サントリー創業者の挑戦を描いた新作『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』が話題の伊集院静氏 サントリー創業者の挑戦を描いた新作『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』が話題の伊集院静氏

“最後の無頼派作家”として知られ、『週刊プレイボーイ』本誌ではエッセイ『大人のカタチを語ろう。』を連載中の伊集院静氏。

新刊『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』は、日本最大の飲料メーカー「サントリー」の礎を築いた創業者、鳥井信治郎の半生を描いた評伝だ。

日本経済新聞での連載時から、サラリーマンを中心に「読むと元気が出る」と話題を呼んでいた同作。日本の洋酒文化を開拓し、持ち前の《やってみなはれ》精神で近代を駆け抜けた男の物語に込められたメッセージとは――。

■毅然として男は前進し続けた

―『琥珀の夢』を読みながら、赤玉ワイン、トリス、角瓶…といった定番商品がすべて鳥井信治郎の手によるものだと知って驚きました。歴史上の人物でありながら、僕らにとっても身近な存在だったというか。

伊集院 実はね、もともと鳥井信治郎という存在を知ってはいたけれども、果たして本当に魅力のある人かどうかは書き始める段階ではあまりよくわからなかったんです。ただ、薬種問屋で丁稚(でっち)として働き始めた少年時代から、20歳で自分の店(鳥井商店)を開業し、洋酒造りにのめり込んでいく30代半ばまで書いていくうち、「この男はいつくたばっても不思議じゃない人生だな」と思うようになったんだよね。

事業家として成功を収めてからも、実にさまざまな艱難(かんなん)辛苦が降りかかるんだけど、彼は決して倒れなかった。これは素晴らしい男じゃないかということが、書きながらわかってきたんです。

そして、その彼の生きざまが、私自身の10代後半から30代ぐらいまでの自分とどこか似ているように感じる部分があった。私も「このまま野垂れ死んだって誰も気に留めやしないだろう」という人生だったから。もちろん彼の人生のほうが数段上質なんだろうけれども、小説として肉づけをしていくとき、「たぶん彼ならこういう心境で、こうするだろうな」と、自然に思い描けました。

―書きながら改めて実感した、信治郎の魅力とは?

伊集院 やはり、いつも毅然としているところですね。丁稚奉公時代、先輩から理不尽に殴られても平然としているし、工夫を重ねて造った洋酒を酷評されてもくじけない。そういう強靱(きょうじん)さがもともと備わっていたんでしょう。

そしてもうひとつ、彼の成し遂げたい夢の頂(いただき)がとても高く、いつもはるか遠くにあったこと。彼にとって、途中途中の小さな失敗や勝ち負けというのは、いちいち落ち込んだり、喜んだりするようなものではなかったんだろうね。

―確かに、単に事業の成功だけではなく、日本に洋酒文化を根づかせたいという高い志を、しかも20代そこそこで思い描いて行動する彼は相当、肝が据わっていますね。

伊集院 ひょっとしたら、男子が志を抱けば何事かをなせるというのを、明治の人たちは普通に思っていたのかもしれない。これは私の勝手な臆測だけれども、明治新政府ができたとき、商人や農民には「これからは平等の世の中だ。自分たちだって志を抱いて学べば、なんだってできるんだ!」という思いが、私たちの想像以上にあったんじゃないか。そして、何をやっても日本で第1号になる可能性があるというのは、この時代ならではの魅力でしょうね。

闇の向こうにある一点の光が見えていた

―とはいえ、信治郎の功績はどれもエポックメイキングなものです。成功の秘訣はどこにあったのでしょうか。

伊集院 なんといっても、彼は発想が変わってるんだよね。

―と言いますと?

