7月24日(金)より公開する映画『破壊の日』 ©「破壊の日」製作委員会 7月24日(金)より公開する映画『破壊の日』 ©「破壊の日」製作委員会

そもそもの始まりは東京オリンピックの"裏"で公開するべく、2020年の元旦に映画監督の豊田利晃(とよだ・としあき)から発表されたクラウドファンディングの企画だった。

「資本主義の物の怪(もののけ)に取り憑かれたような東京を、祓(はら)い清めるような映画を作りたい」という宣言の元、プロジェクトは粛々と進行していた。新型コロナウィルスが世界を襲うまでは――。

映画の制作自体がストップしかねない状況下。しかし、豊田監督は攻め抜く。偶然を必然に変える力。映画監督は映画で返答する。コロナと共に生きざるを得ない今と未来に光を灯すべく、先へ進むことを決意。クラウドファンディングで集まった資金は1400万円を超えた。

こうして、映画『破壊の日』は6月22日にクランクイン。30日にアップして、7月24日に劇場公開という破壊的なスピードで制作された。豊田組の常連である渋川清彦や松田龍平、イッセー尾形や窪塚洋介など名だたる俳優がキャストに連なる中で、物語で最も重要といえる役――生きたままミイラになる修行、すなわち即身仏(そくしんぶつ)にならんとする若者を演じるのがマヒトゥ・ザ・ピーポーだ。

ロックバンド「GEZAN」のヴォーカルを務める彼は、ミュージシャンとひとくくりには出来ない多方面に広がる活動を続けている。入場料・フード無料を掲げる投げ銭制のフェス「全感覚祭」の仕掛け人として知られ、そこから派生したライブハウス屋上での家庭菜園を軸にして種や苗の無料配布を試みる「全感覚菜」も注目されている。

また、4月にはYouTubeで「#WiSH」と題した自主制作のドキュメンタリー動画を発表。自粛に揺れるライブハウスのオーナーやNPOの代表らに「生きるとは?」の質問を投げかけて、共に悩み未来を考えた。

今こそ演じるべき役と、出会うべきして出会った。映画『破壊の日』とマヒトゥ・ザ・ピーポーの関わりは偶然とは思えない。役者デビューという新たな一歩に際して残した彼の手記を、ここに独占公開する。

* * *

高速道路を走り、栃木を目指す。渋谷O-EASTでの配信ライブを20時に終え、余韻も覚めやらぬ21時、渋谷の雑踏を見上げていたわたしは車で拉致され豊田組への合流を急がされた。

薄暗いホテルのフロントについてすぐ、中浴場に体を沈め、その晩のライブの汗を流す。もう他の役者は誰も起きていないだろう。午前1時の静けさが、張られた湯船に水滴になって落ちる。その波紋がゆっくり広がるのを見てる。窓は蒸気で曇り景色を写しはしない。明日から始まる映画という現場に、湯に沈めた心臓がドキドキと鳴り、目を閉じると体に入れてきた台詞が暗闇から再生される。その晩は結局緊張のため眠れなかった。

工程表を見ると幸い初日は何もセリフがないから眠たくても大丈夫だろうという甘い考えを打ち砕く、雨降りの神社での撮影は想像以上に過酷だった。

長い階段、濡れて体の冷えていくわたしをよそに、雨粒を受けて高揚している苔の生えた石畳。高いところで擦れ、ざわついた青い葉と葉。歓迎してるのか、警戒してるのか、御堂のすみを駆け抜けたもののけの光る目。わたしは深呼吸をして雨を降らしている空を睨みしばらくすると、汚れていたものが気化していく音が聞こえ、新しい場所に立っていることを全身で感じていた。

豊田監督の声は怒号のようで、スタートを告げる「ようい、はい」は遠吠えのように聞こえた。その声を聞いたスタッフや演者の細胞は皆、一様に緊張する。何より監督自身がその声に鼓舞されている。

その晩、キーさん(渋川清彦)と風呂に入って、爪の先に入った泥を洗い流し、ホテルに常備されたビアガーデンにいく。普段ならくるであろう監督は参加しない。明日のカット割や台詞の調整、孤独な戦いの中にいるのがその表情から伝わってくる。

疲れで半分、目の閉じかけている中で飲んだお湯割でわたしはちゃんと酔った。その疲れを全て解き放つように快眠。底の底で視界から色が消える刹那、何者かが名前を呼ぶ声を聞いた。昼間、あの境内で一度目があった奴だろうか? 声の聞こえた方を目視したが、確かめようもないのでそのまま底の底へ潜った。

豊田監督と初めて会ったのは三宿のバーだった。近くのコンビニでタバコを買いにきたキーさんとまず会って、その後行こうと思ってたバーに入ると豊田監督がいた。確か、竹中直人さんとかもいたっけ。その日は何を話したのか全く覚えていないけど、確かその時、たまたま持っていた本か何かを渡した気がする。

