最初は「講談って…何?」と訝(いぶか)しんでいた人たちが今、この男を目当てに続々と高座になだれ込んでいる。
33歳ながら、旧来の講談のイメージをことごとく打ち破る神田松之丞(かんだ・まつのじょう)。もう十分“来てます”が、今後もまだまだ“来ます”!!
* * *
新宿三丁目の飲み屋街を行く人たちが、突然現れた行列に目を真ん丸にしていた。
昨年の晩秋のこと。寄席の聖地・新宿末廣亭(すえひろてい)を起点とした2本の列は、50mほど延びたところで右に折れ、そこからさらに50m以上延びていた。
好奇心に負けた人たちが「何かあるんですか?」と話しかける。並んでいる人が恥ずかしげに、ぼそぼそと答える。すると、ほぼ例外なく、半笑い気味にこう驚いていた。
「エッ? 落語?」
21時半から始まる恒例の深夜寄席。約1時間半の公演で500円とお得とはいえ、まだ無名の若手が多く出演する深夜寄席では考えられない盛況だった。
末廣亭は、1階席と両サイドの桟敷席を合わせて200人座れるかどうか。最後尾で控えていた係員は「初めてのことなんで、座れるかどうかは…」と困惑気味だった。場内に入ると座席はすべて埋まり、桟敷席は立錐(りっすい)の余地もない。後方には立ち見客が二重三重になっていた。こんなに活気に満ちた末廣亭を見たのは初めてのことだった。
この日の演者は、落語家3人と、講談師ひとりの計4人。開口一番(最初に登場する演者)を務めたのは講談師で、おそらく客の8割から9割がこの男目当てだった。
中肉中背で、猫背。特にこだわっているようには見えない長いような短いような中途半端な長さの髪の下に、深く長い二重瞼(まぶた)が居座っている。
ただ者ではないーー。彼が高座(舞台)に上がると、そんな雰囲気が漂う。
神田松之丞。2007年に神田松鯉(しょうり)に入門した33歳、二ツ目の講談師だ。落語も講談も「前座(約4年)→二ツ目(約10年)→真打ち」と階級が上がる。通常なら、真打ちになるまでまだ5年もある。つまり、この世界ではまだ半人前といっていいのだが、その貫禄は誰がどう見ても真打ちクラス。
場内は客の高揚感がすでに充満していた。そんな熱気をいなすように、松之丞は座布団に腰を落ち着けるなり、やや鼻にかかった低く太い声で、こう言ってのけた。
「……ボク、今日、やる気ないんで」
期待を裏切らない、ふてぶてしさ。会場の空気が一気にはじけた。
談志に惚れ込んだが、門を叩いたのは講談…
■憧れとうぬぼれの両方がないとダメ
中学生以降は「相当、暗かった」とふり返る松之丞が演芸の世界に目覚めたのは高校時代、ラジオで六代目三遊亭圓生(えんしょう)の『御神酒徳利(おみきどつくり)』を聴いたときだ。そこから「今も昔も唯一」だという友人と頻繁に落語を聴きに行くようになった。そして、浪人時代に聴いた立川談志の『らくだ』が、その後の人生を方向づけた。
「前から8列目の席で聴いてたんですが、掛け値なしに、世の中のエンターテインメントでいっちばん面白いものを見てしまったと思いました。落語って普段はお客の咳とかクシャミ、場合によっては隣の人が唾を飲み込む音まで聞こえるんですが、本当に集中すると、それもしなくなる。そんな空気感のすごさがあった」
講演終了後、鳥肌がしばらく収まらなかった。
「演芸って、こんなところまでたどり着くことができるのかと。しかも、たったひとりで。会場は500人のキャパだったので、そんな瞬間を500人しか味わえていない。1千人になると多すぎて、伝わらないんです。すごい贅沢(ぜいたく)。それだけに責任感みたいなものを感じた。勝手な思い込みなんですけど、これを継承していかないといけないと。あの日、あれを聴けたことは今でも、すごい支えになっているんです」
