石原裕次郎氏、渡哲也氏と共に時代を動かしてきた舘ひろしは今、何を考えているのか? 石原裕次郎氏、渡哲也氏と共に時代を動かしてきた舘ひろしは今、何を考えているのか?

俳優の故・石原裕次郎さんが創立した芸能事務所「石原プロモーション」が1月16日、58年の歴史に幕を下ろした。

石原プロには、石原裕次郎さん、故・渡哲也さん、舘ひろしさん、神田正輝さんらが所属し、アクションシーン満載のドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ、1972~86年)や『大都会』(日本テレビ、76~79年)、『西部警察』(テレビ朝日、79~84年)などで活躍。"石原軍団"として、大人気を誇った。

そんな石原軍団のひとり、舘ひろしさんに「石原裕次郎さんや渡哲也さんとの思い出」「撮影での忘れられないエピソード」などを聞いた。

■『西部警察』の撮影は一発勝負が多かった!

――まず、石原プロはどんな事務所でしたか?

舘ひろし(以下、) とても居心地のいい事務所でした。いるだけで何かワクワクする。おもちゃ箱のような場所でしたね。

――では、石原裕次郎さんは、どんな方でしたか?

 石原さんは、本当に心の大きな人でした。人の悪口は絶対に言わない。もし、誰かが石原さんのいるところで悪口を言っていると「その話はもうやめようよ」って声をかけるんです。本人のいないところで悪口を言うのはフェアじゃないと思っていたのではないでしょうか。

――怒ったりはしなかったんですか?

 あまり怒りませんでしたね。(石原プロの)故・小林(正彦)専務が一度大きな失敗をしたことがありましたが、そのときも石原さんが小林専務のところにトコトコと近づいて「バカだね、おまえは」と言い、そのまま通り過ぎていきました。怒るといってもそんな程度です。石原さんは、本当に太陽のような人でした。

――だから、多くの人から好かれたんでしょうね。

 そうだと思います。

――渡哲也さんは?

 今の僕があるのは渡さんのおかげです。デビューしたての頃、ただの不良だった僕に「ひろし、おまえには華がある。がんばれ」と言って認めてくれた。それがすごくうれしくて、その言葉が今でも僕の支えになっています。

そして、渡さんからは誰に対しても「お先にどうぞ」と他人に譲る姿勢を学びました。他人に譲るということは「相手を気遣う余裕がある」ということだと思います。僕はまだ余裕があるわけではありませんが、男のカッコよさというのは、石原さんにしても渡さんにしても「余裕がある」ことだと思っています。

――では、『西部警察』の撮影で忘れられないエピソードは?

 一番の思い出は、やはり"煙突倒し"ですね。『西部警察』で本当に面白いのは、放送されている映像以上に、制作現場なんですよ。

木を倒すときにクサビ形の切り込みを入れるように、煙突を倒すときにも煙突のコンクリートの部分をクサビ形に削り取るんです。そして、中に設置されている鉄筋を1本ずつ切っていく。最後の鉄筋を切り終わったら、いつ倒れるかわからない。1分後なのか10分後なのか。やはり、風の具合とかもありますからね。

それで、当時のドラマはフィルムで撮っていたから、15分くらいたつとフィルム交換をしなくてはいけないんです。もし、フィルム交換をしている間に煙突が倒れたら、これまでの準備が全部ムダになる。

また、ハイスピードカメラでも撮ることになっていて、それは2、3分しかもたない。だから、煙突が倒れるシーンが撮れるかどうか、現場ではものすごい緊張感がありました。

そして「今、最後の鉄筋を切った!」というアナウンスがあってすぐ、僕には煙突がふらっと揺れたように見えたんです。「あ、倒れる!」と思ったけれども、撮影の指揮をしていた小林専務が「まだ、カメラを回すなー!」と言ったんですよ。

だから「大丈夫か!?」と思っていたら、数十秒後に指揮をしていた専務が「回せーっ!!」と叫んだ。その十数秒後にドーンと倒れたんです。

――小林専務はなんで倒れる瞬間がわかったんですかね?

