『機動戦士ガンダム』の生みの親・富野由悠季(とみの・よしゆき)監督が、宇宙世紀後の時代を描いた『Gのレコンギスタ』劇場版(全5部作)のこだわりを語る。監督の感じた"ガンダムの呪縛"とは?
■作り直しじゃなく完璧な新作の気分
――1979年の『機動戦士ガンダム』誕生から40年。今なお現役バリバリの富野監督が現在手がけているのが、2014年から全26話で放送されたテレビシリーズ『Gのレコンギスタ』(以下、『G-レコ』)の劇場版。
この劇場版は全5部作で、テレビ版に新作カットなどを加えて再構築しているそうですが、そもそもなぜ『G-レコ』を再び世に送り出そうと考えたのでしょうか?
富野 僕的には"作り直し"という気分じゃなくて、むしろ完璧な新作を作っている気分なんですよね。正直テレビ版は、スケジュールに追いかけられてバタバタと作っちゃったという気持ちがあって、映画でいうところの0号、試作品になってしまった。
――テレビ版はパイロット版のようなものだった?
富野 そう、まさしく。それと、『ガンダム』(『機動戦士ガンダム』)や『Z』(『機動戦士Zガンダム』)も3部作の劇場版を作ったけど、テレビで約1年近くやったものを3部作にしたからダイジェストになってたわけ。
でも『G-レコ』はテレビで約半年間やったものを5部作として作っているから、ダイジェストじゃなくてきちんと詰め込みたいものをそのまま詰め込める。しかも、メカメカしいロボットの戦記ものじゃなくて、たくさんのキャラクターが出てくるにぎやかな群像劇になると自負してる。
だから自信を持って「メカ(ガンプラなど)を売るためのアニメじゃない」って言い方ができるから、それはうれしい仕事。
――劇場版ではどういった部分にこだわっていますか?
富野 テレビ版で決定的に欠けていた部分を手直ししてますね。例えば、軌道エレベータ(キャピタル・タワー)には144個の「ナット」という駅のような設備があって、それはいわばひとつひとつが違う街なんですよ。
なのにテレビ版では、外観も中の景色もみんな同じように描いてしまった。まあ通俗的なSF設定で考えれば、宇宙開発においてそういう設備は画一的なデザインにするほうがリアルだけど、でも映画的に考えたらどの場所(ナット)にいるかわからなかったのは大失敗。今回はその描き分けにはこだわりました。
――テレビ版では、そこを妥協してしまっていた?
富野 いや、妥協してたわけじゃない。まったく気づいてなかったの。なまじSFを知っているから、宇宙開発のリアル志向っていう固定観念に囚(とら)われすぎちゃったんだね。
逆にリアリティにこだわった部分で、でもやっぱりそれも映画的に大事だなというところがあって、それがG-セルフ(主役MS[モビルスーツ])の目。目の奥のカメラレンズが光る表現を全編で追加してます。
――今までのガンダムでも目全体が光る演出は多々ありましたが、今回のG-セルフは目の中の丸いレンズが光る演出がされていて、人間の瞳のようにも見えますよね。
富野 1分の1スケールのガンダム立像をお台場で見たときに、目の中の丸いレンズが光るようにしてあって、実物のあれを見ちゃったら、もうアニメでも中のレンズが光るようにしないと絶対許されないと思ってね。
それで、何が変わったかっていうと、中のレンズが瞳のように見えるから、G-セルフに表情がついたわけ。レンズの動きで、敵機のほうに視線を向けるみたいな演出ができるようになったし。これはいい意味でだけど、劇場版を見てもテレビ版との違いに気づかなかったって人もいたんだよね。
――G-セルフにそれだけ自然な表情がついたんですね。
富野 なんでテレビ版のときに富野のバカ野郎は気づかなかったんだって(笑)。『G-レコ』は"脱ガンダム"として作っていたはずなのに、まだ僕自身が"ガンダムの呪縛"に囚われてたんだよね。
■宇宙世紀末期のおぞましい食人歴史
――『G-レコ』の主人公のベルリは、才能にあふれた快活な少年。ですが彼には出生の秘密がありました。
富野 その出生の秘密が、ベルリとアイーダ(ヒロイン)の関係性を大きく変えるんだけど、テレビ版ではその秘密を知ったときのベルリの心情を描かなかった。完全に忘れてた(苦笑)。テレビ版はそこがダメなの。
