これまで三味線の全国大会で4度の優勝を飾った川嶋志乃舞

「私、天才だったんですよ(笑)」

そう笑うのは津軽三味線奏者・川嶋志乃舞(しのぶ)だ。近年、吉田兄弟がブレイクしたのを筆頭に、8人組ロックバンド「和楽器バンド」が話題になったり、津軽三味線を題材にした漫画『ましろのおと』が文化庁メディア芸術祭マンガ部門の優秀賞を受賞するなど、三味線に少しずつ注目が集まっている。

そんな中、川嶋は“キラキラシャミセニスト”として、邦楽とKawaiiをミックスさせた“ニッポンカワイイカルチャー”を提唱し、伝統文化の魅力を発信。昨年、東京藝術大学を卒業したばかりだが、日本文化を若い人々に伝える担い手として「日本の音楽の最先端を切り拓(ひら)いていく」と宣言している。

中学3年間、そして大学在学中に一度、全国大会で優勝するほどの実力を持つ川嶋だが、冒頭のセリフはまさにその通り。しかし、なぜそんな天才が“キラキラシャミセニスト”の肩書きで活動しているのか。その経歴とともに三味線の可能性を聞いた。

彼女が和楽器に触れたのは3歳の時だ。音楽一家どころか家族は誰ひとり音楽をやっていなかったが、和楽器の習い事をさせたかった両親が、邦楽の演奏を観に連れていったことがきっかけだという。

「舞台を観ていたら闘争心が湧いてきたんですよ。なんで私が(舞台の)下にいるんだって。昔からそういう気質だったみたいです。最近、母から聞いたんですけど、初舞台でも家元に向かい合って演奏するはずが、自分で勝手にお客さんのほうに向かって演奏していたみたいです。あと、これは覚えているんですけど、3人で使うマイクも奪ってひとりで使ってたり。とにかく目立ちたかったんでしょうね(笑)」

最初は和太鼓から始め、5歳で三味線を手にすることになった。そして、わずか1年足らず、小学生になると全国大会に出場した上に、最年少で入賞という快挙を果たす。

「それから注目されるようになって、小2の頃には天才少年・少女の発掘番組に出たり、『おはスタ』に出させていただいたり。家元の意向で私だけ海外公演にも連れていかせてもらったりと、とにかく経験豊富でしたね」

しかし、「お恥ずかしながら、練習はあまり好きじゃなかった。短期集中型なんです」という川嶋の練習時間は、当時からわずか30分。それでも大会に出れば、常に賞を獲っていたというから、やはりその才能は確かなものだ。

「うちの親とかおじいちゃんおばあちゃんも、何においても『天才、天才』って言って育ててくれたんですよ。TVでも天才って扱われて『私って天才なんだ』と思ってました(笑)」

ただ、一方で「子供の時はひがみとの戦いだった」とも振り返る。

いじめやプレッシャーを抱えた青春時代

川嶋はコスプレ衣装で演奏したことも。とにかく枠に捕らわれず、三味線や日本文化を広めようとしている

「小学生の時は三味線がババ臭いとか言われてました。私はこれがカッコいいと思ってたので、すごく否定してましたね。中学校になると、ひがみで悪口を言ってくるコもいて。大会に行く時も賞を獲れないコたちと一緒にバスに乗るんですけど、ひとりでしたもん、私。

いっぱい泣きましたよ。仲間はずれにされて、いっぱい僻(ひが)み口を叩かれて。勝手に言ってろ!って思ってました。もっといい賞獲ってやろうって、ねじ伏せる形で頑張ってましたね」

そうして中学時代は周りに認めさせようと努力した結果、全国大会の「一般女子の部」で最年少優勝。しかし、高校時代は優勝から遠ざかった。

「やりたいことが多過ぎたんです。中学時代はオシャレに興味を持って、ギャルだったし、高校でも恋愛、塾、バイトとかダンスとか…いろいろやりたいことがあって。自分の演奏に何かが足りないって薄々感じてた時でもあったんですけど、三味線はもうやめられないくらいに年数は重ねていたので、続けつつという感じでした」

