ジミー大西の絵を見た岡本太郎は手紙を送り、「迫力あるよ。いいじゃない。少しまとまりすぎてるぐらいだね。紙の四角い枠を気にして描いてる。もっと平気で、ハミだしちゃえばいいんだ。もっと良くなるよ」とホメたたえたという ジミー大西の絵を見た岡本太郎は手紙を送り、「迫力あるよ。いいじゃない。少しまとまりすぎてるぐらいだね。紙の四角い枠を気にして描いてる。もっと平気で、ハミだしちゃえばいいんだ。もっと良くなるよ」とホメたたえたという

今年2月26日で生誕110年を迎えた、岡本太郎。生前に手紙をもらい、没後もパートナーの岡本敏子さんと交流を持ち続けたジミー大西が、天才芸術家の魅力を"画家目線"で語る!

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■人生を変えた岡本太郎の手紙

――ジミーさんが絵を描き始めるきっかけは1992年に出演した、島田紳助さん、上岡龍太郎さん司会の『EXテレビ』(日本テレビ/読売テレビ)でしたよね。タレントが描いた絵をオークションにかける企画に出演して話題になりましたが、それ以前から絵が得意で番組から声がかかったんですか?

ジミー大西(以下、ジミー いえいえ。まだIMARUちゃんが小さいときに、(明石家)さんまさんの家で僕も一緒にお絵描きをしてたんですよ。人の口から新幹線が飛び出してる絵を描いてたんですけど、それを見たさんまさんが「おまえの絵はなんか変わってるな。紳助が今、番組で絵の企画をやっとるから言うたるわ」って。

それで紳助兄さんが「ほかの人はみんな絵がうまいから、おまえの絵はオチで使うわ」と言ってくれて番組に出ました。そしたら僕の絵が出演者の中で一番高い33万円で売れて......。A4サイズぐらいの小さな絵がですよ。

――どんな絵でしたか?

ジミー 女の人の顔を描いたんですけど、髪の毛がひまわりの花びら見たいな感じ。

――当時から個性的な絵だったんですね。

ジミー その番組を太郎先生が見てて、手紙をもらったんです。僕の絵を見た瞬間に太郎先生がおっしゃった言葉を、パートナーの岡本敏子さんがメモしてくれて、番組宛てに手紙を送ってくれたんです。

「迫力あるよ。いいじゃない。少しまとまりすぎてるぐらいだね。紙の四角い枠を気にして描いてる。もっと平気で、ハミだしちゃえばいいんだ。もっと良くなるよ」って書いてありました。

――「いいじゃない」はうれしいですね。

ジミー 敏子さんから聞いたんですけど、太郎先生は僕の絵を見たときニコッと笑ってたそうです。

■「紫を使いこなせ」

――ジミーさんは岡本太郎さんと直接お会いしたことはなかったんですよね?

ジミー はい。インドに行ったときに初めて油絵を描いたんで、それを先生に見てもらおうと思って日本に帰ってきたら、先生はお亡くなりになっていて。それを聞いて、「俺、絵をやめようかな」って思って。先生のご自宅にその絵を奉納しに行きました。そこで初めて敏子さんにお会いしたんです。

――敏子さんとはどんなお話をされたんですか?

ジミー 太郎先生のアトリエを見せてもらいました。広さは10畳ぐらいでしたね。太郎先生は「タタタッと走ってキャンバスにダーッて描いてた」って敏子さんが言ってました。だから床には絵の具がいっぱい散らばった跡がありましたね。

そのアトリエには階段があるんですよ。これは僕の想像ですが、先生はその階段を上がって、大きいキャンバスを見下ろして眺めてたと思うんです。眺めては描いて、眺めては描いて......。じゃないと、あんな作品はできないと思います。普通にキャンバスを前にして描くだけだと。

――そのときに形見分けとして岡本太郎さんの遺品をいただいたそうですね。何をもらったんですか?

ジミー 敏子さんに「なんでも好きなの持っていきなさい」って言われたんで、「TARO」と書いてある絵の具チューブと細い絵筆をひとつずつもらいました。そのとき偶然手に取ったのが紫だったんです。

実は紫って使うのがすごく難しくて。だから、当時、僕は絵に紫を全然入れてなかったんですよ。それで、「あれ? もしかしてこれは太郎先生が僕に『紫を使いこなせ』と言ってるのかな」と思って。それで、「やっぱり絵を続けようかな」と思い直しました。

――その紫の絵の具は今どこかに飾っているんですか?

ジミー 今はね......どこにしまったかわからんようになってしまって(笑)。

――(笑)。その後も敏子さんとのお付き合いは続いていったんですよね?

