「切腹ピストルズ」の隊長・飯田団紅(いいだ・だんこう)。常に野良着で暮らし、日本全国に江戸時代庶民の「乱痴気騒ぎ」を撒き散らかしている

「カオスUKの『ノー・セキュリティ』がずっと好きだったんですけど、ある時、『粋(いき)じゃねえな』って気付いて。粋にしてみたら、こうなりました」

「切腹ピストルズ」の“隊長”飯田団紅(いいだ・だんこう)が口上を述べると、強烈なビートがライブハウスに鳴り響いた。カオスUKはイギリスのハードコアパンクバンドだが、切腹ピストルズの手にかかると、まるで違うジャンルの音楽になる。

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耳をつんざくエレキ三味線のリフレインに、軽快な篠笛の調べ。10名から成る平太鼓の、力の限りの連打。鉦(かね)を打ち鳴らす飯田が狼のような叫び声を上げ「いっせーのーせっ」と音頭を取ると、太鼓のループはさらに音圧を増した。

ヘッドバンキングをする者、サンバのように腰を振る者、阿波踊りをする者など、客たちは好き好きに踊り狂う。熱狂のあまり演奏者を担ぎ上げる輩(やから)までいるほどだ。

ハードコアパンクのカバーに加えて、落語の出囃子「一丁入り」、北関東に伝わる民謡「八木節」を「やけっぱち」にした「自棄節(やけぶし)」などが、切腹ピストルズの主なレパートリーだ。そして隊員は全員、野良着を纏(まと)っている。

切腹ピストルズのプロフィールには、こう書かれている。

〈「日本を江戸にせよ!」を合言葉に、野良着で暮らしながら、和楽器による演奏を全国各地で繰り広げる。西暦1999年の大晦日に江戸で始動。現在、日本各地の隊員18名で編成。和太鼓の演奏、寺子屋の実施、寄席の主催などをしている〉

このような多岐にわたる活動をしている切腹ピストルズとは、一体なんなのか? ライブの後日、隊長の飯田をインタビューした。編集部に現れた彼の出で立ちは、頭に笠、股引(ももひき)に下駄、袢纏(はんてん)の下は、もちろん野良着だ。

手元に目をやると、爪の隙間が全て黒く汚れていた。彼はミュージシャンやデザイナーといった仕事のほかに、文字通り野良仕事もしているのだ。「この泥はもう落ちませんね。明日も朝から山仕事です」と目を細め、滔々(とうとう)と話し始めた。

「何が目標?ってよく訊かれるんですけど、ただ面白ぇねって感じでやっている。やっているのは俺たちだけど、楽器に突き動かされているところもあって。俺たちっていうより、楽器がすごくて、俺たちは楽器にやらされちゃってる。

和楽器っていうのは、ちゃんとした教育を受けてちゃんとした会に入っている人がやるもので、どこの馬の骨かわからない者が触れちゃいけないっていうイメージを以前は勝手に作り上げていたんですけど、そもそもこういう日本の楽器は、誰が何をしてもいいんだ、みんなで楽しむもんなんだと気付いた。右往左往、試行錯誤していく中で、お客さんもタガが外れて楽しんでくれたので、それは確信に変わっていきました。

日本の伝統はいつの間にか堅苦しい崇高な芸術になり、庶民には縁遠いものになってしまった。でも、庶民の身の丈に合った楽しみ方や騒ぎ方という伝統もあったはず。明治維新の近代化でそれらは野蛮なものとされ、禁じられていった。盆踊りだって昔はもっと過激で猥雑なものがあったんです。俺たちに必要なのは、江戸時代の庶民に伝わっていたはずの“乱痴気騒ぎ”。これを撒き散らしたいというのが、当初からの目標でした」

「10代、20代は、日本なんかなくなったらいい、世界早く終わんねえかなって(笑)」

激しい太鼓の演奏で、客たちはトランス状態になって踊り狂う

切腹ピストルズというネーミングはもちろん、セックス・ピストルズに由来する。当初は一般的なパンクバンドの編成だったが、紆余曲折を経て西洋楽器は全て棄(す)ててしまった。そこに至る背景には、飯田自身が抱いていた、日本人としてのアイデンティティに対する歯がゆさがあったという――。

飯田は今年48歳になる。父親は大正生まれの戦争帰り、母親は昭和ひと桁世代だから、その時代にしてはかなり年を取ってから生まれた子供だ。生活様式などにどことなく昔の色香が残っていたというが、飯田自身は日本の伝統文化には全く興味がなかった。

「10代、20代は、ろくでもないパンク愛好家で、日本なんかなくなったらいい、世界早く終わんねえかなって思ってました(笑)」

青い瞳に憧れ、黒目を脱色する目薬があるという噂を聞きつけると、薬局を探し回ったほどだった。しかし、20世紀も残りわずかとなった頃、長期滞在していたロンドンで転機が訪れた。

