意味で、何かを思い出すとか体験するって、変なトラウマじゃなく、いい方向に進めていったら頑張れますよ。あの時、千円もなかったんや、おふくろ、苦労したんやなってね。

―千円の価値が今とは全く違いますしね。そういえば、以前のインタビューでは、父親のギャンブル癖にも困らされたとか…。

山川 もうすごかったですね。頑固だし。そんな大変な時代で、自然相手に生活してたわけですから。

―お母さんは農作業と海女(あま)さんとをやられていたそうで。

山川 アワビとかが取れないと生活できないわけだよ。その一生懸命獲ったアワビやサザエのお金をみんな親父が持っていくんですから。たまったもんじゃない。

―そこでお父さんに対する反発も?

山川 それはなかった。反発っていうより(当時は)もう恐くて。まだ健在ですけどね、90歳で。

―ただ、お母さんが晩年、認知症になられて。最後はお父さんがお世話して尽くされたとか。

山川 罪滅ぼしだって言ってね。いや、あの時はすごかったですよ。やっぱりさすが親父だなと思ってね。

実家(鳥羽)の周りが平坦な道路じゃなくて坂道なんですよ。車は入っていけないし、自転車も入っていけない。車が着いても、そこから普通の足で10分や15分くらいかかるんだけど、認知症でもう足もやっぱりふらふらしてるから1時間近くかかって。それを送り迎えしたりね。あと、寝てる時にどっかいっちゃう時があるって、手に鈴付けて。やっぱり自分でも気づいてたんだね。申し訳なかったみたいな。

―若い頃の後ろめたさというか。まぁその時代の男は無頼でなきゃやってられっかみたいなのもあったんでしょうけど。

山川 皆、必死だったんですよ。特に漁師町とかいうのはみんなそうでしょ。ものはあんまり言わないしね。

―そういう不安定で貧しい生活の中、お兄さんの鳥羽一郎さんも遠洋漁業の船に乗って、弟の高校進学を支えられたという…。

山川 そうなんですよ。妹たちもそうだけど、それがもうずーっとあるんですよね。当たり前だと思っちゃうとダメなんで、やっぱり覚えてるっていうのがすごく大事なことです。だから兄弟の序列ができるんですよ。

それがどうしたんだみたいになったら終わりだよね。昔のことだからじゃなくて、それはやっぱり忘れちゃいけない。

「子供心ながらにわかる、この人はすごい人だ!」

―今は失われつつある家父長的なね。そういえば、有名なエピソードがありますよね。デビューされた81年の日本歌謡大賞新人賞授賞式にお兄さんが急遽駆けつけられて。警備員の静止を振り切って入場して、お祝いにきたとか。

山川 あれは兄貴ならではでね。船から上がってきたばっかりだからわからなかったんですね、世の中のことが(笑)。警備員の人がいようが何しようが、自分の行動がすぐ感情のままに出てしまうんだよ。

―気持ちがそのまま現れてきて。直情型な感じですね。本宮ひろ志さんの漫画の世界みたいな(笑)。

山川 そう、そういうタイプ。で、今でも(歌手が)ダメだったらまた船に乗ればいいみたいなとこがあるしね。でもそれでいいんじゃないの? 会うとよく言うよ、「ダメだったらまた船乗りゃいいじゃん」って。

―まぁ弟のデビューで一念発起して「俺も夢だった」と歌い手になるところもまたストレートですけどね。

山川 ふたりとも本当に運がよかったと思いますよ、本当に。僕のほうは元々あんまり歌に興味はなかったんだけどね。ただ、兄貴が結構町でも有名でしたし、レコードとかもよく買ってきては聞いていたんで、いない時に盗み聞きしたり。それでも僕は歌手になりたいとは思ってなかったんですよ。

だから兄貴が船に乗っている間にポンポンポンと僕のほうが先に行っちゃって。「なんで弟? 弟なんか歌わないじゃねえかよ」みたいな(笑)。

―では、そもそも山川さんがオーディションを受けたきっかけというのは…。

山川 それが中学3年生の時、五木ひろしさんをTVで観た時に、強烈に「歌い手になりたいな」「こういう人みたいになりたい」っていうのが強くなって。全日本歌謡選手権で10週勝ち抜いて「よこはま・たそがれ」で再デビューされた時のね。強烈でしたよ。

そこからもうずっと…まだ子供ですから衝撃でね。五木さんには失礼かもしれないけど、苦労されて苦労されて、そういうものがやっぱり画面に映った顔とかに出るんだね。子供心ながらにわかるんですよ、いや、この人はすごい人だ!みたいな。

―そこまで人生を変える分岐点になったとは…人生というか、背負ってるドラマが垣間見えたんでしょうね。

山川 だからあの時に見なかったら、今頃どうなってたかわかんないですね。自分の歌がどうなのかもよくわからないけど、最初は本当に五木さんの物真似みたいなもので満足してたからね。それがエスカレートして、歌手になりたいなって。

―それでオーディションで認められて、お若いうちに即、デビューされて?

