昭和から年号が変わった年に誕生し、平成という時代を生きた子どもたちが30歳を迎える。その顔ぶれを見渡すとスポーツ、エンタメなど各界の第一線で活躍する"黄金世代"だった!
社会は阪神淡路大震災やオウム真理教事件など世間が震撼した災害や事件が続き、ゆとり世代として教育改革の狭間に置かれ、ある意味で暗い時代を生き抜いたーーそんな彼らの人生を紐解くインタビューシリーズの第1回は、バンド・ゲスの極み乙女。の川谷絵音(かわたに・えのん)だ。
取材中、渡した赤ペンをずっと手に持ち、時に回しながら質問に答える。そのクルクル回るペンのように、彼の20代は目まぐるしい変化の日々だったはずだ。大学卒業、メジャーデビュー、そしてバンドの活動休止からの再開。
しかし、その人生を描いてもらったライフグラフは、乱高下することだろうという予想を覆し、「文字にするとエグいっすね」と言いながら引いた赤線の平坦さにあっさりと裏切られた。
***
今年12月に30歳を迎える川谷絵音の転機になったのは26歳、ゲスの極み乙女。(以下、ゲス)の2ndシングル『私以外私じゃないの』のリリースだった。
「ここで、自分たちの色をつかんだというか。これだったら、自分もやりたかったし、ゲス"も"(バンドとして)いいかもなって」
"も"というのは、ファンや音楽に詳しい人なら納得する言い回しだが、川谷はふたつのバンドのメンバーで、ともに14年にメジャーデビューを果たしている。
ヴォーカル・作詞作曲を手がけるゲス、同じくヴォーカルと作詞作曲を手がけるindigo la End(以下、indigo)が共に4月にメジャーデビュー。さらに、現在はゲスの休日課長(ベース)率いるバンド・DADARAY(楽曲提供・プロデュース)、芸人の小藪千豊らがバンドメンバーのジェニーハイ(ギター・プロデュース・作詞作曲)と、発表されているだけで現在、計4つのバンドに関わる。
すべてのバンドは、それぞれメロディや歌詞の世界観が明確に異なる。川谷の溢れ出す才能ゆえのことだろう。中でも、ゲスはメジャーデビュー以降、ヒット曲も数多く、CMやドラマなどのタイアップにも恵まれ、大成功だ。この状況で川谷はなぜ、2ndまで葛藤を抱えていたのだろう?
「メジャーデビュー前のゲスのミニアルバム『ドレスの脱ぎ方』から、(世間へ)アテにいった曲とPVの作り方をしました。途中から計算できたんで。大体、そこから思うようになっていったんですけど、それによって悩むこともあって。
俺、その時に流行っていた音楽は好きじゃなくて、あえて対抗するためにそういうことをカッコよくやってるよと作ったのに、裏の意味が伝わらなかったというか。売れたからよかったんですけど、普通に受け入れられたことに、自分の中で葛藤があって」
メジャーデビューでの成功に関しても、バイトをしないで「フツーに音楽で食えるようになったくらい」と、冷静に振り返る。そして、何より見つめていたのは周囲よりも自身の心の内だった。ともすれば、舞い上がってしまう環境に身を置いても、冷静に計算ができた理由はどこにあるのか...。キーワードは"鬱屈"だ。
人生のピークは、8歳!?
「人生の頂点は、ここかなぁ......8歳」
川谷は長崎県松浦市で生まれ、佐世保市で幼少期を過ごした。彼自身が人生の頂点を描いた時期である。
「8歳は、すげーハツラツとした子どもだったんですよ。10分の休み時間でもボールを持って校庭に出ていくような。それが自分だと思ってたけど、なんとなく違うのかなと感じ始めた8歳から暗くなって。小5でサッカー部に入るんですけど、みんなに合わせることが無理なことに気づいて、さらに暗くなりましたね。
中2で引っ越した長崎市の学校にはサッカー部がなかったから、『やっと辞められる』と思ったのも束の間で、今度は学校がイヤ。高校まで楽しいことがなかったです。人って楽しいと思えばなんでも楽しくなるんですけど、俺は8歳でその楽しい感情を捨てて、ずっと鬱屈して過ごしてましたね」
この時代を振り返る彼は、ネガティブ発言のオンパレードだ。胃腸が弱いから4時限目まではお腹が痛い。ルーティンの楽しみは5歳から始めた、指を回しながら物語を作るひとり遊び。だから、今も常に指を動かしているのが落ち着くのかもしれない。渡した赤ペンをそのまま手に持ち、回しながら自分の書いたグラフを眺め、当時を改めて語った。
「学校のクラスって、ヤンキーとかちょっと悪いヤツがヒエラルキーの上にいるじゃないですか。でも、大学に入ると頭のいい人、就職してからは稼げるとか...モテるタイプが変わってくるのをわかってたから。絶対、教室で騒いでるようなコイツらより俺のほうが正しい。俺のほうがスゴいんだ、自分は違うと思ってました」
なかなかクセの強いクラスメートである。しかし、「長崎から出るため」の手段だった大学受験、東京農工大学工学部応用分子化学科への入学を機に、川谷は少し変化した。
「広い世界に行けば、自分を認めてくれるかもしれないと。工学部を選んだのも、化学って響きがカッコイイと言いたかったというか。あ、ちゃんと勉強はしましたよ」
東京に出たい、認められたいというモチベーションの結果、つかんだ東京ライフは走り出し順調にスタートした。
「18歳の時はノリノリだったんで、本当はグラフが一瞬上がったかもしれないです。リア充っていうか。毎日、鍋パーティーして、カラオケ行ったり、これが正しい生き方だ、やっと人生楽しめた、みたいな。
でも、暗い期間が長すぎたんで、徐々に『俺、ちょっと違うな』と思い始めて、クラスのみんなとも会わなくなって。軽音部に入ったけど、外部でバンドを組んだことで決別。それで、集団で何かするのはやめよう。何かに所属するのはナンセンスだ。誰も信用しないで今後やろうと思ったんですよ」
バイトもクビになるという不器用さ...
