日露戦争後間もない北海道を舞台に、精鋭軍人、新撰組の生き残り、奇人変人の数々、そしてアイヌと、バラエティに富んだ登場人物が金塊をめぐって冒険とバトルと美食を繰り広げる冒険活劇漫画『ゴールデンカムイ』(野田サトル著、集英社)。
この漫画を「アイヌ語監修」という立場から支える言語学者の中川裕(なかがわ・ひろし)氏の新著『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』(集英社新書)が先月刊行された。
中川氏は東京大学在学中の1976年から北海道に足しげく通い、減る一方のアイヌ語話者を訪ねては話を聞き、研究を続けてきた。今でも毎月のように北海道に行くが、今度は逆にアイヌ語を教える側になっていると言う。
40年以上、アイヌ語を見守ってきた中川氏に、『ゴールデンカムイ』のアイヌ語監修の舞台裏と、言葉への想いを訊いた。
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──まずどういった経緯でアイヌ語に興味を持たれたのでしょうか。
中川 大学の授業でアイヌ語の勉強を始めたのですが、初めから興味があったわけではありません。ある程度理解できるようになってから、面白くなってきたんです。
──その過程で、言語以外のアイヌ文化にも興味が広がっていったのですね。
中川 僕の究極の目標はアイヌ語の辞書をつくることだったので、その言語と文化に関するありとあらゆることを知っていないと記述できないわけです。
学生の頃はそこまで頭が回らなかったのですが、やっていくうちに、日本文化の考え方や知識で測っていてはアイヌ語を記述できないというふうに思えてくる。アイヌの伝統的な世界観の中へ自分も入っていかないと、言葉の意味もわからない、と。
例えば漫画のタイトルにもなっている「カムイ」という言葉にしても、それにぴったり当てはまる単語は、日本語にはありません。一般的には「神」と訳されますが、アイヌの世界観では、人間のために活動しているものは、道具も含めて「カムイ」です。すると日本語の「神」とはちょっと違ってきますよね。
そこで今回の本では「環境」と訳しましたが、それが正しいわけでもない。正確には、「カムイ」は「カムイ」であるとしか言えないんです。
言葉を突き詰めてゆくと世界観もわかるし、逆に言うと世界観がわからないと言葉もわからない。言葉を理解することと文化を理解することは表裏一体なのです。
──中川先生は学生時代からアイヌの方々に直接アイヌ語を学んだそうですね。その人たちの中には『ゴールデンカムイ』の舞台である20世紀初頭に幼少期を過ごした方もいるかと思います。
中川 僕がフィールドワークで話を聞いた人たちは、だいたい1900年前後の生まれなんですが、多くの人が「アイヌ語はこれから必要ないから覚えなくていい、日本語を覚えろ」と親に言われて育ったそうです。そうじゃない人はむしろ少数派です。
じゃあその人たちはなぜアイヌ語を覚えているかというと、親がアイヌ語しかしゃべれないから、どうしても覚えちゃうんですね。アシリパ(『ゴールデンカムイ』のヒロイン)は1890年代の生まれと推測され、この人たちより少し年上だから、アイヌ語を母語としていた世代です。
そして、この世代は日常的に日本語も使え、「覚えなくていい」と言われて育ったから自分の子供にはアイヌ語を教えていません。こうしてアイヌ語の話者は減っていったのです。
──そうしたこともあり、先生がフィールドワークを始めた頃はアイヌ文化を聞き出すのが困難になっていたそうですが、当時と現在とを比べて、アイヌを取り巻く状況はどう変わりましたか?
中川 僕がアイヌ語の勉強を始めた頃、アイヌの方たちの中には差別されている実感を持つ人々が大勢いました。われわれとしても、北海道で「アイヌ」という言葉を使うことさえ憚(はばか)られた時代です。「俺たちは研究材料か」というふうにもろに言われることもありましたしね。
それに比べると今は、そうした状況をあまり体験していない若い世代も増えており、研究や調査に対する抵抗感も以前よりは少なくなっています。アイヌが自身のことをアイヌと言えるようになっている。それが、大きな違いですね。
──『ゴールデンカムイ』単行本の巻末には毎回たくさんのアイヌ文化関連参考文献が記され、細部のリアリティを追求しているのがうかがえますが、「言語」という観点からはいかがでしょう?