数日後に感想を送ってくれて、それから下北沢で深い時間までぐでんぐでんになるまで飲んだ。

わたしは映画にミュージシャンが役者として出るのがあまり好きではない。音楽はかえのきかない存在へなっていく一本の旅のように思っていて、与えられた様々な役を演じられたことでコントロールできると証明してしまうことは、積み上げた存在への確信が揺らぎ白けてしまうことがよくあるからだ。何を言っているかわからない? まあ何となくだよ。わたしにもよくはわからないけど、早い話、器用なやつが好きじゃないとその一点に尽きるかな。

でも、実際のところわたしは一体なん何だろうか。ミュージシャンと呼ばれると「はい」とか言って肯いたりもするけどどこかで違和感もあるし、一冊本を書いたくらいで物書きと名乗るほどの慢心もない。フェスをオーガナイズもしてるし、最近はライブハウスの屋上で農園もやってます。

そういう肩書の話は置いといたとして、わたしは自分のことが本当にわからない。朝、誰かを愛することも知らないが、夜には全て何もかもを知ってるような気になることだってある。身体は確かにあるが、存在はよく迷子になってあらゆる手段と才能を使って探し出そうとするも、出会うのはだいたい影で、手で触れようとすると残像のように指の隙間から消えていく。わたしはちゃんとわたしと出会いたくて、恥ずかしいくらいにいつも焦燥してる。

今回、わたしに与えられた役、賢一は祈り続けて即身仏になろうとした男だった。どんぐりや木の実を食べて体を山のモノにしてから土の中に入る即身仏の気持ちを想像すると果てしのない忍耐の境地を感じるが、祈るという行為自体は理解できなくはない。わたしは手を合わせることで何も生み出さないと知っていても時折祈るしかないという場面に遭遇する。

人は本当に本当に悲しい時、何かに祈る。涙も絞り出すのを忘れたような、そんな冷たい夜の底でわたしは何度も祈った。神様の名前も顔も知らないけど、わたしは祈り、その合わされた手と手の間に、まだ名前のついていない存在を感じる。そんな時、根拠や理屈なんてものはどこにも存在しない。ただ祈りだけがある。

演技のメソッドなどあるはずもないわたしは、ただ賢一のことを思い、なりきるしかなかった。撮影中、気持ちが切実になりすぎて、監督に深夜2時に「起きてますか?」とメールしたり、夜に呼び出して「この話がどんな話かというと」と堰(せき)を切り、脚本について改変を求めたりもした。もしかしたらというか、取りようによってはそれは失礼なことだったのかもしれないが、怒られたら怒られたで別にいいやと腹はくくっていたし、真剣だった。結局、わたしの要望は通らなかったけれど。

撮影は雲の流れと共にあった。照明部が常に空を虫眼鏡みたいなので見て、その雲の流れに沿って撮影は進められた。風をよんでいるみたいで超かっこよかった。梅雨の真ん中だったが奇跡的にその合間を縫ってスケジュールをこなし、順調に進んでいくのは混乱の中に散りばめられた祝福と呼ぶのにふさわしい。

イッセー尾形、対面した時にしかわからない役者の凄みに、積み上がった歴史を見た。きっと各々の積み上げた歴史によって、対峙した時に見える景色も違うのだろう。それは図鑑のページをめくる時の興奮に近い。

撮影が後半にいくにつれて、わたしは現場が好きになっていった。スタッフの皆の名前や顔も覚え、仲良くなっていくし、時間をシェアしていく中でチームが出来上がっていくのを感じた。松田龍平くんと前に話してた時に、『青い春』の撮影が楽しすぎて、現実の高校をやめたと言っていた。撮影が終わると毎日、そのメンツで卓球したり風呂に入ったりして遊んでたらしい。「こっちのがおもしろいじゃんって比べちゃった」。そう言って笑っていた。

気持ちが理解できる。その時間がなければ生まれることのなかった嘘が輪郭を手に入れ、存在し始める。レンズの向こう側、魔法のような時間が記録されていく。だが実際に魔法など存在するはずもなく、凄まじくアナログに雨や光に怯え、見えるものとも見えないものとも交渉し、役者は雲の流れに沿って奮い立ち、現場をメイクやスタイリストは風の速さで駆け抜け、怒号混じりの遠吠えが合図でその虚像を存在させる。

キーさんにそのことを飲みながら話したら「豊田組が最初でよかったね。違う現場に行ったら物足りなくなるよ」と言っていた。豊田監督の最初の映画、『ポルノスター』で俳優デビューしてから全ての作品に出ているキーさんにとって、きっと豊田組の現場は相当に特別なのだろう。

最初と言って笑ったけれど、わたしの役者はその後にも続くのか? わからないね。先のことを考えると思考に雲がかかる。何も考えない。わたしは自分で何かを決めると間違えることを知ってる。最後は世界に決めてもらうのだ。お腹が空いたら飯を食らい、いい匂いのする場所へ向かう。そうやってここまで日々を繋いできた。いつも急いではいるが後悔はしていない。

