10年以上ぶりに編集部を訪れた内田さん。「場所は変わったけど、この資料とかが散らばった編集部の雰囲気は昔のままじゃん(笑)」。当時の同僚たちも多く在籍しており、懐かしトークを展開した

今年3月、第44回日本アカデミー賞で最優秀作品賞、最優秀主演男優賞を獲得した映画『ミッドナイトスワン』。実はこの作品で監督、脚本を担当した内田英治(うちだ・えいじ)さんは元週プレのスタッフとして活躍したお方。そんな内田さんに週プレ時代のお話から映画の製作を始めたきっかけなどを本人直撃です!

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■週プレ時代の思い出トーーク!

日本アカデミー賞受賞作品『ミッドナイトスワン』といった劇場公開作品から、地上波や衛星放送のドラマ、さらにはネットフリックス配信作品の『全裸監督(シーズン1)』まで! メディアを選ばず話題作を量産する男、内田英治監督。

実はこの方、2004年に初監督作品となる『ガチャポン』を発表するまで、約10年余り本誌・週刊プレイボーイの記者として活躍。日々、誌面制作を行なっていたのだ。そんな内田さんがなぜ、映画監督になれたのか? それも日本アカデミー賞を受賞するレベルの監督に!

週刊プレイボーイ記者時代の"楽屋ネタ"込みで、本人に語っていただきますっ!

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――本誌で記者をやっていた時代は、どんなページを制作していたんですか?

内田 基本1~3ページぐらいの、旬のアイドルや女優さんのインタビューが多かった。当時よくインタビューしていた女のコのなかには、現在は大女優さんになった人もいっぱいいるよ。

――それだと、映画出演のオファーがしやすいですね!

内田 いやー。日本アカデミー賞のイベントで隣にいた長澤まさみさんに「昔、週プレで何度もインタビューしたんですよっ!」って話しかけたら、「え、え!?」な微妙な感じだったから(笑)。

――本当に微妙じゃん! では、記者時代にこだわっていた部分なんかは?

内田 こだわったというか、大変だったのが企画のタイトル決め。これを決定するのに最低5時間(笑)。何度も突き返される。いい意味でこだわりがあった。

――そんなタイトル問答を10年間やっていた内田さんが、今回のインタビュー記事にタイトルをつけるとしたら?

内田 【ミッドナイトスワン、興収8億円突破!】。これだけ、デカく載ってればなんでもいいよ(笑)。

――雑かよ! ところで記者時代に大失敗した案件は?

内田 初めて自分で担当したのが湘南のサーファーとサーフショップの記事。で、編集部に戻って上司に写真を見せたら、「なんでおまえがサーフィンを体験してないんだ!」とめちゃくちゃ怒られて、取材も撮影も全部やり直し。

まー、週プレ編集部は厳しかったですよ。タイトル決定もだし、取材方針、原稿のクオリティ管理とか、週プレが一番厳しいよ。こーいうの、今も変わってないでしょ。この雑多な編集部の雰囲気とか、まんま昔と一緒だし(笑)。

編集部にて、内田さんが新人記者時代に手がけた約四半世紀前の記事を発見。当時はこれら記事のタイトルを決定するのに5時間。鬼軍曹的な編集者に詰められつつ、その合間に映画の脚本を制作していたという。懐かしさのあまり即撮影

――その厳しさを、ほかの仕事で実感したことは?

内田 たまにほかの雑誌で仕事すると、タイトルとか原稿のやり直しがまったくない。担当さんからも「内田くんの原稿は手直しなくて入稿楽だわー」って、週プレとは逆にホメられてたから。

企画会議から始まって取材のアポ取り、取材から原稿書き。場合によっては写真も自分で撮る。週プレだと全部自分でやるのが基本だったから、どこの媒体でも重宝されたんじゃないかな。

――もっと週プレをホメ殺してほしいとこですが、ここで話題を変更。ところで内田さんって出版業界以前はどんなお仕事を?

内田 バラエティ番組のADやってた。当時、テリー伊藤さんが仕切っていたIVSって制作会社なんだけど。

――なんでまたADを? それも、IVSっていったらバラエティ番組の超・名・門!

内田 もともと北野 武監督を尊敬してて、映画の仕事がやりたかった。それで当時『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』とか、たけしさん関連の番組を見てるとエンドロールに「企画・制作‥IVS」って出てくる。「あ、IVSに入れば北野映画に参加できるじゃん!」って。

――それ、絶対に北野映画へは参加できないフラグかと!