「ロンドンでは、10代の頃から好きだったセックス・ピストルズに関わった人たちと話をすることもありました。ピストルズについての話がどんどん深まっていくと、自分には理解できない領域になるんですよ。ピストルズは世間への怒りを表現しているわけだけど、その矛先には、例えばイギリスのババアがいたりする。俺が知っている日本のババアとイギリスのババアは全然違うわけです。

表現の結実としての作品の良さは理解していたけど、それが生まれる背景――生活レベルでの根っこの部分がもっとリアルなんです。生活に密着した土着的なものだから、パンクはイギリス人が100%力を発揮すればいいものなんだ、日本人である自分は自分なりのやり方を見つけたほうがいいだろうと勝手に結論を得て、日本に帰ってきました」

ところが、成田空港から東京までの道のりで、無機質な風景を見ると悲しくなったという。古い建物が保存されているロンドンの美しい町並みとは、あまりにも違う。「では、日本で面白いものはなんなのか」模索し始めた時、たまたま目に飛び込んできたのは落語のポスターだった。

「落語なんて堅苦しいだけで絶対つまんないと思っていました。当時は、家にも帰れないくらい忙しい会社を辞めたばかりで、明日から自由だ、何をしようという時に、一番贅沢に自由を満喫するのは、時間をムダにすることだと。時間をドブに捨てる行為は何かと考えたら、つまらない寄席を昼から夜まで見ることだと思って、浅草演芸場に行ったんです」

つまらないはずの落語は、すぐに飯田を虜(とりこ)にした。名前の読み方もわからない噺家が高座に上がると10分近くひと言も発さなかった。ようやく口を開いたと思えば、「本当はね、俺は今日出る日じゃなかったんだよ。本当に面倒くせえな」と愚痴り始めた――これはすべてマクラだった。あるいは、奇術師が皿を回しながらヨロヨロと客席に降りてきて、頭上の皿を見上げながら、客の懐からそっと財布を抜いた。

「寄席は無礼講だし、絶対TVでは言えないことも言う。堅苦しいと思っていた落語が、酒のことしか考えてないようなろくでなしの人たちがやっているんだなって。寄席ってこういうところなんだと、もう取り付かれました」

太鼓2台と三味線と鉦を打ち鳴らし、「バカヤロー!」と原発に向かって叫んでいた

頭の中をPUNKの4文字に支配されていた時は、和楽器はおろか、落語などの伝統芸能は堅苦しくてつまらないと思っていたという飯田隊長

落語の次は薪能の奥深さを知った。日本にはこんなにも面白い、独自の大衆芸能があったのか、そしてその情報は簡単に手に入る…頭の中をPUNKの4文字に支配されていた時には気付くはずもなかったことだ。

切腹ピストルズは1999年の大晦日に始まったが、当初の楽器編成に和楽器はなく、その後も民謡やお囃子などの笛のフレーズをサンプリングしてループさせる程度だった。

「パンクって、やっぱり若いヤツがやったほうがカッコいいんですよ。年を取ってくるとしみったれてくるというか、ただの愛好家みたいな感じになってくる。一方で、和楽器は年齢を重ねるほどカッコよさが出てくる。当時から50歳や60歳になった頃には全部、生の和楽器でやりたいという想定はあったんです」

それは想定より早く実現することになる。きっかけは、東日本大震災と福島第一原発事故だった。

「これはもう近代のクライマックスだろうと。あれほどの事故が起きて、やれ節電だとかなんとか騒がれている中、果たしてミュージシャンはどういう表現をしていけばいいのか、みんなが自問自答を始めていた。じゃあ、俺らはもうギターとかどうでもいいよ、西洋楽器棄てちゃってもいいんじゃないかって。それで、ムリして太鼓一式買っちゃったんです」

逆説的だが、潔くピックを撥(ばち)に持ち替えることができたのは、パンクをやってきたからだ。

「パンクは、楽器なんて触ったこともなかった若者たちが社会への怒りにまかせて衝動的に始めたもの。ろくすっぽ楽器が弾けないのに叫んでりゃいい、みたいな。その感覚で太鼓を始めました」

和楽器編成になって初めての「舞台」は事故から約半年後、原発から20キロ圏の立ち入り禁止区域手前の路上だった。ほとんど曲もできていない状態で、どうしていいかわからないまま、太鼓2台と三味線と鉦を打ち鳴らし、「バカヤロー!」と原発に向かって叫んでいた。偶然通りかかった5名ほどのボランティアの人間が車から降りてきて、拍手をしてくれた。

