野球報道のあり方を変えた『珍プレー好プレー大賞』。1983年の第1回放送から、今年は節目の35年!
その軽快なナレーションが大反響を呼び、『珍プレー好プレー大賞』を超人気コンテンツへと育て上げた立役者が、ご存じ、みのもんた氏。
名人芸ともいえる、そのナレーションの神髄とは!?
■台本なんてない。全部アドリブでした
『珍プレー好プレー』、今年で35年だって? すごいね~。こんなに長く続くとは思わなかったよ(笑)。だって、番組が誕生するきっかけは、本当にたまたまだったんだから。
あれは1980年のこと。僕は13年間勤めた文化放送を退社して、父の経営する水道メーター製造・販売会社の日国工業(現・ニッコク)で忙しく働いていたんだよ。平日は名古屋で会社の仕事、週末は東京で番組の司会。そんなとき、フジテレビの『プロ野球ニュース』から司会のオファーが来てね。
で、当時はドーム球場もなかったから雨天中止も多かった。そのときに穴埋め企画として、大リーグの「好プレー集」を放送していたんです。その間、僕はスタジオでお茶でも飲みながら映像を見ているだけ。でも、実況は英語のままだから、何をしゃべっているのかよくわからない。そこで、映像に合わせて、「この野郎、よくもやりやがったな!」とか、適当なことをしゃべってたら、ディレクターが「それ面白いよ、イケるよ!」となって、トントン拍子で“日本版・珍プレー好プレー”が始まった(笑)。
とはいっても僕はそんなに野球は詳しくないから、単純に見たまま、思いついたままをしゃべってただけ。もちろん、台本なんてない。全部アドリブですよ。だから面白かったし、反響も大きかったんじゃないかな。
この番組からは“スター選手”も誕生しましたよね。中日の宇野勝さん、広島の達川光男さん、ヤクルトの監督だった土橋正幸さん…。ほかにも審判やお客さん。当時、『プロ野球ニュース』は6試合すべてにスタッフを派遣して、いろんなシーンをしつこく撮影していたからね。だからこそ、あんな番組が作れたんだと思います。
さっきも言ったけどアテレコは、ほぼアドリブでした。1回ぐらいざっと流して見ることもあったけど、たいてい「とりあえず、やってみようか!」、そんな感じですよ。考えたらダメ。考えると、どうしても作った言葉しか出てこないからね。自分の目で見たままに反応する。それが僕なりの“珍プレーの流儀”。だから、収録後は本当にクタクタになりましたよ。
出たとこ勝負のアドリブで、瞬間瞬間をとらえていったのがよかった
その後、他局でも似たような企画が続出して、僕よりもずっと大物のベテラン声優さんがアテレコを担当したこともあったんだけど、原稿を読んでいるだけだから、どうしても作りものになってしまう。やっぱり、出たとこ勝負のアドリブで、瞬間瞬間をとらえていったのがよかったんだと思います。最近は昔のようにパッと言葉が出なくなってきたから、もうこの仕事はできないなぁと自分では思ってるんだけどね(笑)。
『珍プレー好プレー』が特番になったのが83年ですか。それまでは単なる「エラー」として片づけられていたプレーが、新たに「珍プレー」として脚光を浴びるようになったのは、間違いなくこの番組の功績でしょう。忘れちゃいけないのは、一流の選手が必死に、懸命にプレーしたからこそ珍プレーにも感動が生まれるということ。僕自身にとってもこの番組が代表作、出世作となりました。そういう意味でも、いつまでも忘れられない番組です。
◆『週刊プレイボーイ』49号「フジテレビ『プロ野球珍プレー好プレー大賞』35年“放送回数”の多かった名場面集」では、歴史を彩った数々の名場面を一挙紹介。そちらもお読みください!
(取材/長谷川晶一 撮影/池田博美)
●みのもんた 1944年生まれ、73歳。67年に文化放送に入社し、アナウンサーとして活動。79年の退社後は、水道メーター会社に勤める一方、人気司会者としても活躍。