世界中で大ブームの『PPAP』についてろくに分析もせず、頭ごなしに全否定する評論家やら作詞家やらが多すぎる! これは由々しき 事態だ!!
なぜなら、多少なりとも言葉をかわいがったり、言葉とけんかしたりした経験がある者にとっては相当にわかりやすい作品なのだから…。そこで今回、ノンフィクション作家の前川仁之氏が楽曲を分析してくれた。
■東洋的な「踊り」と「手遊び歌」
まず「振り」について軽く説明しておこう。『PPAP』を『PPAP』たらしめているのは上半身、特に手の動きだ。手の動きさえあれば作品の芯は模倣できる。
伝 統的に下半身の動きが中心になる西洋のダンスに対し、東洋の踊りは上半身が命、という対比はよく知られている。日本は東洋も東洋、極東だ。各種盆踊りは言 うに及ばず、前世紀の末期にギャルの間ではやった「パラパラ」という踊りも、手の表現の忙しさに比べてステップは単調だった記憶がある。
『PPAP』 も東洋的な上半身主体の「踊り」と考えられるが、この作品を分類するには、実はよりふさわしい枠組みがある。『げんこつやまのたぬきさん』をはじめとする 「手遊び歌」だ。『PPAP』に非常によく似た手遊び歌が『グーチョキパーでなにつくろう』である。これと比較することで『PPAP』の歌詞の面白みがよ くわかる。
『PPAP』の構成は右手と左手を合わせて何かをつくるこの手遊び歌とほとんど同じである。右手で「ペン」を持つジェスチャー、左手で「アッ ポー」を持つジェスチャーを見せ、両者を合わせて「アッポーペン」にする。続いて今度は左手で「ペン」、右手で「パイナッポー」のジェスチャーをし、「パイナッポーペン」をつくる。
ここで極めて重要なのは『グーチョキパーでなにつくろう』の場合に見られる、一種の弁証法的な発展(右手はグー、左手はチョキでカタツムリ、とより高次の段階に進む)が『PPAP』にはない、ということだ。
アッポーペンにしろパイナッポーペンにしろ、ただ登場する語を並べただけなのだ。ジェスチャーでは一応突き刺したことになっているが、果たして実際には何が起こっているのか。『PPAP』の、あるかなきかのオチはこの問いに答えてくれる。
『PPAP』に込められたメッセージとは!?
■「対等な結合」がもたらす世界平和
曲の後半、『PPAP』の歌い手は、前半でつくった(らしい)「アッポーペン」と「パイナッポーペン」を右手と左手であらわし、両者を合わせ、結末に導く。 そうして出来上がるのはなんと、「ペンパイナッポーアッポーペン」なのだ! なぜそんなにたまげるのかと言えば、順当にいくとここは「アッポーペンパイ ナッポーペン」か「パイナッポーペンアッポーペン」になるべきところだから。
2回続けば、人は無意識に法則性を期待する。ところが、それが裏切られるのである。かつて髙田延彦が北尾光司をKOしたとき、ローキックを2発打って下に注意を引きつけてからハイキックに移行した、あれと同じことが起こっている。
しかし、このどんでん返し以上に大事なのは、「ペンパイナッポー……」を可能にしてしまう、「対等な結合」とでも呼ぶべき哲学であろう。記者会見でピコ太郎氏が発した次の言葉がヒントになる。
「カバー動画で、実際ペンを持ってリンゴにホントに刺してる人がいます。あれ、もったいないです。なので僕は必ずエアで、マイムでやります」
実際に物質を変容させてはいけない。これこそが『PPAP』に込められたメッセージなのだ。本当にパインにペンを刺してしまったら、それは「パイナッポーペ ン」として現実を規定することになる。そこでは両者の序列もおのずと決まり、ペンを抜いたところで二度と元のパインには戻れないのである。
『PPAP』 はこうした酷薄な、闘争と決断と不可逆的変化に満ちた世界をやんわりまったり拒絶する。現実に刺していないからこそ、言葉の、「イマジネーション」(前述 の会見でのピコ太郎氏の言葉)の領域で、「パイナッポーペン」は何度でも「ペン」と「パイナッポー」に戻れるし、「ペンパイナッポー」にもなれるのであ る。そして決して「パイナッペン」のように止揚(しよう)されることはない。要素は常に独立し、対等の関係にある。
さらに、『PPAP』の タイトル及び動画中のテロップが「対等な結合」を志向しているという点も指摘しておきたい。事態は「Pen-Pineapple-Apple-Pen」なのであり、ひとつひとつがハイフンでつながれ、通常の合成語、特にドイツ語で頻繁にあらわれ初学者を面食らわせる 「Penpineappleapplepen」式のやたらと長い一単語にはなりえないし、なろうとしないのだ。解体前の「チェコスロバキア連邦共和国」に あって、「対等なふたつの共和国」であることを強調するスロバキア側が国名表記にハイフンを挿入するべく「チェコ‐スロバキア」を主張して一大論争に発展 した歴史が思い出される。たかがハイフン、されどハイフンなのだ。
もちろん、ピコ太郎氏自身がどこまで意識して作ったかとなるとまた別の問題だ。アーティストはしばしば無自覚に傑作を生む。ただ、記者会見で「世界平和」をテーマのひとつに挙げた彼のこと、『PPAP』がはらむ、何物も否定しない優しさの思想をいやがりはしないだろう。
英詩の韻律分析の方法でフレーズを解剖!
