立川談志師匠(左)と娘のゆみこ氏(右) 立川談志師匠(左)と娘のゆみこ氏(右)
天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

歌舞伎町のディスコにのめり込んでしまったゆみこ氏。立川談志師匠が父としてとったとんでもない行動に、ゆみこ氏もキレてしまうのだが......?

 * * *

あの頃、不良の私と戦うために、父は『談志パパ怪獣』として目覚めた。初めて父親としての自分と向き合い、娘とも向き合おうとした。その結果、立川談志のキャラクターが壊れるほどに普通のお父さんのようになろうとしていた。今思えば、私はそのことに反発していたのかもしれない。

父が次にとった行動は、新宿警察の少年課に私を無理矢理連れて行くことだった。「バカじゃない?」と思った。その頃のディスコには、深夜に警察官がしょっちゅう手入れに来ていて、未成年のガキ達を数珠繋ぎで護送車に乗せ、補導していた。

私は要領が良く、キッチンのお兄ちゃん達に可愛がられていたので、手入れが入るとすぐにキッチンに隠れさせてもらった。そこでつまみ食いをしながら手入れの終わるのを待った。警察が帰るとディスコはまた明かりを消し、通常営業に戻った。

補導された子供を親が引き取りに行くというのは聞いたことがあるが、パクられてもいない子供を親が警察に連れて行く話は聞いた事がない。突然立川談志に子供を連れて来られた少年課の人も、さぞかし困ったと思う。

警察に父が何を相談したかはわからないが、門前払いしづらそうな父の話を聞き、私は取り調べ室のような部屋に呼ばれた。相手はどんな人だったか思い出せないが、「学校を辞めて何になりたいの?」と聞かれ、私は「おもちゃ屋さんです!」と、どうでもいい返事をしたのを覚えている。父はそれで少し気が晴れたのか、私と歩いて家に帰った。

次に『談志パパ怪獣』は、「新宿に住んでいるから子供がグレる!」と思いつき、以前から所有していた練馬の家へ急に引っ越した。まさに怪獣の様に乱暴に荷物を運び出してトラックに積み、私達家族を拉致した。弟は大切にしていたプラモデルがめちゃくちゃになって泣いていた。今でも申し訳ないと思う。

家から近いという理由を最優先して選んだ私たち姉弟の学校は遠くなり、母が愛していた伊勢丹も遠くなった。楽しい事はひとつもなかった。

引っ越しして1ヶ月ももたずに、私は新宿の家に戻った。家出みたいなものだった。間髪入れず母が「ゆみちゃん1人じゃ可哀想」と父に言って、弟も連れて新宿に戻って来た。この時、私のせいで両親は別居することになった。

『談志パパ怪獣』の健闘虚しく、私は夜遊びを続けた。歌舞伎町の喫茶店でアルバイトも始め、学校にはだんだん行かなくなっていた。父は「高校だけは卒業しろ! 学校を辞めるなら、やりたいことを言え!」と暑苦しく言っていたが、「パパみたいにやりたい事がみつかる人なんて、ひと握りなんだよ!」と言い返した。立川談志に、こんな口をきく人はいなかったと思う。

その後も父は、私の事を諦めなかった。

私はディスコでナンパされた18才の男の子と、初めてSEXをした。その彼はアフロヘアーの暴走族で、紫色のサバンナに乗っていた。2度目のエッチもまだしていない頃、急に彼が電話に出てくれなくなった。何か変だと思った私は男友達を呼び出して、公衆電話から彼に電話をしてもらい、電話口に呼び出してもらった。

彼が電話に出た。「なんで電話に出てくれないの!」と、私がまくし立てると「お前、何にも知らないの?」と言われた。「家に親父さんから頼まれた怖いオッさん達が来て、ゆみこと2度と会うな!と脅して帰った」そうだった。

それで私はキレた。父の事が嫌いになった。後日、その怖いオッさんからの電話にたまたま私が出たことがあり「余計なことしてんじゃねーよ!」と、怒鳴って切った。

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。