伊集院 酒造り修業の一環で乗った客船の中で、外国人将校に勧められて初めてウイスキーを口にしますね。そのとき、彼自身は決してうまいとは感じなかったわけです。ところが将校たちがグイグイあおってる様子を見て、「あれほどうまそうに飲んでるんだから、自分にもその味がわかるはずだ」と思った。

普通の人なら「こんなの日本人が飲むようなものじゃない」っていう発想をしてしまうところでね。そうやって欧米のものをむやみにありがたがるでもなく、同じ人間なんだからと平等に、対等に受け取れる自由な発想は、きっと武器になったはず。

―なるほど。

伊集院 それから、失敗を恐れず、どんどんぶつかっていくところ。彼は相当なムチャをしていますよ。国産ウイスキー造りなんてその最たるものでしょう。「山崎蒸溜所」を建てたのだって、経営的にはプラス材料がほとんどない、100人中100人、1000人中1000人が反対する事業だった。「寿屋(後のサントリー)は終わった」とまでささやかれてね。

―確かに蒸留所が完成しても、ウイスキーが商品になるまでには長い年月がかかりますからね。しかも、それが将来的に軌道に乗る保証なんてどこにもないわけで……。

伊集院 それでも彼には、闇の向こうにある一点の光が見えていたんだろうね。その確信と、光に向かってひたむきに突き進む強さがあった。

ただね、道のりの途上、えらく孤独で、えらく不安だったはずです。おそらく彼には仕事が終わった後にふたりで飲みに行くような友達もいなかったんじゃないかな。

―えっ。

伊集院 人とつるまない、ひとりでやっていく男だと私は思った。時には友達がいることによって、生きていく幅が狭くなるような気がしてね。同じ学校出身のコミュニティのような身の置き所を持たない人は、孤独な分だけ、ものの見方が非常に鋭くなるんじゃないかと思うんだよ。

比較を繰り返しても何も生まれない

■比較を繰り返しても何も生まれない

―近代日本の青年たちが、大志に向かって突き進んだのとは違い、最近の若者たちは何かを成し遂げるとか、それ以前に夢を描くことすら難しい状況のように感じます。

伊集院 今は、妙に先が読めてしまう時代だからね。たぶん若い人たちの目には、何かに挑戦してうまくいかなかった大人たちの姿が何人も見えているんでしょう。それによって自分の中で限界を先に設定してしまうというか。あと、若い人は特に比較をしすぎますね。給料にしても「アイツは月30万円もらっていて、なんで俺は12万円なんだ?」なんて比較をついしてしまう。

―ここ最近、自分が置かれた環境を他人と比較せざるをえないよう空気があるようにも感じるんです。というのも、過労死をはじめとした問題が深刻化していたり、ブラック企業の労働条件のヒドさが日々センセーショナルに報じられたりするので…。

伊集院 でも、比較することによって何かが変わるわけじゃない。世の中にさまざまな働き方があることを知るのは大切だけど、比較を繰り返したって何も生まれないから。

それに私はね、企業というのは、ある一面においては、ブラックな要素を持っていないと、事業も、社員も成長しないんじゃないかと思うところがありますね。

―それはつまり……。

伊集院 もちろん、ブラックで良いということではないよ? ブラック企業というのは、その人の能力以上の過酷な労働を強(し)いたり、労働に見合った賃金を払わなかったりするわけだけど、仕事において社員を叱咤激励し、ほかの企業よりも秀でた人材として鍛え上げようとするっていうこと自体は決してブラックではないというのが、私の考えです。

そもそも信治郎が丁稚奉公した「小西儀助商店」だって、今の価値基準からすればブラック企業でしょう。なんせ、丁稚には給金がないんだから(笑)。けれど、間違いなく信治郎はそこで鍛えられたわけです。

―いま置かれた環境で自分が鍛えられているのか、単に搾取されているだけなのか、見極めなければいけない。

伊集院 そう。もうひとつ言うと、仕事を覚えるというのは、要領を覚えることじゃない。言われたことを言われたとおりにやったり、それがラクにできる方法を考えたりするんじゃなくて、「そもそもやる必要があるのか?」というところにまで思い至るのが、仕事の本質でしょう。

信治郎だって、要領を優先するなら、丁稚時代、幾晩も主人に付き合って夜なべをして、洋酒造りを手伝ってなんかいなかったと思う。でも、彼には主人の隣で技術を身につけたい、船場商人の哲学を学びたいという、好奇心を抑えられないところがあった。人並み外れた好奇心の強さこそ彼の個性であり、才能でもあり、それを最後まで捨てずに貫いたからこそ、やがてプロフェッショナルになっていけたんじゃないかな。

流れを読む者と筋を通す者

■流れを読む者と筋を通す者

―個性というのは20代、30代、40代と、ある程度年齢を重ねた人間でも、まだ磨けるものなんでしょうか?