落語家の談志に惚(ほ)れ込んだが、武蔵大学卒業後、門を叩いたのは講談の世界だった。
運命の糸は、もう一本あった。大学時代は落語、講談、浪曲の三大話芸をはじめ、漫才も歌舞伎も、あらゆる舞台芸を見られるだけ見た。
「講談に行くのを義務にしていた時期があるんです。朝起きて、『今日も講談か…いやだな』って、すごい苦痛で(笑)。でも、好きになるまで行こうと決めていたので」
講談は落語同様、着物を着て、座布団の上に座り、ひとりで演じる。落語と明確に違うのは、落語がフィクションなのに対し、講談は基本的に史実を基にしている点だ。釈台と呼ばれる小さな机を置くのは、その昔、台本を置いていた名残(なごり)。ゆえに落語は主に会話で物語が進むが、講談は台本でいうところのト書き、つまり説明文が多くなる。そのため講談は「演ずる」でも「語る」でもなく、「読む」という表現を用いる。
あくまで史実を語るという制約のなかで、講談師は客の耳にすんなり入るよう脚色する。だが、それでも時代背景をイメージしにくいネタが多く、時の経過とともに入り口が狭くなってしまった。
結果として現在、落語家は江戸時代以降、最多となる約800人もいるのに対し、講談師はその10分の1、80人しかいない。しかも半分以上が女性で、男性では松之丞が最年少。落語も講談も登場人物はほとんど男だが、講談はナレーションに近いため、女性でもさほど違和感なく語れるのだ。
俺しか気づいていない、っていう使命感
大学生の松之丞が講談に聴きなじみ始めた、ある日のことだった。六代目神田伯龍(はくりゅう)の『村井長庵・雨夜の裏田圃(あまよのうらたんぼ)』に衝撃を受けた。
「それまでは伯龍先生、正直、つまらない先生だなと思っていた。でも『雨夜の裏田圃』を聴いたとき、これはすごいやと。江戸時代の空気感が伝わってきた瞬間があったんです。伯龍先生は12歳から講談を始められたのですが、長年、積み重ねてきたものが滲(にじ)み出ているんですよね。ただ、周りのお年寄りたちはほとんど寝ていました。談志師匠のときとは違って、俺しか気づいていない、っていう使命感が芽生えて」
落語か、講談かーー。
「落語の世界では、自分が理想とする方法で演じている先人がもういたし、その魅力に気がついているファンも大勢いた。一方、講談の魅力を知っている人はまだそう多くはない。それだけに、これは宝の山だと思ったんです」
落語とは対照的に衰退気味の講談の世界へと自分の背中を押したものは、使命感ともうひとつ、うぬぼれだった。
「学生時代の俺は、めんどくさい客でしたね。演者を『こいつ、面白くないなー、才能ねーなー』とかってすぐくさすので、一緒に通っていた友達も気分が悪かったそうです。でも、その『面白くないなー』というのが貯金になった。若気の至りと言えばそうですが、俺がやったらもっとうまくできるのにと。
もちろん、講談に対する畏敬の念は人一倍強いですよ。ただ、足を踏み入れるには、憧れとうぬぼれ、両方ないとダメだと思うんです。憧れだけが強すぎると、俺ごときが…って臆してしまうので」
◆後編⇒人気の講談師・神田松之丞が追い求める“深度”「絶句するんじゃないかという恐怖との闘い」とは
●神田松之丞(かんだ・まつのじょう) 1983年東京都生まれ。本名・古舘克彦。高校時代に立川談志に多大な影響を受け、演芸を志す。2007年、三代目神田松鯉に入門。12年、二ツ目昇進。連続物といわれる演目を数多く持ちネタとし、芸歴10年となる今年は1月に『畦倉重四郎(あぜくらじゅうしろう)』全19席の完全通し公演を行った。
(取材・文/中村 計 撮影/村上庄吾)