内田 うん。気づいたら元気が出るテレビの収録でテロップ出してた(笑)。でも当時は、「いつになったら北野組で助監督できるのかなぁー」とぼんやり思ってた。

――あと当時のテレビ業界といえば怒号よりも拳の発言力が強い、圧倒的ブラック業界なイメージが......。

内田 パワハラっていうか、労働の基本が週4日徹夜、20人入社して1ヵ月後に残るのはふたりという業界。体力的には25歳以下じゃないとできない仕事だね。でも当時のテレビ業界って元ヤンキーとか元暴走族とかばっかりで、異様な熱気があった。

現場の偉い人はすぐ銀座へ飲みに行っちゃうから、あとは20代前半の若い連中がやりたいことやってるという感じ。むちゃな企画を考えて、即ロケを組んで視聴率もちゃんと取る。「ヘビメタ断髪式」やるために金髪ロン毛をいっぱいそろえたり、「ダンス甲子園」やったり、完全なバラエティ班仕事を楽しんでた。お給料も良かったしね。この時期の先輩や同期は、今ではみんなバラエティ界の重鎮だよ。

――で、映画業界や北野組には近づけたんですか?

内田 全然。テリーさんがドラマをやることになって、そこでADやらしてもらったぐらい。「ここにいたら完全にテレビマンだな」と思って辞めちゃった。おれ、映画が一番興味のあることだったから。

――なんで映画だったんですか?

内田 子供時代の最大の娯楽が映画だったから。おれ、おやじがアメリカの通信会社の南米担当で、小学校高学年ぐらいまでずっとブラジル在住だったのね。でも日本語覚えなきゃダメだって、大分のおばあちゃんちにおれだけ預けられて。

それで大分の小学校に編入したら、ハードなイジメが待ってたわけ。ずっとポルトガル語が基本で日本語がなまってたから、あだ名は「コーヒー」と「ブタ汁」。『キャプテン翼』がブレイクする前だったから、田舎におけるブラジルのイメージってコーヒーだけなんだよ(笑)。

あと日本の環境にもなじめなかった。めちゃめちゃ開放的なブラジルから日本の田舎に引っ越したから、朝礼でやる"前へ倣え!"ですら違和感しかない。ブラジル時代におやじとよく見た映画の『戦場にかける橋』の、「捕虜収容所か!」ってなるじゃん。もうね、イジメだけじゃなくガラっと変わった環境にもなじめなくて、映画館に現実逃避するしかなかったんだよ。

――そのハードな時代は、どんな映画を見てたんですか?

内田 一番初めに印象に残ったのは、貧しい寒村が舞台の『楢山節考(ならやまぶしこう)』。あと『ランボー』とか。まー、ランボーなんかは孤独や差別と戦ってて、「おれの戦争はまだ終わっちゃいない!」というセリフと自分の環境がリンクしたよね。

当時は『E.T.』とかSFファンタジー系が人気だったけど「夢とか希望とか、うそじゃん!」と全否定。だって、たまに地球の裏側にいるおやじから送られてくる手紙は、大豪邸で楽しそうにやってる写真がいっぱいだったし。自分がおじさんになってやっと「『E.T.』いいな。夢と希望もいいな♪」って思えるようになった(笑)

■抜群の突破力で念願の映画監督に!

普段はメガネを標準装備する内田さん。メガネを外すと......。これ、ハリウッドザコシショウさんじゃん! ちなみに、おふたりとも同じ事務所に所属なので、コラボ企画を、ぜひ!!

――そんな映画愛ある内田さんですが、テレビマンを辞めた後は週プレ編集部に在籍。これ、"目標! 映画監督"から遠のいてるじゃん! そもそも、週プレ編集部に入るきっかけはなんだったんですか?

内田 実は週プレ入る前に「シナリオスクール」みたいなところに入ったんだけど、そこは1日で退学。だって、映画のシナリオ作りたいのに「まずはアニメのシナリオから!」って言うから話が違うじゃん。そんなとき、たまたま週プレの副編集長と知り合って「おまえ、シナリオ書けるなら、原稿も書けるだろ」って。今思うと雑だよね(笑)。

でも、初めて編集部行ったときに「おまえ、その格好はどーいうことだ!」っていきなり怒られた。テレビマン時代はビーサンに短パンが当たり前だったから、これには驚いた。あ、ここは普通の職場なんだと。そこまで雑じゃなかった。

