天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。
立川談志師匠の話に聞く耳をもたないゆみこ氏。そんな彼女に、師匠の我慢も限界に達する。父として葛藤する師匠の姿は、娘に届くのか?
* * *
こんなこともあった。新宿のサブナードで声をかけられ、当時未成年だったが18才だと嘘をついて銀座の高級クラブでバイトを始めた。入店2日目、私を本名で指名してきたお客様がいた。紀伊國屋書店の社長の田辺茂一先生だった。田辺先生は毎日銀座で飲んでいて、銀座界隈では超有名人だった。黒服はびっくりしていた。
父に頼まれてやってきたに違いない田辺先生は私を叱るでもなく、「一緒に踊ろう!」と言った。当時のクラブは中央に踊れるスペースがあり、そこで先生と私は楽しく踊った。踊りながら先生が、私の首にスカーフをかけてくれた。そして何も言わずに帰って行った。粋な方だった。その時のスカーフを今も大切に持っている。
先生が帰ると、すぐに黒服に呼ばれて2日分のバイト料をもらい「もう来ないでいいから」と、クビになった。『談志パパ怪獣』は、あの手この手で私の行動を阻止していた。父とは会わないようにしていたし、口もきかなくなっていた。再三「ちゃんと話を聞け!」と言われたが、無視していた。
そしてついに『談志パパ怪獣』から、最終通告が来た。「これが最後だ、ちゃんと話を聞きに来い!」。指定の場所は、ホテルニューオータニのレストラン「トレダーヴィックス」だった。父は指定の日に、弟を連れて私を待っていた。私は矢沢永吉の後楽園球場のコンサートに行って、父のことはすっぽかした。
数日後、新宿の家の布団でゴロゴロしていたら、父が急に帰って来た。いきなり私に馬乗りになって殴り出した。母は「ゆみちゃんが死んじゃうー! やめてー!」と泣き出し、私は「殺せー!」と叫び、父は「子供を殺す親がどこにいる!」と言いながら、それでも私をボコボコにした。布団には血が飛んだ。
『談志パパ怪獣』が静かになると、私はお風呂場の鏡に顔を見に行った。腫れあがった自分の顔を見て「この顔が元に戻らなかったら許さない!」と、悔しくて泣いた。
父は生涯「子供を叩くべきではない」と言っていた。父の方が何百倍も辛くて悲しかったのだと大人になって分かった。
『談志パパ怪獣』の健闘虚しく、私が更生することはなかった。高校を辞めてスタイリストの専門学校に入り、新宿のディスコは卒業して六本木で遊ぶようになっていた。
変わったのは、父の方だった。私を殴った後に「なんでこんなに腹が立つのか?」と考えた父は、「俺にそっくりなんだ!」と気がついたらしい。それからは私の事を叱らなくなった。『談志パパ怪獣』はいなくなった。
立川談志に戻った父は、親として不良娘に何か教えてやりたいと思ったのだろう。海外をめぐる仕事があったとき、「ギャラはいらないので、娘を連れて行かせてください」と先方にお願いをして、私を色々な国に連れて行った。
あるときはJALのお仕事で、飛行機はファーストクラスだった。父は娘に色々な経験をさせてあげようと思ったのだろう。だがガキの私にはそんな親心が伝わる筈もなく、父との旅はありがた迷惑だった。最初に行ったイギリス、ドイツ、ギリシャ、スペインでは、仕事の合間に私を博物館、美術館、ミュージカル、市場などに連れて行き、一生懸命説明をしてくれた。私は上の空で、いつもふてくされていた。父はムカついていた筈だが、もう怒らなかった。
エーゲ海で泳ぎ、なかなか沈まない夕陽を2人で見た。