 なんでですかね。僕にもわかりません。長年の勘ってやつなのかも(笑)。

――すごいですね。

 『西部警察』の撮影は、この煙突倒しみたいな一発勝負が多かったんです。こうした制作の裏側は放送では見られないけれども、そういう現場でやっている俳優さんの表情や気持ちが視聴者の方には伝わっていたんじゃないかと思います。だから、本当に現場が楽しかったんです。

――「石原プロは、おもちゃ箱のような場所」と言った意味が少しわかったような気がします。

 でしょ。そして夜は毎晩ドンチャン騒ぎ(笑)。ある日、撮影が終わって、いつものように渡さんと夜中の2時くらいまでホテルの部屋で飲んでいたんですよ。そうしたら、渡さんが窓から下をのぞき込んで、屋台のラーメン屋さんがいるのを見つけたんです。

「ひろし、ラーメン食いたくないか?」って聞かれたので「いただきます」と言ったら、マネジャーに「屋台をエレベーターでこの階に上げて廊下でチャルメラ鳴らしてもらえ。

そうしたら、ほかの役者のみんなも部屋から出てくるだろう。料金は俺が全部払うから、食わせてやってくれ」って。結局、屋台がエレベーターの中に入らなくて、上がってこれなかったので、ラーメンだけ持ってきてもらったんです。でも、渡さんのその発想がすごいと感心しましたよ。スターだなって......。

――常識にとらわれない人なんですね。

 そう。渡さんは常識人だと思うでしょ。でも、実はそうでもなかったんです(笑)。

■僕はいつも紳士でありたい!

――石原軍団といえば「炊き出し」が有名ですが、やはり「困っている人を助けたい」という気持ちからの行動なんですか?

 炊き出しは、東日本大震災(2011年)のときや熊本地震(16年)のときに行きましたが、それは「困っている人を助けよう」というのではなく、僕らは俳優で芸能屋なんだから、僕らが被災地に行くことで「皆さんが一瞬でも笑顔で元気になってくれればいいな」ということだけですよ。助けたいなんておこがましい。

――でも、なんかそういう行動を取れることが、カッコいいと思っちゃうんですよ。そこで舘さんの考える"男のカッコよさ"ってなんですか?

 男のカッコよさが何かは、僕はよくわからないけれども、自分の弱さを認められたときに、人は強くなれるんじゃないかなとは思うし、弱いから人に優しくなれるんじゃないかなと思いますね。

――じゃあ、人生にとって大切なことってなんですか?

 それは、いろいろあると思いますけど、僕は「いつも紳士でありたい」と思っています。じゃあ「紳士って何?」っていうと「自己犠牲」の精神を持っていること。別の言い方をすると、「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」ですね(*もともとはフランスのことわざで「貴族たるもの身分にふさわしい振る舞いをしなければいけない」という意味。最近は「社会的地位のあるものは社会の模範となる行動を取らなければいけない」「世のため人のために尽くす」などとも解釈されている)。あとは、自分に嘘はつかないということかな。

――最後に、石原プロが1月16日に幕を下ろしましたが、今後、舘さんはどんなことをされていくのでしょうか?

 わからない(笑)。僕はこの人生で「こうしたい」「ああしたい」と思って成就したことがないんですよ。だから、未来のことを考えることはあまりなくて"その日暮らし"ですね。

――その日暮らしですか?

 ただね、僕がひとつだけ信じていることは「今ある仕事を全力でひとつひとつ大事にやっていけば、未来はおのずと見えてくる」ということ。未来は遠い先のことではなくて、"今ここにある"んです。だから、今日も「このインタビューを全力できちんとやりきることが、石原プロが幕を閉じた後の自分の未来につながっていく(笑)」と思っています。

――「今を全力で生きる」ということですね。ありがとうございました!

 インタビュー、大丈夫でした!? 僕の話、ちゃんとまとまるかなあ。

――大丈夫です! 全力でやりきります!

●舘ひろし(Hiroshi TACHI)
1950年3月31日生まれ、愛知県出身。1975年、オートバイチーム「クールス」を結成し、レコードデビュー。1976年『暴力教室』で俳優デビュー。1983年「石原プロモーション」入社。映画『野性の証明』『終わった人』『ヤクザと家族 The Family』、ドラマ『西部警察』や『あぶない刑事』シリーズ、『パパとムスメの7日間』などに出演。楽曲に『泣かないで』『冷たい太陽』などがある。2020年秋に旭日小綬章を受章