――でも、週プレではアイドルや女優さんインタビューが多かったんですよね。

内田 映画関係者のインタビューも担当させてもらえた。一度、おれ的には興味なかったんだけど、一番人気だったアイドルのインタビュー企画を出したら、「自分が興味ないのに、企画出すな!」ってすんごい怒られて......。

ヤケになって「篠田 昇インタビュー」って企画出したら、それが通った。篠田さんは映画業界的には超有名な撮影監督だけど、一般的には誰も知らないおじさん。でも、おれは篠田さんを尊敬してて、その思いを企画書に書いたら、「それでいいんだ!」って企画を通してくれた。なんかテレビ業界と同じ熱気を感じたよ。

当時は映画関係者がメディアに出るのって専門誌ぐらいで、取材しただけで「おまえ、映画好きなのかー!」って喜んでくれた。それどころか「だったら岩井俊二も取材するか!」って次々と紹介してくれる。テレビマン時代より映画関係者に接する機会があったのが週プレだった。

あと、今の映画仕事でかなり生かされてる技術を習得できたのは週プレの水着撮影。

――ウソでしょ?

内田 当時の新人記者は夏になると「ビキニ美人200人」とかって企画で海に取材へ行く。でもさ、「週プレです。水着姿、撮影させてください」とお願いしても、「エロ本、無理!」って断られる。そこで「ノンノと少年ジャンプの集英社の週プレです!」と週プレ以外の安心できる付加価値を入れつつ、しっかり撮影オッケーもらってた。

――それ、ギリギリじゃん!

内田 でも、こうやって本命と「○○と△△」という付加価値を組み合わせることでオッケーになるじゃん。これ映画でも一緒で「○○と△△なんで大丈夫です!」と企画書段階でスポンサーを口説くテクに応用できた。おれ、企画書を書くのうまいから、ほかの監督から企画書作りだけを頼まれることもあるよ(笑)。

――で、週プレ在籍中に脚本家デビューしたんですよね。

内田 先輩記者から「脚本家を探してる」って聞いて、そのツテをたどったら福澤克雄さん(ドラマ『下町ロケット』や『半沢直樹』の演出を担当)というTBSの監督にたどり着いた。

知り合いの知り合いとかですごい遠かったけど、すっごい大物だった。そこで、「キミ、記者やって脚本も書いてて、おもしろいね」って『教習所物語』(1999年)というドラマで脚本をやらせてもらった。

――かなりの強突破力!

内田 テレビや週プレで、アポ取りを何度もやったから楽勝。今でも週プレ時代の"全部自分でやる!"というのが染みついてる。そーいえば、週プレ時代に某マンガ誌で脚本賞も獲(と)ったけど、"身内"って理由でナシになった(笑)。

――そして2004年。内田さんが監督・脚本を担当した映画『ガチャポン』で念願の映画監督デビュー。これは順調すぎ!

内田 でも、金なかったよー。まず愛車を売ったし。"映画は金にならない!"というのを実感した。

――そうなの?

内田 この業界は、「映画の脚本を書かせてあげるけど、ギャラはナシ」という"やる気搾取"的なことがまだまだ残っている。それって海外に比べたら異様な環境だよ。

だから『ミッドナイトスワン』みたいに原案・原作オリジナルで日本アカデミー賞を獲って興行収入8億円を達成したのは業界的に意味あることかなと思う。このやり方は続けていきたい。今、ほとんどのヒット作は"原作アリ"が日本の映画業界だから。

――仮に実写版『鬼滅の刃』の監督オファーがきたら?

内田 ぜひ! 全力で撮らしていただきます!!

――手首がへし折れるレベルの手のひら返し!

内田 だって、それ一生食えるやつでしょ(笑)。

――内田さん、鬼滅だけでなく週プレのDVDの監督もやってください。ギャラは格安でお願いします!

●『ミッドナイトスワン』 
内田さんが監督、脚本を手がけた日本アカデミー賞受賞作品『ミッドナイトスワン』。草彅 剛さん演じるトランスジェンダーの主人公と、そのめいっ子の交流を中心に展開する人間ドラマ。公開中の劇場情報、Amazonプライム・ビデオでの先行レンタル配信情報はTwitterの「映画『ミッドナイトスワン』【公式】」【@M_Swan_Film0925】から!

●内田英治(うちだ・えいじ) 
映画監督。ブラジル・リオデジャネイロ出身。1999年にドラマ『教習所物語』(TBS)に脚本家として参加。2004年に『ガチャポン』で初映画監督。近年は劇場公開作品やテレビドラマだけでなく、『全裸監督(シーズン1)』『湘南純愛組!』など配信作品も多く手がけている。

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