『週刊プレイボーイ』51号ではこの1枚の他にも堀江しのぶさんの未発表写真を掲載している 『週刊プレイボーイ』51号ではこの1枚の他にも堀江しのぶさんの未発表写真を掲載している

80年代半ばに男性誌の表紙や巻頭を席巻した元祖・グラビアアイドル、堀江しのぶの未発表発掘写真が発売中の『週刊プレイボーイ』51号に掲載、話題を呼んでいる。

1965年生まれの堀江は、高校生の頃に応募した「クラリオンガールコンテスト」で最終選考に残り、1984年2月には『デラックスマガジン』の表紙を飾りグラビアデビュー。あどけなさの残る笑顔とB90W62H93の日本人離れしたプロポーションで一躍トップアイドルとなった。

その後、TVや映画など様々な分野で活躍し人気を得るが、1988年4月に緊急入院。同年9月、志半ばのまま23歳の若さで天国へと旅立つことになる。その突然の死はファンのみならず大きな衝撃を与えた。

今回、週プレに掲載されたグラビアは、ご親族より提供された写真より構成されたもので、編集部との間で繋いでくれたのが井丸ゆかりさん。井丸さんは80年代、バラエティや情報番組、グラビアでも活躍した元女優・タレントで、堀江さんとは当時、親友の間柄。今なお、ご親族と家族同様のお付き合いを続けている。

80年代を颯爽と走り抜けた伝説のグラドル・堀江しのぶの素顔とは? 井丸さんに語ってもらった。

「しのぶと知り合ったのは84年頃。『ミントタイム』という深夜番組があって一緒に出ていたんです。同じ19歳で誕生日も1ヵ月違い。初対面から意気投合しちゃって。電話番号を交換して仲良くなりました。

それからはいつも一緒。ロケで地方に行かない時は週4、5日は会ってましたね。しのぶは名古屋から出てきてひとり暮らし。私は東京生まれの実家暮らしだったんですけど、私はしのぶの部屋の鍵を持ってたし、しのぶは私がいない時も私の母と長い時間話し込んだり、家族同然の付き合いでした」

ふたりは一緒にいて喧嘩もしたことがなかったほど仲がよかったという。また同じグラビアをやっていたこともあり、仕事に関する話もよくした。

「しのぶが芸能界に入ったのは友人の誘いで、ある化粧品のイメージガールに応募したのがきっかけだと聞いてます。そこで5人のうちのひとりに選ばれて、それまで芸能界に興味なかった彼女はコンテストに応募するようになったとか。それでクラリオンガールの最終選考に残ったところ、野田さん(元イエローキャブ、現サンズエンタテインメント会長の野田義治氏)と知り合って。そこからグラビアを中心に仕事するようになったんです。そうしたらすぐ人気者になっちゃった。

デビューして最初の頃はたくさんのグラビアに出ていましたけど、将来は女優になりたいとよく言ってました。そのために休みも取れないくらい毎日のようにロケに行ってましたね。

しのぶの大きな胸はよく言われますけど、やっぱりコンプレックスではあったと思いますよ。グラビアの時、キワドく撮られるのには抵抗があったみたいだし。それでも、こんな風に撮られたら可愛く見えるかなとか、この水着いいよねとかそういう楽しい話題が多かったかな。

仕事のグチ? 聞いたことないですね。名古屋から東京に出てきたこともあって、頑張らなきゃって気持ちが強かったからどんな仕事であっても常に一所懸命で。尊敬するくらい頑張り屋さんでした」

彼女からの最後の言葉

グラビアで頭角を現し、TVドラマ、映画、バラエティ番組の司会などマルチに活躍するようになるが、人気者のイメージとは裏腹に、素顔の彼女はどこにでもいそうなごく普通の女のコだったという。

「普段の彼女はとにかく明るくて人懐っこい感じ。芸能人というより普通の女子大生のイメージに近かったかもしれないです。

当時はバブル全盛期で世の中全体が割と浮かれてたけど、しのぶは派手な世界とも無縁。格好はほとんどラフなTシャツにジーンズでシンプルだったし、ひとりでどこかへ出かけることもなかった。時間があれば家で一緒。ご飯も私と食べてましたね。

悩みですか? それも聞いたことないけど、お互い年頃だったからあるとしたらダイエット…かな。一緒にリンゴダイエットとかやってました。あと『今日が絶対最後だね!』って、宣言し合って甘いものの食べ納めをしたりとか。うふふふ。

恋バナは…えーと、年相応に(笑)。でも当時は今以上にアイドルは恋愛しちゃいけない時代だったし、事務所も厳しかったから。結婚後の話はしたことがありますよ。お互い、隣同士の家に住んで、子供同士を結婚させようって(笑)。すごく嬉しそうに話してたのを覚えてます」

87年に井丸さんは芸能活動を休止し、アメリカへ。堀江さんと会う機会は激減したが、手紙を頻繁(ひんぱん)にやりとりするなど交際は続いた。

「私は芸能のお仕事とは違うことをやりたくなっちゃったんです。それでアメリカに行って勉強をしたり、貿易関係の仕事のお手伝いをしたり。しのぶとは離れてからも連絡は取り合ってましたよ」

堀江さんは1988年4月に体調を崩し、緊急入院。診察の結果、スキルス性胃がんの末期だったが、本人は病名を知らされることはなかった。

「衣装合わせをして1週間しか経ってないのに、おなかが腫れてサイズが合わなくなったと言ってきたことがあったから、すぐ病院に連れて行ってもらって!と言ったけど、とにかく忙しいし、仕事に穴をあけれないということから行けなかったんでしょうね。ようやく病院に行った時は即入院で…。

入院したのはきっと、すごく悔しかったと思いますよ。だって本当にこれからという時期だったんですから。女優の夢だって、叶いつつあったし…。

最後に会ったのは、しのぶが入院先の病院から名古屋に戻るため、東京駅まで車で送った時。もちろん彼女は自分の病名を知りません。別れ際、『向こうで連休をもらって、ゆっくりしてくるね』って。仕事をお休みすることを残念に思う傍、どこかスッキリした笑顔で…。彼女にとってこれが初めてのちゃんとした休みでしたからね。家族とゆっくり過ごすんだっていってました」

そして亡くなったのが9月13日――。死の直前には井丸さんの手元に手紙が届いていた。そこには仕事復帰への強い意志が書かれていたという。

そして弱々しい字で書いてあった一文が、彼女からの最後の言葉となった。そこにあったのは『手が震えて字がうまく書けない。ごめんね』。最後まで相手を気遣う、堀江さんらしい言葉だった。

(取材・文/大野智己、写真/狩野昭雄)

堀江しのぶのグラビアが掲載されている『週刊プレイボーイ』51号もご覧ください

■堀江しのぶ(HORIE SHINOBU) 1965年8月18日生まれ 愛知県出身 身長162cm B90 W62 H93 血液型=A型 ○1984年のデビューより雑誌、TV、映画などで活躍。1988年9月スキルス性胃がんにより永眠。享年23歳。その短すぎる生涯を全力で駆け抜けた