その後、切腹ピストルズは隊員を増やし、現在は総勢18名。神社の奉納や各地の祭り、芸術祭、ライブハウスなど多方面からお呼びがかかるが、これでカネを稼ごうという目的はなく、交通費や宿泊費で足が出ることもあるという。隊長の飯田自身、デザイナーをやっているように、隊員の各々が食い扶持となる職を持っている。

切腹ピストルズの活動が「負け戦なのはわかっている」

「映像の拡散力には、俺らは勝てません。俺らは『足を運んで見にきてください』というスタンスで、これは美意識というか、もう意地ですね」(飯田隊長)

これまで東北から九州、津々浦々に出没してきた。そこで出会った人たちと今も続く交流があるという。新潟の小学校で、アトピー性皮膚炎を同級生にからかわれ、塞ぎこんでしまった児童がいた。彼は偶然、切腹ピストルズの演奏を見て楽しくなり、久しぶりに笑顔を取り戻したそうだ。

「ところが、プールの季節になったら、学校に行くのがまた怖くなってしまったと、お母さんから相談があったんです。そこで俺らは1回見せつけてやるかということで、その小学校に行って体育館で全校生徒の前で演奏しました。今も、このお母さんからは手紙が届いたりします。子供の誕生日に『切腹』のロゴが入ったケーキを作りましたとか、写真を添えて」

飯田は、切腹ピストルズの活動が「負け戦なのはわかっている」と言う。

「世の中は合理的に進んでいる。なんでもかんでも商売に絡められ、大量生産される。『映像』は素早く効率的に拡散するには有効なツールですが、伝統は映像に弱い。

例えば、おばあちゃんたちが輪になって盆踊りを踊っている映像を見て、すげえと思う人はほとんどいないでしょう。ところが、あんなに地味な盆踊りだって、暗闇に櫓(やぐら)が立てられ、その周りを二重、三重になって踊るという『体験』をすると、ああ、だから昔の人はみんなこれに取り付かれていたのかと、わかるものが多いんです。

映像の拡散力には、俺らは勝てません。俺らは『足を運んで見にきてください』というスタンスで、これは美意識というか、もう意地ですね」

また、大量生産するためには『粗(あら)』が削られるが、「本来はその粗こそが一番面白い」と飯田は言う。尺八は、その粗を象徴するような楽器だろう。「地無し」「地あり」に大別されるが、江戸時代に虚無僧(こむそう)と呼ばれた僧侶が吹いていたという地無しは、竹の内側の節を残しているため正確な音程が得られない。一方の地ありは節を削り取ることにより正確な音程を得て、音量も大きくなる。

「尺八は楽器ではあるけど、瞑想の道具でもあるわけです。地無しは竹次第で、どんな音が出るかわからない。西洋楽器の価値感に合わせて地ありが生まれたわけですが、不均質な自然な音を察知しながら吹くほうが面白いんじゃないかと、今では海外で地無しが注目されているという不思議な逆転現象もあります」

近代化で失われた伝統を発掘するという、そのライフワークは音楽に限らない。身に付けている野良着もそうだ。お洒落なパッチワークが施されているが、飯田が加工したのではなく、元々あったものなのだという。演奏で行く先々で野良着を譲り受けるそうだ。

「昔は骨董屋さんが引き取ったりしていたんだろうけど、最近は古い蔵が取り壊される時に廃棄されてしまうことが多い。新潟のあるおじいさんは『一生に2本』本当に穿き心地のよい股引に出会うと言っていました。昔は縫製も手作業だから、同じものでも少しずつ見栄えも寸法も違う。お気に入りの一本を修繕しながら着続けていくうちにどんどん自分の形になっていって、一張羅になっていくわけです。それがすごく面白いと思いますね」

江戸時代の庶民の伝統は遊び心に満ちていて、粋だった。今年は大政奉還150周年、来年は明治元年から150年。グローバリゼーションで世界が均質化していく現代には、日本の「国柄」を感じないと飯田は言う。

「国柄を感じられない、無機質な国土を守ったとしても、空っぽだったら守る必要もないんじゃないか…。国土を守った結果、スターバックスしか残っていないのであれば、スタバを守ったみてえだなって。だから俺は、明治維新以前の庶民の伝統――祭りでもモノでも今に繋げる形で、生き方を考え直す時期に来ているんじゃないかって、偉そうにも思っているんです」

(取材・文/中込勇気 撮影/本田雄士)

●切腹ピストルズ(せっぷく・ぴすとるず)「日本を江戸にせよ!」を合言葉に、野良着で暮らしながら、和楽器による演奏を全国各地で繰り広げる。西暦1999年の大晦日に江戸で始動。現在、日本各地の隊員18名で編成。和太鼓の演奏、寺子屋の実施、寄席の主催などをしている。最新情報はオフィシャルHPでチェック●切腹ピストルズ演奏動画