練馬の家の八重桜の木
天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

第一回目は、今から10年前。立川談志が人生の最後に、心から愛した桜の木を見に行った話。家族しか知らない、意外な姿がそこにはあった。

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立川談志は、どういう人で、どんなお父さん?と、私は、常に聞かれてきた。

日本人で、落語家で、参議院議員に1度なり、落語協会を辞めて立川流を創り、家元になった。

これだと広辞苑と同じなので、やめよう。

父が決めた日本人の定義は、「富士山と桜と米の飯を好きな奴」で、富士山に一緒に登った事はなかったが、父も桜と米の飯が大好きだった。

桜といえば、父の練馬の家(今は父のお弟子さんの立川志らくさんに貸している)に、立派な八重桜の木がある。今年ももうすぐ咲くであろうその桜を、父はこよなく愛していた。毎年ひとりでもその桜が咲いて枯れるまで、練馬の家で桜を見ていた。桜の花に、「お前は本当に可愛いねー」と話しかけ、愛おしそうに花にほおずりをしていた姿は若干あぶなかった。

私が子供の頃に家を買った時からその桜の木はあって、年月と共にどんどん大きくなった。ある時、隣の人から「桜がはみ出ているので、切ってください」と言われた父は、「桜の木を切る馬鹿がどこにいる!!」と怒鳴り返した。近所の人が桜に足を止めていると、「綺麗でしょうー。どうぞ、どうぞ、いつでも弁当でも持って来て、花見してください」と話しかけていた。可憐な桜の花が咲いている間、父はとても機嫌が良かった。

最後に父が桜を見たのは、亡くなった年(2011年)の4月24日だった。喉頭癌だった父は、声帯を取る事を最後まで拒否していたが、とうとう息が苦しくなり、喉に穴を開けて管を装着する気管切開の手術を受けた。手術の前に、私が「喉に穴を開けないと、息が出来なくて死んじゃうんだよ。落語を話すことが、パパの人生なのに、神様は酷い!」と言うと、父は「俺らしくて、いいよ」と、小さな声で言った。

立川談志師匠と娘の松岡ゆみこ氏
忘れられない3月21日。この日、父は声を失った。なんの罰ゲームなのか?と思った。父が可哀想すぎて、辛すぎた。同時に、食べ物も飲み込めなくなった父は、胃ろうという物を胃に穴を開けて付けた。いきなり要介護5になった。喉の管から痰の吸引、胃ろうから薬と栄養の注入。これらは医療行為で、私達家族には出来なかった。

それでも父はとにかく家に帰りたがった。入院して数日後、看護師さんを週刊誌で叩き、車椅子で外に出て寒い中2時間もそこを動かなかった。父のゴネ勝ちで、その日だけは家に連れて帰ったが、次の日の朝にはまた救急車で病院に戻った。

余命3ヶ月と言われていた父を、私達家族は家に連れて帰る覚悟をした。父にせかされながら、私達は必死に痰の吸引や胃ろうのやり方を練習した。父の部屋を片付けて、医療用ベッドや車椅子など必要な物を全て準備し、やっと父は家に帰れた。父は練馬の家の桜を見に行きたいと言った。6日後の4月24日、桜を見に行った。ソメイヨシノはもう終わっていたが、練馬の八重桜は父を待っていてくれた。満開だった。

車椅子から父を抱きかかえ、父が桜を見るのにいちばん好きだった2階のバルコニーから、一緒に桜の花を見た。喋れない父はどんな思いで桜を見ていたのだろう? 私は泣きそうになるのを我慢しながら、桜と父の顔をみつめていた。きっと、最後なんだと思った。30分程の、静かなお花見だった。

帰りぎわに、父が手紙を書き始めるた。「○○様 声が出なくなりました。当分来られないと思います。水道の件、ありがとうございました。立川談志」。お隣の方への手紙だった。3月11日の地震で水道のトラブルがあり、お隣の方に対処をして頂いたお礼だった。父はもともとこういうところはとてもちゃんとしていた人で、何かをして頂いたり頂き物があると、すぐにお礼の葉書を書いていた。

父が亡くなった後、その桜の木の根本に少量の父の遺灰を散骨し、父の好きだった睡眠薬も撒いた。生前、父は「葬式はやるな! 坊主も呼ぶな! 墓もいらない! 骨は犬にでも喰わせろ! お経は弟子に黄金餅の"きんぎょーきんぎょー"でもやらせておけ!」と言っていた。黄金餅という落語の中で、和尚が「きんぎょーきんぎょー」とインチキなお経を読む場面がある。戒名も『立川雲黒斎家元勝手居士』と、自分で付けていた。

これを真に受けて遺言と認めていいのか分からなかったが、父の意向にそって志らくさんに、木魚を叩きながら「きんぎょー きんぎょー」と、黄金餅に出てくるお坊さんのようにやってもらった。桜の木の下に父の写真を飾り、手を合わせた。

そんな事をしていると、近所の人が不振そうな顔をして集まってきた。私達にとっては重大な行事だったが、側からみればそれは危ない宗教団体にでも見えたのだろう。満開の桜の下で、私達はみんなで笑った。父も一緒に笑ってくれている気がした。父の笑っている顔が鮮明に思い浮かんだ。

●松岡ゆみこ(まつおか ゆみこ)
元タレント、クラブ経営者。落語家・立川談志の長女。現在は自称・専業主婦。著書に立川談志が息を引き取るまでの9カ月間を記録した「ザッツ・ア・プレンティー」(亜紀書房)がある

フォトグラファーBRUCE OSBORNの情報は以下。(立川談志師匠と松岡ゆみこ氏のツーショットを撮影)
https://www.jps.gr.jp/kokusaikikaku04/
https://oyako.org/
葉山芸術祭(4月24日~5月16日)では屋外写真展示と親子撮影会。
親子写真まつり(6月5日~7月2日)ではキュレーターを務める。

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。