伊集院 もちろん。それは磨かなきゃダメ! やがて人生100歳時代が来るんだから、80歳、90歳になってもハツラツと働いていたかったら、誰よりも好奇心を持って、学び続けること。そして、一度やろうと決めたことはとことんやり通す。私だって60歳になってから仕事量を3倍に増やし、さらに一生懸命書こうと決めたんだから。30代や40代なんて、チャンスがあるどころの話じゃないの(笑)。

信治郎みたいな人間というのは、自分は横一列に整列してるつもりでも、ポンとひとりだけ前に飛び出してる状態を繰り返している。異端といえば異端。じゃあ、何が彼らをそうさせたかといったら、それはやっぱり個性なんだね。自分の持っているものをどこまでも大事にする。それが成功につながるんだよ。

―ちなみに、今の世の中で個性を貫くために奮闘している人といえば、誰になるんでしょう。例えば、今回の衆院選で立憲民主党を旗揚げした枝野幸男さんあたりは?

伊集院 枝野という人は、日本人の持つ正義感、筋、そういうものを久々に貫き通した政治家に見えたね。実際、彼は政治家になった頃から地元の駅頭に毎朝立って、誰ひとり耳を傾けていなくても、有権者に向けて語りかけていたんだろう? 初めて大臣になった朝もやはり同じようにしていたと聞いた。やっぱり資質があったんだろうね。ほかの誰もが思惑で動いたなか、筋を通した彼は、今回の件で再評価されると思いますね。

だから私はいつも言うんです。「流れを読むな、飛び込め」ってね。それができる人は、飛び込んだのが流れの速い川だったとしても、気づかずに泳ぎ続け、見事に対岸へ渡りきってしまう。「今日は流れが速いな」と岸から眺めていたり、流れにのまれて沈む自分を想像したりしている人間とは、結果が違いますから。

―まさに信治郎の《やってみなはれ》イズムですね。

伊集院 そう。『週刊プレイボーイ』の読者世代がいま一番迷っているのは、「何も持たない自分は、果たしてこのままでいいんだろうか?」ということでしょう。そう聞かれたら私は、「そんなこと考える前に行動しなさい!」と言いたい。つまり、走りながら考えろ、ということ。

仕事でいえば、自分もあんな人間になりたいと思える人がいるなら、その人をよく観察する。そして恐れずに挑戦して、失敗を繰り返せばいい。だいたいね、取り繕うことができる程度なら、それは失敗とすら呼ばないし、取り返しがつかない100%の失敗なんてものはそうそうないんだ。

―くよくよするなと。

伊集院 君の小さな失敗は、同じ失敗を繰り返して力をつけてきた人たちがどこかで必ず見ていてくれる。だから、何も持たない人間が、やがて人生で何か手にするためには、どんどん失敗すればいいんじゃないかと思いますね。

(取材・文/大谷道子 撮影/村上庄吾)

伊集院静(いじゅういん・しずか) 1950年生まれ、山口県出身。立教大学卒業後、CMディレクターなどを経て、81年に『皐月』で作家デビュー。92年、『受け月』で直木賞を受賞。『乳房』『機関車先生』『ごろごろ』『なぎさホテル』『いねむり先生』『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』など著書多数。2016年に紫綬褒章を受章。近刊に『女と男の品格。』『旅人よ どの街で死ぬか。男の美眺』などがある

■『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』 サントリーの創業者にして、国産ウイスキーの生みの親である、鳥井信治郎。大阪の両替商の次男坊として生まれた彼が、船場での丁稚奉公を経て、《やってみなはれ》の精神で日本の洋酒文化を切り開いていく姿を、ダイナミックに描く。日本経済新聞連載の書籍化。集英社刊、上下巻、各1600円(税別)