氷室京介、布袋寅泰、松井恒松、高橋まことによる「BOØWY」が、今年で結成40周年を迎える。そこで高橋まことさんに、当時の知られざるエピソード、解散の真相までBOØWYのすべてを語り尽くしてもらった。"夢を見ているヤツら"のための再結成はあるのか?
■「声がデカいから採用されたんだよ」
――BOØWY(ボウイ)結成40周年おめでとうございます!
高橋まこと(以下、高橋) ずいぶんたっちまったなぁ。40年たっても忘れ去られていないバンドにいたっていうのは光栄なことだよね。今日こうやってインタビューを受けさせてもらってるのも、メンバーたちのおかげよ。感謝の気持ちしかない。ただな、アイツら、BOØWY当時のことをあんまり覚えてねえんだよ。俺だけが覚えてんの。語り部だよ、俺は(笑)。
――バンドは1981年、氷室京介(ボーカル)、布袋寅泰(ギター)、松井恒松(現・常松、ベース)らによって結成されました。まことさんは後から加入されましたよね。
高橋 実は、加入前に客として接触してんのよ。知人のミュージシャンに誘われて新宿ロフト(*)に行ってみたら、ヤツらがステージに上がっていた。最初の印象は......おっかなかったねぇ。
当時はバンド名が漢字の「暴威」で、氷室は髪の毛が真っ青で目つきが鋭く、「座ってんじゃねえ!」と客を煽(あお)っている。布袋は背が190㎝もあるから、妙な威圧感がある。ただ演奏が始まると、荒々しいけど勢いがあってカッコよかった。
*当時東京・西新宿にあったライブハウス。1999年、歌舞伎町に移転
――加入の経緯は?
高橋 話を聞いたら、新しいドラマーを探しているらしかった。それで「何かあったらよろしく」と、電話番号を交換してその日は終わって。それから数日たったある日、家でボーッとしてたら氷室から電話が来て、「スタジオに遊びに来ませんか?」と。実質的なオーディションだよな。
俺はすぐさまスタジオに向かったよ。メンバーと合流して、試しに『IMAGE DOWN』(1stアルバム『MORAL』収録曲)を演奏してみることになって。俺はナメられちゃいけねぇと思って、ばかデカい声で「ワン、ツー、スリー、フォー!!」ってカウントを取った。
後から松井に「声がデカすぎ」って笑われたよ。どうやら俺の前にも何人かのドラマーをオーディションしていたけど、どいつもこいつも覇気がなかったらしい。俺は声がデカいから採用されたんだよ(笑)。
――当時、まことさんはすでにプロでのキャリアがあり、レコーディングの経験もありました。7、8歳も年下だった氷室さんや布袋さんたちに惹(ひ)かれた理由は?
高橋 実はその頃、STRAIGHTってバンドに所属していて。後にREBECCAやRED WARRIORS(ダイアモンド✡ユカイが在籍)を結成するギタリスト、木暮"shake"武彦のバンドだよ。
でも、STRAIGHTはアマチュア気分の抜けないバンドでね。それと比べると、「暴威」からは音楽業界でのし上がってやる、というような気迫を感じた。そこにピーンときちゃったんだよ。
当時は今みたいにバンドをかけ持ちする時代じゃなかったから、STRAIGHTのメンバーたちに脱退を伝えた。そのときの俺には「暴威」しか見えなかった。
■極貧生活から武道館へ
――その後、バンドはBOØWYと改名。1stアルバム『MORAL』、2nd『INSTANT LOVE』をリリースすることになります。
高橋 みんな勘違いしてるんだけど、この時代のBOØWYって全然売れてねえんだわ。俺はマネキン運びの仕事をしていて、松井もゲーセンでバイトしてて。でも氷室と布袋は仕事をしていなくてカネがなく、いつも腹をすかせてた。だから牛丼をおごったりもしてたよ。
ところが、それが普通になってきて、みんなが俺の財布を当てにし始めやがった。ツアー中なんかひどいもので、布袋が「まこっちゃん、飲みに行こうよ~」って、俺におごらせる気満々。でも、そんなことしてたら東京まで戻るガソリン代がなくなる。だから、いっつも靴底に数万円を隠してカネがないフリしてたよ(笑)。
――当時の伝説のひとつに、「ギャラが野菜だった事件」がありますが。
高橋 それ本当だよ。新宿ロフトの担当から「佐賀で3万人集まるイベントがある」って言われて行ってみたら、ただの村祭りでさ(笑)。でも、ちゃんと1時間以上ライブはやったよ。で、帰る前にギャラをもらいに行ったら、なぜかレタスだのナスだのキュウリだのを渡されて。
野菜はありがたいけど、これじゃ東京に帰れないと言ったら、今度は焼酎の「さつま白波」が出てきた。どうもイベントの主催がヤリ手で、これで済ませられないかと思ったらしい(笑)。最終的にはちゃんとギャラをもらったよ。野菜は東京に着いたときにはもう腐ってたね。
――その後、バンドは徐々にブレイクしていきますが、きっかけはなんだったんでしょうか?