小学生高学年の頃にはすでに「仕事」として公演に呼ばれ、プロの自覚を持っていた川嶋だが、「三味線はもうやめられない」――その言葉の裏には天才として注目を浴びたプレッシャーもあった。

「小さいうちからプレッシャーを抱えていたと今でも思うんですよね。周りに『しのぶちゃんはプロになる』『天才少女現る』とか言われてきて。だから、やめたら周りにも親にも迷惑かけるなと。今やめたら天才がいなくなって存在価値がなくなる感じもありました。三味線=自分だと思っていたので」

三味線奏者として成績が振るわなくなった高校時代だが、東京藝術大学に進むことを決意。持ち前の才覚、そして短期集中と負けん気で、わずか半年の受験勉強で合格。大学時代は授業で古典を学ぶ他、自分自身の活動として洋楽をミックスさせる今のスタイルを築き出した。それが冒頭の紹介にもあった“ニッポンカワイイカルチャー”だ。

「ポップスとか渋谷系がずっと好きなんです。ファンクとかもやりたいからやる。でも、三味線も楽しんでもらいたいんですよ。だからやりたいという理由以外にも、みんなが聴きやすい音楽というのを意識しています。人によっては『わかんないやつはわかんなくていい』って思ってると思う。けど、私はそれだとイヤだ。八方美人というか、みんなに認められたいんです」

彼女にとって“キラキラシャミセニスト”も“ニッポンカワイイカルチャー”も「やりたいことを正当化させたい」ための肩書き。一般の人には三味線がポピュラーな域に達してない中で、もっと自由に大舞台でやるために「日本の音楽の最先端を切り開いていく覚悟」で臨んでいるのだ。

ジャズでも活きる三味線の可能性

シンガーソングライター・メイビーモエとのイベントでは共演も。和文化・伝統文化とは違ったステージで活動する

そのためにポップスやロックとも融合、自分の曲だけではなく、他のバンドとのセッションもするようになった。とはいえ、音楽環境の違う中で三味線は「武器であり、レッテル」ともなり、浮いた存在でもあった。

特に最初の2年ほどはリズムの違いにとまどったそうだが、「三味線弾いてポップスをやってて、最近はやっと『どこに顔出してもコラボ行っても差し支えのない実力の川嶋さん』っていうのが浸透してきた」と笑う。

また、そうした異なる環境の中で得てきたことも大きいという。

「ライブハウスでやってきたバンドマンって、ある種、ショービジネスではあるんですけど、お金を稼ぐ前にまず自分たちの思いを伝えなきゃってのがある。そういう『俺たちの気持ちを訴えられたらいい』っていう感情、エゴの塊に影響を受けた部分はありました。自分の感情をどううまくショービジネスに落とし込んでいくかっていうことも学んだのが藝大の期間ですね」

栄光の影で苦労をしつつも三味線から離れなかった。それは自身の表現したいという思いだけでなく、大きな可能性を感じているからだ。

「三味線はギターと違って打音が出るし、洋楽で使う弦楽器より音がはっきりしてる。ブルージーな音楽やジャズとも相性がいいんですよ。三味線の良さは邦楽だけじゃなくて、他の国の音楽でも必要としてるジャンルはきっとあると思うんです。和っぽくないといけないという認識をとっぱらえば、もっといろいろと可能性は広がるんです」

今は、民謡伴奏など従来の三味線演奏の他、週に何度も茨城県笠間市から2時間近くかけて、都内でライブを行なっている。あらゆる伝統芸能が生き残りを懸けて多様化・現代化する中で、川嶋がどれだけ三味線に変革を起こすのか、彼女のこれからに注目だ。

(取材・文/鯨井隆正 撮影/五十嵐和博)

■川嶋志乃舞(KAWASHIMA SHINOBU)1994年10月9日生まれ 茨城県出身。幼少期から三味線を手にし、各大会で入賞。中学・大学では計4度の優勝。水戸市・みとの魅力宣伝部長、笠間市・笠間特別観光大使を務める。フジテレビ『大相撲ODAIBA場所』テーマ曲にもなった「花千鳥」を含む『花とネオンep』発売中。詳細は公式HP【http://shinobu-kawashima.com/】Twitter【@nochaxxxy】にて