山川 いや、その前に職業訓練校に行ったんですよ。そこで2年、訓練を受けて、溶接、電気とか。だから、ちょっと車ぶつけたくらいの傷ならすぐ直せますよ。アーク溶接の免許も持ってるし。

その学校にいる時、寮だったんです。家からも通えるんだけど、親父が「とにかく寮に入れ」って。やっぱり団体生活じゃないですか、そういうところで世の中を覚えさせようってわかってたんでしょうね。

で、その頃がまぁピークでしたよね。4人部屋で備え付けの一畳くらいのベットに寝てましたけど、上に五木さんのポスターを貼って。隣はジャッキー・チェンとかブルース・リーかなんか。その隣はトラック野郎とか。いっぱいいましたよ。

―ははは、隣は(菅原)文太さんで、自分は五木さんリスペクトという(笑)。

山川 僕は五木さん(笑)。

―でも、矢沢永吉さんもお好きだったんですよね?

山川 「キャロル」が大好きでしたね。でもそれは“なんちゃって”なんですよ。みんなが永ちゃん永ちゃんって、仲間に入らないとまずいから。それで好きになっちゃって。

―一応、その時のトレンドとして? でもココロは五木さんだったんですね(笑)。

山川 そうそう。遅れるといけないからって。だけど、その頃もう自分の頭では、歌手になりたいっていうのはすごい強かったね。で、学校を出てから1年、鈴鹿サーキットで勤めたんだけど、姉が名古屋にいたから、歌えるところがあったら探してほしいということでお願いして。そしたら電話かかってきて、あるからって言われて、すぐに仕事辞めて。

そしたらキャバレーだったけど、歌い手さんは結構来てましたし、面子もすごかった。僕みたいな素人が歌えるような環境じゃなかったですからね。で、そこがつぶれて、次のキャバレー行った時に、普段はキッチンのほうで仕事して、まだ開店前にバンドさんがいたから仲良くなって、そこでたまに歌わせてもらったんですよ。

―即デビューでトントン拍子というのでもなく、やはり下積みは経験されてるんですね。

山川 そこが唯一の勉強の場でしたね。で、その店が終わって、歌える店が深夜にもあるってことで、そっちにも行ったんですよ。そこでは結構歌えて、上手いコがいるってちょっと有名になって、お客さん引き連れてね。

そしたら友達がオーディションのテープを出したんですよ。それがきっかけでカラオケ大会があって優勝して。レコード出してくれるって約束だったんだけど、そこに運命の出会いというか出来事がまたあって。

ずーっとこう、たどってくると、人生の分岐点みたいなのがあるんだよね。優勝した時、そこにレコード会社の方がいて「本当にやる気があるんだったら東京に出てこい」と誘ってくださって。で、そのレコードの約束も断って、行ったのはいいけど、すぐに歌手にはなれなくて。最初はスタッフとして働いてたんですよ。

―キャリアだけ見ると、デビューして結構すぐにいろんな賞を獲られて順風満帆なようでも、そんなものじゃないと。

山川 だけど、僕はやっぱり運がよかったと思いますよ。先輩たちはもっともっと苦労されてたりね。2年くらいの修行なんか、そんなの当たり前みたいな。当時はデビューできんのかなっていう不安もありましたけど、今思うとラッキーなほうだったのかなと。

●この続きはこちら⇒山川豊「今度は離島にも行こうと。“会いに行く歌手”です」

(撮影/塔下智士)

●山川豊10月15日生まれ、三重県出身。1981年『函館本線』でデビュー。新人賞を獲得。1986年『ときめきワルツ』で紅白歌合戦初出場。1998年発売の19枚目『アメリカ橋』が大ヒットを記録。日本演歌大賞、日本作詩大賞など数々の賞を受賞。近年ではバラエティ番組などでも活躍中。3月16日に発売した35周年記念両A面シングル「再愛 / 蜃気楼の町から」がロングヒット中。11月3日にはよみうりホールにて「山川豊 デビュー35周年記念コンサート」を開催。チケット好評発売中。