明日と呼ばれた時間が24時を跨ぐと容赦無く押し寄せる。わたしはその時間の中心を睨んでその日その日を生きるだけだ。遠い先の未来のことも、もう変えることのできない過去も考えるだけ時間の無駄だろう。生傷を絶やさずにいく。

そうこうしているうちに明日は最終日、渋谷での撮影だった。撮影時間は47秒。たったそれだけ。一発勝負。傷が乾く前にその渦の中に飛び込め。

「最初で最後の映画のつもりででたらめにやろう」。そう意気込んだツイートしようとTwitterの画面に打っていたら珍しく寝落ちしていた。朝目を覚ます。顔を洗う、わたしは鏡の前、いい目をしてる。生きてるねー。おはよう。そのツイートを消して家を出て階段を駆け下りる。

すべての撮影が終わった時、久しぶりに監督の笑った顔を見た気がした。わたしは撮影の終わった今も『破壊の日』の破壊が意味するところを考えている。わたしはその47秒の間何を思っていたのか思い出そうとしている。

わたしたちは大変な時代を生きているね。正しいことはそんなに価値がないみたいだ。私腹を肥やす、役人の肥満面、承認欲求と罵り合いで気分が悪くゲロを吐いた。受け止める混乱の坩堝の中心は恐ろしく流れが早く、そして空洞だ。何もない。

「本当なら今頃~」と愚痴を溢しそうになる口に酒を流し込む。『破壊の日』だってコロナ前とは随分、内容が変わった。だけど、愚痴なんてこぼさず映画監督は映画で返答した。うちのボスはカッケーだろ? ハハハ。

そもそも撮影してから1ヶ月も待たずに公開されるなんていう狂った映画あるのだろうか? 5分のMVでももっと時間がある。

この映画が意味するもの、その映像の向こうでわたしが演じ、生きていることをあなたに見つけて、そしてそのことの意味をあなたの言葉で教えて欲しい。

悲しみを吐く暇があるならわたしはあるべきものといたいね。仮にそれが祈りのように実際には何も生み出さなかったとしても最後、賢一に与えられた台詞と共にわたしは生きていたい。今の話だ。混乱しながらでもそれを繰り返す。一日、一日。生きているを繋いでいく。

わたしはこの映画を再生の話だと思ってる。全部ぶっ壊して、まっさらになった球体の中で、沈黙の次に美しい日々を生きるんだ。

* * *

この原稿が映画の宣伝担当を通して届いたのは、7月21日の22時07分。ギリギリの、本当にギリギリまで映画『破壊の日』は動き続けている。劇場公開の幕開けは明日7月24日。スポーツの日。本来なら東京オリンピックの開会式が挙行されたその日に。

一寸先は光なのか――。コロナ禍を駆け抜けて制作された、恐らく世界初の劇場公開作品が映し出す世界とは? 役者/マヒトゥ・ザ・ピーポーのラスト47秒を、あなたの眼で見届けてもらいたい。

●マヒトゥ・ザ・ピーポー 
2009年にバンド「GEZAN」を大阪で結成。作詞作曲とヴォーカルを担当。野外フェス「全感覚祭」の主宰や小説『銀河で一番静かな革命』の執筆、野菜作りなど、ミュージシャンの枠に収まらない活動を継続。映画『破壊の日』のエンディングテーマ『壊日』も手掛けている。
公式Twitter【@1__gezan__3】

■『破壊の日』 
7年前、田舎町の炭鉱の奥深くで見つかった怪物。その怪物は何なのかは不明のまま不穏な気配を残して時が過ぎる。7年後、村では疫病の噂が広がり、疑心暗鬼の中、心を病む者が増えていく。そんな中、修験道者の若者、賢一は生きたままミイラになりこの世を救うという究極の修行、即身仏になろうと行方不明になる......。そして、「物の怪に取り憑かれた世界を祓う」と賢一は目を覚ます。企画・監督・脚本:豊田利晃 出演:渋川清彦/マヒトゥ・ザ・ピーポー/イッセー尾形/窪塚洋介/松田龍平など。7月24日より渋谷ユーロスペース他、全国順次ロードショー。上映に関する情報は『IMAGINATION』H.Pよりご確認ください

■『日本列島やり直し音頭二〇二〇』 
『破壊の日』テーマ曲。高田文夫が作詞、佐瀬寿一が作曲を手掛けた原曲『日本列島やり直し音頭』を基に切腹ピストルズの飯田団紅と、『ポルノスター』『青い春』『ナイン・ソウルズ』『空中庭園』『クローズ EXPLODE』など、数々の作品で知られる映画監督の豊田利晃による歌詞に加え、THA BLUE HERBのILL-BOSSTINOがリリックを書き下ろし。切腹ピストルズの歌と演奏に、ゲストヴォーカルとして向井秀徳(NUMBER GIRL/ZAZEN BOYS)、小泉今日子、マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)、ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB)、伊藤雄和(OLEDICKFOGGY)が参加