■和製英語詩としての『PPAP』
最後に、『PPAP』が日本人に思い出させてくれた、「言葉のおいしさ」に触れておこう。
『PPAP』 の締めのフレーズ(タイトルでもある)「ペンパイナッポーアッポーペン」の主調子音がP音であることは言うまでもない。普通の日本語ではなかなかこうも密集する機会のないこの無声破裂音は、なんとなく楽しげな響きと舌触りを持っている。少し前にはやった「オッパッピー!」や「ぽぽぽぽ~ん」、さらに前には やった「パッパラパー」、ほかにも東北地方で昔話を締めくくる際に使われる「とっぴんぱらりのぷう」などなど、P音の効果については実感できる例がほかに もたくさんあるだろう。
メロディはどうか。この曲は全体として大したメロディを持っておらず、2度繰り返される最後のフレーズに至ってはほ ぼ完全に「朗読」になっている。実はこの部分にこそ、言葉そのものに備わる音楽性を取り戻すという、『PPAP』が成し遂げた現代日本への最大の貢献があ るのだ。
ピコ太郎氏が会見で述べたように、この作品で使われている言語は日本人用に修整された英語である。appleが「アッポー」になり pineappleが「パイナッポー」になった結果、最後のフレーズは英語本来のアクセントから自由になり、かえって朗々と言葉の音楽を奏でてくれる。
どういうことか。一応は「英語」なので、英詩の韻律(いんりつ)分析(scansionという)の方法でこのフレーズを解剖してみよう。以下、大文字は『PPAP』のオリジナル音源でやや強く発音される音節を表す。
PENpai NA ppo aPPO PEN
つまり、強弱-強弱-弱強-強のリズムを持っている。こういう場合、最後の「強」はそれに続く「弱」が欠落した形と見なすので、このフレーズは「trochaic tetrameter(強弱格4歩格) で第3脚がinversion(反転)」と分析できる。
『PPAP』は「わけがわからない」ものではない
「強弱格4歩格」は英詩の伝統において「弱強格5歩格(シェイクスピアの作品は大部分がこれで書かれている)」の次くらいに由緒正しい定型韻律だ。童謡にも使われ、例えば『マザー・グース』の「かぼちゃ好きのピーター(Peter, Peter, pumpkineater)」はその典型。英詩人ウィリアム・ ブレイク(1757~1827年)の代表作「虎(TheTyger)」の冒頭2行はぜひ味わっておくべきだろう。こちらは最後の「弱」が欠落しているので より『PPAP』に近い。
Tyger! Tyger! burning bright
In the forests of the night
大声で朗読してみよう。『PPAP』の締めのフレーズに似たリズムと「中毒性」が体感されるはずだ。こうして明らかになった言葉の音楽こそ「ペンパイナッポーアッポーペン」という、南国と北国の果汁と東西の言霊(ことだま)をたっぷり含んだ詩句の味わいなのだ。
幼 い頃は誰にでも、おしゃぶりのように口にして飽きない言葉や音があったはずだ。そして文明がまだ若かった頃、人々は言葉の音楽に対して今よりもはるかに鋭 敏な舌と耳を持っていた。洋の東西を問わず、詩の韻律とは、ほとんど官能的ですらある味わいと、人々の記憶を助けるという必要から自然と生まれたものであ ろう。
『PPAP』はこの伝統にしっかりと根差している。決して「わけがわからない」ものではない。
●ピコ太郎(ぴこ・たろう) 千葉県出身、自称53歳のシンガー・ソングライター。プロデューサーを務めるのはお笑い芸人の古坂大魔王
(撮影/F.Sato)