「芸能スキャンダルへの不寛容は、視聴者がテレビの中の芸能人との距離が近いと誤解してしまうことに原因がある」と分析する武田砂鉄氏

“背中ヌード”で芸能活動を再開したベッキーに対し、ネット上は辛らつなコメントで賑(にぎ)わっている。もうそっとしておいてやればいいじゃないかと思うのだが、世間は芸能人のスキャンダルには相変わらず手厳しいようだ。

そんな中、人気コラムニスト・武田砂鉄氏の新刊『芸能人寛容論 テレビの中のわだかまり』(青弓社)が話題だ。なぜ、世間は芸能人のスキャンダルに対してこんなにも不寛容なのか――その原因を武田氏は「芸能人と視聴者の距離感の変化」と分析する。どういうことか?

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―『芸能人寛容論』は芸能人をテーマにしたコラム集ですが、「まえがき」ではいきなり、芸能人との接し方について「いちいち考えようとしない。そんな余裕なんてない」と書かれていますね。

武田 芸能人は主に、テレビという別世界にいます。冷たい言い方をすれば、本来は日々の暮らしからとても距離のある、自分たちにとっては「どうでもいい存在」であるはず。しかし、不倫したことを詫びたベッキーに対して「謝罪が足りない」と本気で怒った人がいたように、どうやらこの感覚も自明ではなくなってきた。近い距離で憤(いきどお)る感じに気持ち悪さを覚えます。

―なぜ芸能人のスキャンダルに対する視聴者の態度は変化したのでしょうか?

武田 ひとつの理由には絞れませんが、今、多くの芸能人が「私はテレビの前の皆さんと変わらないんですよ」とアピールすることでお客さんを獲得する「密着型サービス」を増やしているからではないかと思います。芸能人はとにかく「身近な存在」だと思ってもらうために、せっせとブログを書き、インスタグラムに写真をアップし、トーク番組に出れば「友達は少ないし、休みの日は家に閉じこもっちゃうタイプです」と、どこかで聞いたような「意外な話」を繰り返します。

距離を近づけて人気を得ようとする、そして保とうとする…だからこそ、スキャンダルが発覚すると、視聴者は「えっ! 裏切られたんですけど!」と怒り出すのかもしれません。そして、ファンのみならず、これまでファンではなかった人たちまでも、さも裏切られたかのように苛立っていく。こういった芸能スキャンダルへの不寛容は、視聴者がテレビの中の芸能人との距離が近いと誤解し、クソ真面目に接してしまうことに原因があるのではないでしょうか。

―不寛容というキーワードが出ましたが、『芸能人寛容論』というタイトルはどのような意図で?

武田 50人ほどの芸能人について考察した本なのですが、「まえがき」に「テレビを見ていて感じた芸能人へのわだかまりを、じっくり炙(あぶ)って可視化し、精いっぱい受け止める。頼まれてもいないのに、力の限りで寛容する」と書きました。

「寛容」というのは、芸能人をひとまず受け止めて、視聴者としての主体性を取り戻そう、という意味合いです。そのために、頼まれてもいないのに必死に考えてみる(笑)。やや抽象的ですが、何もかも受け入れるわけではなく、受け入れるか、受け入れないかはこっちで判断しよう、ということです。

距離感を保って書かないと、すぐにおべんちゃらになる

芸能人について書く時、対象との距離感を保っておかないと、すぐにおべんちゃらになります。今、新ドラマや新作映画について書かれている多くのインタビューやレビュー記事は、愛情を注ぐことが前提になっています。とにもかくにも注ぐんです。そして、当人に近づけば近づくほど、相手の事情を理解しなければならなくなる。そうすると、自分が思ったことなんて、なかなか踏み込んで書けなくなります。

自分の場合、その芸能人に詳しいかどうか、好きかどうかは関係ありません。流しっ放しにしているテレビを観て「今日も誰それが生温(ぬる)いなぁ」と思ったら、それをそのまま書く。芸能界の中の事情、ではなく、テレビの前で自分が思ったことを書いています。

自分の親も、自分と同じく口が悪いのですが、子供の頃、年末にテレビ東京でやっている『年忘れにっぽんの歌』を見ながら、次々出てくる往年の歌手に対して「うわぁ、すごく老けたわねぇ」「あらぁ、いつの間にか禿(は)げちゃって」とか「この人、銀座に女作って別れたはず」「何年か前に土地を売ったんじゃなかったかしら」みたいなことをテレビに向かって放っている。

ウィキペディア以上の情報をどんどん挟みながら、好き勝手にツッコミを入れていく。これがテレビを語る自由だな、と。自分の書くコラムも同じで、テレビを見ている側のこちらの視点や態度を存分に含めて書きたいんです。

―芸能界に近づかず、あくまでひとりの視聴者として思ったことを書くということですね。

武田 はい。テレビの中と視聴者は決して地続きではないのに錯覚してしまう。それは、川を挟んであっちとこっちにいるのに芸能人が自ら、お茶の間に向けて橋をかけてくるからです。「勝手に橋かけないでよ」と牽制して、向こう岸の様子を見る。わざわざ川を渡って、向こう側に出向いて、そこでのルールに配慮しながら書くのではなく、こっちから川の向こうを見て書く。その時にこっちの川べりにいる人の声も交えながら書くようにしています。