高橋 1984年くらいかな? 新宿ロフトのライブに300人以上集まるようになって。毎回酸欠状態でたばこの火もつかないんだよ。その後、もう少し規模の大きい渋谷ライブインって箱でやり始めて、800人くらい入るようになった。そのタイミングで新しい事務所からオファーが来てさ。
そのとき氷室が言ったセリフが印象的でね。「もう一度、大人にダマされてみるか」って。アイツは一度、東京の音楽事務所に入って、自分が思うような活動ができなかったことがある。だからそんなことを言ったんだろう。
――事務所の契約と同時に、レコード会社を移籍。翌1985年には3rdアルバム『BOØWY』を発売。渋谷公会堂で初のホールワンマン公演も行なうことになります。
高橋 給料がもらえるようになり、箱もどんどん大きくなっていった。当時でいえば、自分が作詞で参加しているシングル『BAD FEELING』を思い出すな。ある日、氷室から「うちに来て一緒に歌詞書かない?」って誘われて、ふたりでコタツに入りながら、ああでもないこうでもないって悩んでできたのがアレだった。
氷室はけっこうストイックで、酒も飲まないし、打ち上げも飯を食ったら帰っちゃう。こうやって部屋にこもって音楽を作ってることが多いんだろうな、って思ったね。
――そして1986年には4thアルバム『JUST A HERO』をリリース、初の日本武道館公演を行なうことになります。
高橋 単純にうれしかったよ。自分たちのワンマンだったし。このとき、氷室がライブ中に「ライブハウス武道館へようこそ!」って言ってさ。聞いたときは「おまえ、何言ってんの?」って思ったけど(笑)。「ライブハウス出身の俺らが、ついにここまで来たぞ」っていうのをヤツなりの言葉で言いたかったんだろうね。
■最後のライブは新聞で知った
――1986年には5thアルバム『BEAT EMOTION』がオリコン初登場1位を獲得。バンドは頂点に上り詰めます。このとき、すでに解散を考えていたという説がありますが。
高橋 12月16日の長野市民会館でのライブの後、布袋が「マネジャー抜きで話したい」って言うんで、メンバー全員ホテルのラウンジに。そこで布袋が「売れたら辞めよう」と言い出した。売れたら解散するってのは、結成当初から冗談みたいに漠然と語っていたことだったが、『BEAT EMOTION』が1位になったので、そろそろ真剣に考える時期が来たんじゃないかという話だった。
俺にしてみりゃ、「ちょっと待て。話はわかるが、ここまで来たからにはもう少しやろうぜ」って気持ちだったけど、布袋は「バンドとしてこれ以上、何をすればいいんだ?」と考えていたのかもしれない。
――布袋さんはBOØWYの初期から、さまざまなミュージシャンとコラボしてました。この時期には山下久美子さん、鈴木雅之さん、吉川晃司さんらの楽曲に参加。サウンドプロデューサーとして頭角を現しつつありましたよね。
高橋 アニメ『風の谷のナウシカ』の王蟲(オーム)の鳴き声も、あいつがギターで作ったくらいだしな(笑)。当時の布袋はバンドの枠を超えるほど、創作意欲があふれ出していたんだと思う。
一方、氷室はバンドのリーダーとしてバンドを率いる重責を担っていた。BOØWYは自分たちもコントロールできないほど、大きなバンドになっていたんだよ。メンバーそれぞれのバンドに対する距離感が異なってきていた。バンドってのは、全員の気持ちがひとつにならないとやっていられない。
――翌年には6thシングル『MARIONETTE』、最後のアルバム『PSYCHOPATH』がリリースされ、共にオリコン初登場1位を記録します。
高橋 でもレコーディング中にメンバーと「これで最後だ」なんて話は一切していない。誰もそれを言い出さないし、俺も確認しなかった。ただ、音を聴けばわかるんだよな。このアルバムはデジタルの打ち込みも使っていない、4人にしか作れない生身のバンドサウンドになっている。最後だからこその素の姿かもな。
――そして運命の日が訪れます。1987年12月24日の渋谷公会堂でのライブ中に、氷室さんが「6年間、BOØWYをやってきた」「日本で一番カッコいいバンドだった」と過去形で語り、実質的な解散宣言を行ないました。
高橋 俺はDe-LAXっていうバンドへの加入も決まっていたし、そのままメンバーもそれぞれの道に進めばいいと思ってた。ところがライブの翌日、新聞を見たらBOØWYのラストメッセージが掲載されていて、そこに「最後のGIGS(イベント)は、必ず来年プレゼントします。」って書いてある。「おいおい、マジか。解散したんじゃないの?」って思ったね(笑)。
たぶん、大人の事情で、事務所もここで終わるわけにはいかない、となったんだろうな。散々世話になってきたし、いっちょやってやるか、という感じだった。
――翌1988年4月4日、5日、東京ドームで「LAST GIGS」が開催されることになります。
高橋 3月にスタジオでリハーサルをやったんだけど、氷室、布袋、松井と会うのは3ヵ月ぶり。「よう、元気?」って、久々に会う友達みたいな感覚だった。で、音合わせで『IMAGE DOWN』をやってみようってなった。そしたら、松井が「キーなんだっけ......?」って言い出して。弾く音を忘れたらしい(笑)。
その瞬間、氷室が不機嫌そうな顔をして、「松井、ちゃんと覚えてこいよ......。今日はこれでおしまい!」って。結局、その日は一回も音出さずに終わっちゃってさ。さすがに松井も反省したのか、2日目からは大丈夫だったけどな(笑)。
――「LAST GIGS」は予約の電話で電話回線がパンク、計10万人を動員するなどの現象を生みました。メンバーとしてはどんなステージでした?