それでも、川谷はバンドだけは大切にしていた。
「バンドしかやることがなくて。生き甲斐っていうか。自分の曲を信用してくれる人とは一緒にやろうしてました。とはいえ、バンドもライブするにはお金を払わないといけないし、チケットのノルマもあるし、演奏は上手くいかないし、お客も来ないし、バイトはクビになるし。塾の講師のバイトをしてた時は...塾に来れば大丈夫だというバカげたやつらがいっぱいいたんですよ」
事の始まりは、生徒が電子辞書で英単語を引こうとしたことだった。
「紙の辞書で引けと言ったのに、電子辞書で引こうとするんです。しかも、引こうとしてたの、studyですよ? 電子辞書も使い方がわかってなかったし、だったら紙の辞書でSから引けばいいのに。という感じで、注意したら生徒が泣いちゃった。それで親からクレームが入って。塾長に呼ばれて、生徒の親と生徒と俺とで話をしたんですけど...親の論点が『子どもを泣かした』ことになって、どんどんズレていくんですよ。
だから俺、『子どももアホだけど、その子どもを作り出したのはあなただ。環境がよくない』と親に言って。で、塾長の前で『こんな塾に通わせたところで、大学生が講師してるんですよ?』と言ったら、クビになって。
俺は一生懸命やってたんですよ。でも、他は中学生なら教えられるだろうってレベルで、片手間にやってる大学生ばっかりだったから言ったんですけど。そこで社会では正論が通じないことに気づいたのは、よかったですけどね」
繊細で不器用。だからこそストレートにしか言えない、川谷の人物像の輪郭が浮かび上がるエピソードだ。
それにしても、不思議なことがある。鬱屈として、自ら人を遠ざけるようにしながらも「バンドは生き甲斐」と、ソロを選択しなかったことだ。
「ひとりは寂しいじゃないですか」
そして、回していた赤ペンを左手で軽く握り、その手に右手を重ね、ひと呼吸置いてから言葉を続けた。
「なんだかんだ、やっぱり俺、バンドが好きで。みんなとやりたい。今はソロでもパソコンとかでなんでもできちゃう時代になりましたけど、メンバーで音を合わせて曲を作っていくっていう古典的な楽しみは、家でひとり音楽を作ってるだけじゃ得られない。
それがバンドの魅力で、だから今も続けられる。俺にとって、何事にも替え難いものなんです」
この思いとは裏腹に、22歳当時はバイトもクビになり、バンド活動も思うようにならなかった。就職活動にもヤル気を見出せず、「なんとなく大学院に行こうと思ったら、推薦がとれた」ことで、モラトリアム期間を延長した川谷。彼の才能が開花するのも、鬱屈とした人生に光明が差すのも、もう少し先ーーゲスのメンバーと出会ってからだった。
●後編⇒平成という時代を生きた30歳に独占直撃!【第1回】川谷絵音「あのことを美しい経験にしたくない」
(取材・文/渡邉裕美 撮影/鈴木大喜)
■川谷絵音(KAWATANI ENON) 1988年12月3日生まれ、長崎県出身。ヴォーカル、ギタリスト、作詞作曲家、プロデューサーとして活躍。ギタリスト・ichika率いるInstrumental Band、ichikoro(イチコロ、担当:ギター)にも参加。ジェニーハイのデビュー曲「片目で異常に恋してる」配信中。6月22日、ゲスの極み乙女。ワンマンライブ「乙女は変わる」をNHKホールにて開催。詳細は公式HPにて