天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。
談志師匠が旅先で買ってくるお土産に、少し辟易していたゆみこ氏。そんな中、師匠がパリで買ってきてくれたお土産にゆみこ氏は喜ぶのだが......?
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私と弟が子供だった頃、父は国内はもちろん海外へも仕事や旅行でよく出かけていた。私が5才、弟が2才くらいだっただろうか。酔っ払った父が私に男の子用の紺の半ズボンのスーツ、弟には女の子用の赤いワンピースを買って来た。
シャレで面白いと思ったのか、父への義理で母が着せたのかわからないが、姉弟でそれを着て仙台で撮った写真があった。いくら酔っていたとはいえ、なんだか笑える。
母はセンスの良い人で、若い頃からおしゃれだった。昭和40年代、まだ子供のブランド服などあまりなかった時代に、弟にはVAN mini、私には最新デザインの洋服、デニムもカッコいいものを探して買ってきてくれた。渋谷の西武デパートにコシノヒロコさんの子供服が売っていて、それも沢山買ってくれた。コシノヒロコさんのファッションショーに、藤村俊二さんの娘さんと手を繋いで出た事もある。
そんな頃、父は海外に行くとよく家族に洋服を買ってきた。母には山口百恵ちゃんがステージで着るようなジョーゼットのワンピース、私にはどこかヨーロッパのサスペンダー付き革の半ズボン。母はそのワンピースを「10万円もらっても着られない」といい、私は革の半ズボンで股ずれになった。そんなことはお構いなしに、父はセンスもコンセプトもない洋服をせっせと買い続けた。
父が旅から戻る日は、緊張感とウザさが入り交じっていた。スーツケースを開けると、ヘンテコな洋服と共に訳のわからない食品や調味料、飛行機の救命胴衣が入っていたこともあって、いつも「ゲゲッ」という感じだった。父が帰って来て嬉しかった事はほとんどなかった。父は『男はつらいよ』をそんなに好きではなかったが、私達は父のことを「うちの寅さん」と陰で呼んでいた。
伊勢丹デパートが大好きだった母と洋服を見たり買ったりするのが私は好きだった。弟は何時間でもおもちゃ売り場にいた。その時、マジック道具の実演販売をしていたMr.マリックさんに可愛いがって頂き、今でも仲良くさせていただいている。
昭和50年代、私が十代になると、「JJ」ブームがやってきて、ガキのくせにブランド物を持つことが流行りだした。母は流行に敏感で子供に甘かった為、私にグッチやサンローラン、クレージュ、バレンチノなどのバックや洋服を買ってくれた。私はそれらを身につけて夜な夜なディスコに通っていた。
ある時、父がフランスへ行く事になった。私はどうしてもルイ・ヴィトンのバッグが欲しかった。駄目だと思ったが「パパ、パリでルイ・ヴィトンを買って来てください」とお願いした。こんなバッグだとか財布だとか言っても父には判るわけがないので、とにかくルイ・ヴィトンが欲しいという事だけを伝えた。
父がパリから帰って来ると、スーツケースの中にルイ・ヴィトンの紙袋を発見した。その中には折りたたまれた小ぶりのボストンバッグが入っていた。「パパ、ありがとう!」生まれて初めて父のお土産に感謝した。
取り出してみると、思っていたよりも取手の革がやたらと白っぽい。私は思わず「パパ、これ偽物じゃないの?」と言ってしまった。振り向いた父は「パリのルイ・ヴィトンの本店で買ったバッグが偽物だと言うのなら、この世にルイ・ヴィトンは存在しない!」と怒鳴った。
後で聞いた話だが「娘が欲しがっているもので......」とパリ在住の方に頼んでお店に案内してもらったそうだ。立川談志が人生で一度だけブランド物を買った話である。そのルイ・ヴィトンは間違いなく本物で、取手の革は今ではキャメル色になっている。