―確かに『芸能人寛容論』の中では、芸能人への評論はもちろんのこと、芸能人に対する視聴者の目線が鋭く分析されていますね。

武田 視聴者の、芸能人に対する見方の変化にも興味があります。「沢尻エリカはいつまで不機嫌を待望されるのか」というタイトルのコラムを書きましたが、沢尻エリカが「別に…」と言ったのって、もう9年も前のことです。しかし、世間は彼女がまたいつか不機嫌になるんじゃないかと、どこかで期待している。その期待感を残しているのは、本人ではなく、視聴者の目線ですよね。「たぶんまた何かやるんじゃないか」という気持ちを残しておく。彼女へ向かう特殊な需要を生み出しているのは、彼女ではありません。

ファンでもアンチでもない、その芸能人のことをさほどなんとも思っていない層の見方とはいかなるものか、を見つめるようにしています。例えば、EXILE。彼らのことが大好きでたまらない人もいれば、一方で受け付けないことを乱雑に表明する人もいる。

でも、ほとんどの人は「よく見るけど、あんまり受け付けないっていうか、どっちでもないっていうか…」くらいに思っているはず。大多数であるこの層を分析しないと、EXILEという産物には迫れないと思うんですね。今回、その思いを書いたのが「やっぱりEXILEと向き合えないアナタヘ」というコラムです。

芸能界と視聴者の間に緊張関係を取り戻したい

―フジテレビの『ワイドナショー』のように、芸能人自らが芸能人・芸能界について評論し、それがニュースになっているケースも最近目立ちますね。

武田 芸能界の外側がやるべき仕事を、芸能界の内側で済ませている。そして、その彼らのコメントがたちまちネットニュースになる。メディアが自分たちで意見を発するのではなく、「芸能人について芸能人がこう言ってた」の形で丸投げしています。

有吉弘行、マツコ・デラックス、坂上忍といった芸能人たちが「毒舌」と言われて久しいですが、「毒舌」と言っても、中の世界で完結している毒なのですから、それは本来、毒ではない。それをあたかも視聴者が「マツコさん、あの人にもツッコんでてすげぇ」「坂上さんって、やっぱりタブーねぇよな」と、芸能界ムラに参加した気分で判別するべきではないはず。

「業界が茶の間化していて、茶の間が業界化している」という言い方をよくするのですが、茶の間には「業界化したい欲望」があるんです。飲み会で「今、噛んだやろ!」とツッコんでみたり、スタッフ目線になってタレントのワイプ芸を褒(ほ)めてみたりしますが、噛む笑いやワイプ芸のような「テレビっぽい振る舞い」なんて、自分たちには本来必要ありませんよね。そういうテレビの中の事情を排した上で、あくまでも“やっかいな視聴者”として分析したいと思っています。

大仰な言い方をすれば、芸能人について書く時に「主権」を明け渡したくないと思います。芸能人がメディアやライターに対して「ったく、また適当なこと書かれてさぁ」と言うのはいつの時代も同じかもしれないけれど、今は近い距離にファンがいるので、「ですよね、ホント、しょうもない連中ですよね」と結託されてしまう。それ、腹が立ちますよね。芸能界と視聴者の間に緊張関係を取り戻したいと思って書いています。

―それは非常に壮大なテーマですね!

武田 別にそれをみんなにやってもらおうというわけではなく、あくまで自分が芸能人について書く上でのスタンスです。今は物を書く人間が、あわよくば芸能人本人に認められたいと思い、書く対象に気に入られることを目標にレビューやインタビューに取り組みすぎだな、とは思います。

例えば、自分の書いたレビュー記事をミュージシャン本人が「是非読んでみてください」とツイートしてくれた。それを大興奮してリツイートしてしまう。かく言う自分もたまにやってしまうのですが、その嬉しさをあまり表に出さないほうがいい。だって、そうやって喜んでいるだけだと、主従関係は完全に決まってしまうし、緊張関係なんて当然生まれませんから。

それを繰り返していると、書くものの基準が「どうやったら本人に気に入られるか」になってしまうかもしれない。とても作為的です。自分の文章はよく「ひねくれている」と言われます。確かに性格はひねくれていますが、少なくとも文章は本人に褒められることを目指さずに、思ったことを書いているだけです。

「褒めたいの、貶(おとし)めたいの、どっち?」と聞かれることもありますが、そのどちらかに決めようとは思っていません。ただ「こう思いました」と書くだけ。文章の主役が書き手じゃなくてどうするんだ、と。どうやったら褒められるか、あるいは叩けるかを目指すより、よっぽど素直だと思っているんですけどね。

―では、武田砂鉄さんは“ピュアな書き手”ということですか?

武田 はい。自分では“ピュアな書き手”だと思ってます。そう自分で宣言しているこのダサさは、なんなんですかね(笑)。

●武田砂鉄(たけだ・さてつ)1982年生まれ。ライター。東京都出身。大学卒業後、出版社で主に時事問題・ノンフィクション本の編集に携わり、2014年からフリー。15年、『紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)で第25回「Bunkamuraドゥマゴ文学賞」を受賞。16年、第9回「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」を受賞。「cakes」「文學界」「NEWSWEEK」「VERY」「SPUR」「Quick Japan」「暮しの手帖」「SPA!」などで連載を持ち、インタヴュー、書籍構成なども手がけている。

●『芸能人寛容論 テレビの中のわだかまり』青弓社 1600円+税

(取材・文/山本隆太郎)