ジミー 10年ぐらいですね。僕が海外から日本に帰ってくるたびに敏子さんの家に行ってました。仕事でワインのラベルを描いたら、「そのワインで乾杯しない?」って誘っていただいたり。敏子さんが亡くなられる(2005年)直前までお付き合いがあって、お別れ会にも行きました。

――そうだったんですね。

ジミー 太郎先生が亡くなられてから、太郎先生の絵の仕事を敏子さんが僕に振ってくれてたんですよ。「飛行船に絵を描かない?」とか。太郎先生のスポンサーが来るパーティに呼んでもらって、「好きにスポンサーをつくりなさい」って感じで。それがきっかけで絵の仕事をよくいただくことがあって、太郎先生の仕事を引き継ぐ感じでしたね。

■やみくもに描くんじゃなくちゃんとしたのを崩してる

――去年、5年ぶりに新作を描いたとおっしゃってました。なぜ5年も絵をやめてたんですか?

ジミー 絵の制作時間がかかりすぎて......。手取りを時給に換算したら、380円だったんです。それで、「や~めた」って(笑)。

――いや軽いですね(笑)。1枚の絵の制作時間はどれぐらいかかるんですか?

ジミー 描き始めたばかりの頃はね、ブワーッと大胆に描いてたんです。だから、その頃は1、2週間で1枚描けてて。それが今は1枚に3、4ヵ月、へたしたら半年ぐらいかかるんです。

――なんでそんなに時間がかかるようになったんですか?

ジミー 勉強のために太郎先生の絵を見に行くようになって。絵を深く見ていくと、太郎先生のデッサンが残っているんですよね。それで、「あれ? これって計算してるな。ウワーッと勢いで描いてるのはデッサンが出来上がってからやな」と。

太郎先生は感情でやみくもに描いてるんじゃなくて、ちゃんとしたのを崩してるというのが見えてきたんです。それで僕も「ちゃんと描かなあかんな」と思って。そしたら、どんどん追求し始めて。

――それで時間がかかり始めたんですね。

ジミー ホントは絵の勉強をしたら描き方や見せ方がわかるから早く描けるんですよ。だから、「こんなに時間がかかるんやったら絵を習ったろう」と思ったんです。でも、さんまさんに「習ったら、おまえの個性がなくなってまうぞ。ええんか?」って。それで、「そっか~」ってなって......。

――それは悩みどころですね。

ジミー 敏子さんも「個性は大事」と言ってて。「太郎も個性的だったからね。太郎は生き方がアートだった。生き方が面白いから絵も面白い」と。それが僕とリンクするときがあると敏子さんに言われました。でも、「この時代に太郎先生みたいなハチャメチャな生き方をやってたら捕まってまうで」と思って(笑)。

――コンプライアンスが厳しい時代に(笑)。岡本太郎さんなら、今のジミーさんに対してなんておっしゃると思いますか?

ジミー 太郎先生やったら......「教えてもらうなら僕のところに来なくていいよ」とズバッと言いそうな感じがします(笑)。

■女のコに夢中なときにふと絵を描きたくなる

――5年ぶりにまた絵を描こうと思い直したのはなぜですか?

ジミー 1、2年前、西麻布の料亭みたいなところにさんまさんとふたりっきりで行ったんです。そこで時給換算すると380円だということを話したら、「人を喜ばすことを時給換算なんかしたらアカンねんで。絵描きも芸人も人を喜ばすためにやってんのよ。誰が時給換算してやってんねん」と言われて。その言葉を聞いて、「絵をもう一度がんばります」と誓いました。

――さんまさんと岡本太郎さんというふたりの偉大な師に教えを請うことができる人はジミーさん以外にいませんね。最後にジミーさんが岡本太郎さんに一番影響を受けたところを教えてください。

ジミー 女の人が好きなところですね(笑)。太郎先生も女性好きだったそうで、いい女の人を見つけたら、半年、1年くらい家に帰ってこないときもあったと敏子さんから聞きました。それは僕もよくわかるんですよ(笑)。

作品を作るのに休憩時間が絶対に必要なんです。女のコに夢中になってるときに、ふと戻って絵を描きたくなるときが来るんですよ。だから、「俺もそうやって生きていかなアカンな」と。

――いやいや、ジミーさんの女性好きは岡本太郎さんが女性好きと知る前からなんで、先生の影響を受けたわけじゃないでしょ(笑)。

ジミー ガハハハッ!

●ジミー大西 
1964年生まれ、大阪府出身。吉本興業のお笑い芸人として人気を集めるも、1996年には芸能活動を引退し、創作活動に専念。絵画やエッセイ、CDジャケットのデザインや絵本創作なども手がける。昨年、実に5年ぶりに画家としての活動を再開した

●岡本太郎 
1911年-1996年。神奈川県出身。父は漫画・漫文家の岡本一平、母は歌人で小説家の岡本かの子。東京美術学校入学後、1940年までパリに住み、数々の芸術運動に参加。復員後、創作活動を再開。1970年の大阪万博のテーマ館「太陽の塔」が話題に。文筆活動にも力を入れた