16歳当時のゆみこ氏(左)と立川談志師匠(右) 16歳当時のゆみこ氏(左)と立川談志師匠(右)
天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

子育てにはノータッチだった立川談志師匠。そんな師匠が、一度だけ娘のゆみこ氏を殴ったことがあった。今回は、ゆみこ氏の子供時代の話から。

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私は人生で一度だけ、父に殴られた。父も子供を殴ったのは、その一度きりだった。この話の前に、まずは私の幼少期から書いてみる。

1964年、私は1歳で目黒から新宿に引っ越した。家出は何回かしたものの、18歳くらいまでは新宿で育った。

3歳で「伸びる会幼稚園」に入園した。幼稚園は下落合にあって、可愛い制服を着てお弁当を持って、スクールバスで通っていた。当時はハイカラな幼稚園だと思っていたが、今では超がつくエリート幼稚園だそうだ。

年長組の頃、私は知能テストでIQが高かったらしく、先生から小学校受験を勧められた。それまでお受験に興味のなかった母と私は、何の準備もなしに「学芸大学附属小学校」を受験した。断片的に覚えているのは、おはじきで何か作らされた事、運動のテスト。ペーパーテストはほとんどわからなかった。

もちろん落ちた。幼稚園の先生は「頭が良すぎて落ちのでしょう」と言ったらしいが、そんな筈はない。周りの人は「くじ引きで落ちたのよねー」と気を使ってくれたが、くじ引きをした記憶もなく、テストで落ちたに違いない。

元々お受験をさせる気のなかった母は、新宿区立の小学校に私を入学させた。父は子育てにはノータッチだった。父は、私と弟の入学式、運動会、学芸会など、どれにも一度も来た事がなかった。

立川談志の子にしてはいじめられる事もなく、学級委員をするような普通にいい子に育ったと思う。少しマセていたかもしれない。向田邦子のドラマと本が好きだったし、傷だらけの天使も大好きだった。そして、いつも好きな男の子がいた。私が小学校2年生の時に、父は国会議員になった。父が偉い人になったとは全然思わなかった。

中学生になり、区立の学校に入った。同じ中学校に行くお友達が少なくて、少し心細かった。好きだった男の子とも、別々になった。

中学校の方が、家からも歌舞伎町へも近かった。同級生には、職安通り沿いの銭湯や商店街のお店の子供もいた。私の短い学生生活で、この淀橋中学校が1番楽しかった。セーラ服にローファーと革のかばん。少し大人になった気がした。3年生の頃には、誰よりも長いスカートで、革のかばんはペッタンコだった。母子家庭で、お母さんが水商売をしていた同級生の男の子のアパートで、Eaglesの 「Hotel California」をレコードが擦り切れるくらい聴いた。寿司屋の息子で、1つ年下の男の子とファーストキスして、夜な夜な彼の部屋でイチャイチャしていた。Chaka Khanの「I'm Every Woman」を聴きながら。

この時もまだ、父は子育てに関心がなかった。母は近所のカラオケスナックによく通っていた。父は常々、母に「ノン君、遊んでなー」と言っており、自分が仕事から帰った時に母がいなくても怒らなかった。私が多少夜遅く帰っても怒られた事はなくて、弟は私の夜遊びには関心がなく、母がカラオケから早く帰って来る事を望んでいた。

中学3年生の時、一度だけ友達とシンナーを吸ってみたが面白いと思わず、それきりやらなかった。父にも落語にも興味がなくて、自宅からガードをくぐって5分も歩けば歌舞伎町だったので、友達と映画やボーリング、ミラノ座にあった「フリッパールーム」によく行っていた。時々、警察官に「家はどこ?」と声をかけられても「新宿です!」と答えると「早く帰りなさい」と言われるくらいだった。学校は楽しかったので、遅刻はしても毎日通っていた。そして、同級生の男子の第二ボタンをもらって卒業した。

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。