なので、そのあたりは劇場版の第3部で完全に補完します。それである日、制作進行の30代のスタッフに、「テレビ版はクソでしたけど、第3部であのシーンが入った劇場版はいい」って褒められた(笑)。
作品を直接作るわけじゃないスタッフは、普通の観客目線に近いから信用できた。「俺が作ったんだからいいだろ」って強引に内輪を承服させているうちは、やっぱりまだまだダメだからね。
――第3部のベルリには特に注目ですね。一方、物語序盤ではベルリと友好的だったにもかかわらず、途中から異形の仮面をつけ「マスク」と名乗るようになるルインは、ベルリに嫉妬心と敵対心を抱くようになっていきます。ルインは被差別階級である「クンタラ」出身で、その劣等感が彼の言動の根源にあるわけですが、「クンタラ」という設定はあまりに衝撃的でした。
富野 『G-レコ』は宇宙世紀から約1000年後の話なんですが、宇宙世紀末期に地球も人類も死に絶える寸前に陥っています。その時代、地球規模の食糧難が起こり、"代用食"として食された下層階級民が「クンタラ」。
僕自身この言葉に嫌悪感が強いんですけど、つまりカニバリズムの対象となっていた人種の末裔(まつえい)がルインたちなんですよ。
――ですが、テレビ版ではほとんど「クンタラ」の歴史は説明されていませんよね。
富野 そうですね。あえてそうしています。ルインだけでなく、ルインのガールフレンドのマニィも、ベルリのガールフレンドのノレドも「クンタラ」出身で、主要キャラの中にも多いですけど、今回の劇場版でも「クンタラ」の歴史を詳しく言及することはないです。大昔の出来事やその血筋だけで、差別される人種がいるということ。
そして、その差別されている人たちの心情。大事なのはそっちだから、こういう強い言葉は劇中に置いておくだけでいい。劇場版を見てくれた小学生とか中学生ぐらいの子たちが、現実の世界でもそういう差別感はあるんだという気づきを得てくれればと思って......。
■新海アニメには絶対にない女の力
――テレビ版の最終回では、そんなベルリとルインがMSで激突しました。『Z』の劇場版は、テレビ版のラストとは真逆ともいえる展開に改変されていましたが、『G-レコ』劇場版のラストは......?
富野 変えません。徹底的に変えない。『G-レコ』は基本的な物語の筋は間違ってなかったから、あのベルリとルインの決着は変える必要はないんです。
ルインはあのような結末になって、「クンタラ」出身だという血のしがらみから解き放たれたんでしょう。クンタラ同士のルインとマニィの着地点もよかったしね。「富野さんすごいなあ」って自分でも思うもん(笑)。
――それだけ富野監督自身が納得のいく作品なんですね。
富野 「今の富野はこういう目線でロボットアニメを作ってるんだ」と理解してくれるとうれしい。戦記ものだった従来のガンダムに囚われていたら、絶対にここには来ていないでしょ。一応はロボットをアイコンとして使っているけれど、MSはしょせんギミックでしかないんですよ。
――MSはあくまで舞台装置のようなものなんですね。
富野 そのとおりです。『G-レコ』を俯瞰(ふかん)で見るとわかるんだけど、MSなんかよりも、この作品は女たちが底支えしてるんだなと感じます。"女っ気"がかなりする作品なんじゃないかなって自惚(うぬぼ)れを持ってます。
劇場版第1部の予告編の冒頭に、メインヒロインではないマニィが「女の力でぇ!」って叫んでるシーンを、あえて採用したんですよ。『G-レコ』に出てくるような力強い女たちは、新海アニメ(新海誠監督作品)とかには絶対にいないと思うよ(笑)。
――見どころはMSではなく女の力......楽しみです!
●富野由悠季(とみの・よしゆき)
1941年生まれ。機動戦士ガンダムシリーズのほか、『無敵超人ザンボット3』や『伝説巨神イデオン』など、異彩を放つロボットアニメを数多く生み出してきたアニメ監督。新作の劇場版『Gのレコンギスタ』で"脱ガンダム"を宣言!
■劇場版『Gのレコンギスタ』
2014年から全26話のテレビアニメとして放送された『Gのレコンギスタ』を、富野監督自らが再構築し、新作カットも盛り込んだ劇場版。全5部作となっており、第1部「行け!コア・ファイター」が11月29日(金)から2週間限定上映される