誕生日パーティーでの志村けん氏とツーショット
天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

天才落語家・立川談志と、不世出のコメディアン・志村けん。テレビでの共演など滅多になかった二人だが、そこには意外な関係が。豪華なメンバーとともに居合わせたパーティーでの、貴重なエピソード。

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こんなにコロナが長引くと思わなかった。既に丸1年コロナ一色。何をするにもまずコロナの事から考える世の中になっている。
 
去年の2月半ばまで、私はひと月くらいLAにいた。LAに着いて間もなくテレビを観ていたら、ヘリコプターの墜落事故のニュースが目に飛び込んできた。NBAのKOBE(コービー・ブライアント選手)の乗っていたヘリコプターだった。KOBEは一緒に乗っていた娘さんと亡くなってしまった。LAで神のような存在のKOBEの死を人々は悲しみ、追悼した。バスの行き先表示はすべて[RIP KOBE]になって、街中のストリートアートは日に日にKOBEの絵が増えていった。トップニュースは連日KOBEの事故の事で、インフルエンザの死亡者が多い事とコロナのニュースも流れてはいたが、まだ気にならなかった。グラミー賞もアカデミー賞も普通に行なわれていた。

意外と知られていないが、父はNBAの試合を観るのが大好きだった。父よりもNBAに詳しい母と、いつも仲良く盛り上がってテレビで試合を観ていた。

私は父が好きだった人が亡くなると、もちろん悲しいのだが、「パパのいるところに行ったんだな、パパと会えるといいなぁ」と思ってしまう。去年、コロナで志村けんさんが亡くなった時もそう感じた。

父は志村さんのコントをテレビで観ては、よく笑って褒めていた。植木等さんが亡くなった時に囲み取材を受けた父は、記者の方から「植木等さんがお亡くなりになって、これで日本には優秀なコメディアンがいなくなりましたね?」と言われて、「バカ言ってるんじゃない! 志村けんがいるじゃないか!」とキッパリ言い返した。

2020年2月22日の志村さんのお誕生日会で、私はそのエピソードを志村さんへのお祝いの言葉と共にお話した。それが、私が志村さんにお会いした最後の日になってしまった。

その誕生日会は中山ヒデちゃん(中山秀征)の主催で、20年続いていた。最初はヒデちゃんと川上麻衣子さんと3人で始まったと聞いている。志村さん50才のお誕生日からだ。何年か前から、ヒデちゃんに誘われて私も参加させて頂くようになった。毎年、志村さんとゆかりのある豪華芸能人の方々や綺麗な女性が多数集まる、楽しいパーティーだった。

パーティーでのケーキ

志村さんの周りはいつも人がいっぱいで、私は井澤社長(芸能プロ・イザワオフィス社長)とお話をする事が多かった。それでも時おり志村さんとトイレの前で会ったりすると、切なそうな顔をして私をハグしてくれた。優しくて、シャイな人だった。志村さんのコントには哀愁があった。ご本人も「僕のコントには必ず哀愁があります」と言っていた。毎年ヒデちゃんの仕込みで若手芸人が呼ばれていて、志村さんの前でネタを披露した。ブルゾンちえみちゃんもその時初めて見て面白いと思った。志村さんは必ず若手全員に感想とアドバイスを言ってあげていた。

最後のお誕生日会となったその日も、マツコ・デラックスさん、ミッツ・マングローブさん、DAIGOさんなど、とにかく沢山の芸能人がお祝いに集まった。毎年長時間続くパーティーの最後まで、私がいたのはその時が初めてだった。ヒデちゃんから途中で「たけしさんも来るかも? 僕がお誘いしたんだけど」と言われて、たけしさんを待った。結局たけしさんは来られなかったが、気がつけばお開きの時間になっていた。その頃には大分人数も減っていて、「締めにもう一度みんなから志村さんにお祝いを!」という流れになり、ヒデちゃんがマツコさんから順にマイクを渡していった。私にもマイクが回って来たので、植木等さんが亡くなった時の父の囲み取材のエピソードを話した。

全員のお祝いメッセージが終わり、ヒデちゃんが「最後に志村師匠、ひと言お願いします!」とマイクを渡した。志村さんは「ぼくは以前、談志師匠と銀座のバーで飲んだ事があります。その時に、『談志師匠がバカ殿のコントに出るとしたらどんな役ですか?』と聞くと、『オレは食堂の客かなんかで目立たない所に出る』と言われました。その時一緒にいた中村勘三郎さんは『俺は白塗りで出る!』と」。このネタのような本当の話に、みんなウケて笑っていた。

それが志村さんの締めの挨拶だった。私は志村さんが父の話をしてくれたのが嬉しくて、来年はもっといろんなお話ができるだろうと思っていた。その場にいた全員、志村さんがコロナで死んでしまうなんて、誰一人思うはずもなかった。

志村さんの訃報を知り、私は泣いた。残念すぎた。だけど流石だな、とも思った。父はよく「コレラでコロッと死にたい」と言っていた。志村さんはコロナでコロッと逝ってしまった。きっと父は羨ましがって「志村よくやった! 完璧なコメディアンだ!」と言っているような気がする。今頃、父が志村さんと勘三郎さんと楽しいお酒を飲んでいたらいいなぁと思う。おっと、その3人で飲んだ銀座のバー美弥のマスターも去年の夏に亡くなった。

なんか、あの世の方が楽しそうだ。

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。