中川 この漫画はものすごく言葉にこだわった漫画だといえます。アイヌ語はもちろん、さまざまな日本語の方言が出てきますよね。僕はむしろ(鯉登[こいと]少尉という登場人物が話す)薩摩(さつま)弁とかどうやって調べてるのかなあと思います。
アニメ版も言葉へのこだわりがすごいですよ。秋田・阿仁(あに)マタギ出身の谷垣(源次郎)のかつての友人が登場するのですが、秋田弁の話者で、なんとそこに秋田出身の声優さんをあてるんです。
しかもその人の言葉と阿仁弁もちょっと違うんで、直してもらう。元の漫画が言葉にこだわっているからこそアニメもそうなったのだと思います。
──『ゴールデンカムイ』という作品が人気を博し、結果的にアイヌの言葉や文化が広く認知されました。では、研究者として、アイヌ語を今後も残してゆくためにはどういったことが必要だとお考えですか?
中川 言葉は経済と密接に結びついているので、経済的に活用できない言語は消えてゆくんですね。明治以降、アイヌ語が生き残る経済的な基盤はないに等しかったのだから、とっくに消えてしまっている可能性だってあった。
ところがもう100年も前からなくなる、なくなると繰り返し言われてきているのに、いまだに覚えている人たちがいる。これはどういうわけか。
逆説的ですが、言語はそう簡単になくならない、経済によらずともアイデンティティによって残りうると証明されていることになるのではないでしょうか。
ただし、最終的には経済に結びつかなければ長期的な生き残り策はとれない。早い話、"アイヌ語が生計の一助となる"という状況が必要です。われわれはフィールドワークで話を聞いたおばあさんがたに謝金を払います。
それはわれわれからするとお金で知識を買っていることになるのですが、人によっては、「私は80歳を過ぎてもちゃんと仕事ができるんだ」というプライドにつながることもあります。この関係が確立してしまえば「次は私が」と言葉を一生懸命勉強する人も出てきます。
──経済とアイデンティティ、この両輪で言語は生きてゆくのですね。
中川 はい。今われわれは、2020年に開館予定の国立アイヌ民族博物館、これの展示を全部アイヌ語にする作業を進めています。アイヌ語、日本語、英語の順に併記し、アイヌ語の作文は全部、アイヌの方にやってもらう。われわれ研究者が協力して、です。
僕の理想としては博物館で出すパンフレットや図録など、全部この方式でやってほしい。アイヌ語を知っていれば、作文の作業で謝金が得られる。そういうシステムができるといい。
これは言語を経済に結びつけているのですが、国立の博物館でアイヌ語が使われるということでアイデンティティ、プライドにも結びついていくわけです。
そしてアイデンティティという面では、「アイヌはカッコいいんだ」というイメージも大事です。『ゴールデンカムイ』はアイヌ=カッコいいというイメージをつくり出せたほぼ初めての一般向け作品ではないでしょうか。
現実にもアシリパなみにカッコいい女のコ、男のコは大勢いるので、そういう人たちがもっと芸能界などに進出してくれるといいですね。そういう形でアイデンティティと結びついた部分が発展してゆけばと思っています。
●中川裕(なかがわ・ひろし)
1955年生まれ、神奈川県出身。千葉大学文学部教授。東京大学大学院人文科学研究科言語学博士課程中退。95年、『アイヌ語千歳方言辞典』(草風館)を中心としたアイヌ語・アイヌ文化の研究により金田一京助博士記念賞を受賞。野田サトル氏の漫画『ゴールデンカムイ』では連載開始時からアイヌ語監修を務める。著書に『アイヌの物語世界』(平凡社ライブラリー)など多数
■『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』
(集英社新書 定価900円+税)
2018年の手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した冒険活劇漫画『ゴールデンカムイ』のアイヌ語監修者にしてアイヌ文化研究の第一人者である著者が、同作の名場面をふんだんに引用しながら解説を行なった唯一の公式解説本にして、アイヌ文化への最高の入り口となる入門的新書。原作者・野田サトル氏によるオリジナル描き下ろし漫画も収録!