立川談志師匠と奥様の則子さん
天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

海が好きで、ハワイにも幾度となく足を運んでいた立川談志師匠だが、はじめからハワイが好きだったわけではなかった。今回は、師匠が最初にハワイを好きになったときの話。

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去年の年末からお正月にかけて、ハワイに1週間ほど行ってきた。今回のハワイは、何もかも初めての事だらけだった。まず、ハワイ州指定の都内の病院で、出発72時間以内にPCR検査を受け、コロナ陰性証明書を発行してもらう必要があり、スマホに色々入力をしなければならなかった。それらを持ってハワイに行けば、現地での2週間の隔離期間は必要なくなるということだった。

12月28日の羽田空港は、怖いほど人がいなかった。お店もほとんど閉まっていて、免税店が何軒かと、エルメスはやっていた。飛行機に乗るとこれまたガラガラで、エコノミーのまん中4席を1人で使うことができ、視界に他の乗客はいなかった。マスク着用がルールだったが、機内食やサービスはいつもと同じで、乗務員に乗客の人数を聞いたら50人とのこと。かなりの緊張感を持って出発したが、空いている飛行機は快適だった。

ホノルル国際空港(ダニエル・K・イノウエ国際空港)では、いつもの年末年始ならイミグレーションは長蛇の列で、意地悪そうな係員のおばちゃんに「あっちに並べ、こっちに進め」と偉そうに言われながら1~2時間は必ず待つ。しかし今回はコロナ禍、スイスイ行けた。空港を出るまでの時間がやたら早かった。毎年いるはずの芸能レポーターも1人もいなかった。ホテルも同様で、すぐにチェックインできた。父と出来たばかりの頃に泊まったことのあるハイアット リージェンシーは2棟建てのタワーホテルだが、1棟はクローズしていた。

ワイキキのABCストアも半分くらい閉まっていて、免税店は潰れていた。マスクをしていないと200ドル位の罰金だと聞いた。ワイキキの通りをみんながマスクをして歩いている光景を人生で初めて見た。父と必ず行っていたステーキハウス『Chuck's』も閉まっていてショックだった。営業しているレストランは東京よりも対策が徹底していて、テーブルごと減らしてソーシャルディスタンスをとっていたし、メニューもなくてQRコードからオーダーするお店もあった。クロムハーツでマスクが売っていたし、ホテルのエレベーターで1週間誰とも一緒にならなかった。皮肉なことに人が少ない為か、海は綺麗になっていた。

父とのハワイの思い出を書こうと思ったら、まくらが長くなってしまった。それにしても今回はハワイの本来の力を思い知った。海と風と虹はいつもと同じで、心にも体にも爽やかだった。ハワイアンマジックは健在だった。

父も私も、私が中学2年の時に初めてハワイに行った。母がハワイに行きたいと言い出したらしい。その時の父は「あんなつまらないところになんで行くんだ!」と馬鹿にして、参加しなかった。

母は以前、新宿の紀伊國屋書店のオープン祝いに、社長の田辺茂一さんに招待され、著名人の方々や父と一緒にサンフランシスコなどを旅行したことがあった。父は途中で帰国したが、母はハワイのカハラ・ヒルトンに泊まった。カハラ・ヒルトンは一流ホテルで、そこで母はハワイの素晴らしさを知った。しかし私達と行くハワイ旅行では、1番安いツアーを選んだ。私と弟と父の妹の4人でのハワイ旅行だった。初めての海外旅行にワクワクした。

ハワイに着くと、そこにはいないはずの父がいた。

当時、『アップダウンクイズ』というテレビ番組があった。キャッチフレーズは「ハワイへのご招待。10問正解して、さあ、ハワイへ行きましょう!」。回答者が乗った箱が正解するごとに上がっていき、10段目まで行くとCAさん(当時はスチュワーデスさん)からレイと旅行バックと目録が貰えた。

父は9段目から一度1番下まで落ち、そこからまた10問正解してハワイ旅行をゲットした。この話は長い間、父の自慢話だった。その10問正解の賞品で、タダで来たのだ。私達のホテルはホノルルZOOの近くの民宿みたいな安宿だった。それにひきかえ、父はロイヤルハワイアンのスイートだった。父のホテルに行くと、ドヤ顔の父が「思ったより海も綺麗でいい所だ」と言った。ハワイをあんなに馬鹿にしてたくせに。

もともと海と泳ぎが好きな父と私はワイキキビーチとハナウマベイで泳ぎ、夜はみんなで安いステーキハウスに行った。ろくに英語を話せない私達は、注文したステーキのデカさに驚いた。当時のアメリカ牛の肉は今よりも硬くて、もちろん全部は食べきれなかった。父が持ち帰ると店員に伝えたら、犬の絵が描いてある袋が、ドン!とテーブルに置かれた。父は目を丸くしてびっくりして「犬じゃなくて、オレが食うのに」とぶつぶつ言っていた。可愛いかった。
それ以来その店には必ず行っていて、内装も昔のままで相変わらず硬めのステーキを食べる度に、父と初めて来た時を思い出す。

それ以降、父はハワイを気に入り「日本国ハワイ県」と呼び、私とも何回も一緒に行った。一緒に大晦日にヒルトンホテルでサミー・デイビスJr.のディナーショーを観たり、父の好きだったワゴンのある飲茶にはダウンタウンまでバスを乗り換えて行った。ノース(父はノースを"北の海"と呼んでいた)のワイメアビーチの一画は勝手に『談志ベイ』と名づけていた。サンセットビーチの大きく真っ赤な夕日を、普段はビーチに行かない母も一緒に家族4人で見た。

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。