高橋 初日の4月4日、氷室と布袋はモニターの音があまり聞こえていなかった。で、ライブが終わった後、メンバー&スタッフ全員で緊急ミーティング。「どうやったら音が聞こえるようになるか?」「モニターを上げろ!」とかずっとテストして。みんな必死よ。
それを見ながら思ったね。「明日、終わるバンドなのに、みんなまじめだな」って(笑)。俺らメンバーもスタッフも音楽に関しては譲れなかった。おかげで4月5日は無事、最高のステージができたよ。
■再結成に関しては全然ウエルカム
――こうしてバンドの幕は下りたわけですが、その後、何度か再結成の噂が流れました。
高橋 確かベストアルバム『THIS BOØWY』(1998年)が200万枚くらい売れて、映像版『LAST GIGS』、解散宣言ライブの映像『1224』(共に2001年)が出たあたりだったんじゃないか?
俺も知り合いから再結成の噂があるって話が伝わってきて。俺は全然ウエルカムなんだけど、結局、何もなかった。たぶんマネジメントが動いてたんじゃないかな? 細かいことはよく知らねえけど。
――2011年の東日本大震災のときは? 氷室さんが同年6月11日、12日の東京ドーム公演を、急きょ被災地支援のため全編BOØWYの楽曲のみのチャリティライブを実施しています。
高橋 当初は氷室のアニバーサリーライブの予定だったんだよ。それを突然、全曲BOØWYに切り替えるっていうのは相当な苦労だったと思う。さすがだなと思ったよ。
もしかしたら俺のところに「叩け!」って連絡あるかもしれないと思ってたけど、それはなかった。まぁ、その日俺は別のライブがあったしね。俺の地元は福島だから氷室を素直に応援したいと思った。
――このとき布袋さん、松井さんは氷室さんと一緒にやりたがっていたという話が伝わっていますが。
高橋 それぞれの思いはあって当然だよ。でも解散の話をしたときと同じで、メンバー全員が同じ気持ちで同じ方向を向いていなきゃBOØWYはできない。そもそも震災の復興が目的ならば、それぞれの活動の範囲のなかでできるし。実際、俺は今も復興支援のライブを続けているし、布袋にも出てもらったことがあるよ。
――その後も、まことさんを軸にメンバーの交流は続いていますよね。
高橋 そうだね。氷室とは、2014年のツアー中に会った。ちょうどヤツがライブ活動から卒業すると発表したツアーの途中で表敬訪問したんだ。ライブ終了後、楽屋に行ったら「まこっちゃん、久しぶり!」って。久々に話して盛り上がったな。
布袋とは、2019年の彼のアルバム『GUITARYTHM Ⅵ』に松井と一緒に参加した。3人でスタジオに入るのは『LAST GIGS』以来31年ぶりだった。アルバムのツアーにも松井と一緒に出たよ。
――そういうつながりを考えると、全員をまとめてBOØWYを再始動させられるのは、まことさん以外いないのでは?と思ってしまいますが......。
高橋 ばか言ってんじゃねえよ(笑)。俺がどうのこうの言う話じゃないって。個人的な話をすれば、俺は再結成に関しては「やるなら、いつでもやるぜ」っていうスタンスだけどな。
ただ、俺は今年で67歳。そろそろ隠居の年代だよ。BOØWY時代、「売れたら辞めよう」って話をしてたとき、一応、メンバーにはこう伝えてあるんだけどな。「俺がドラム叩けなくなる前に再結成してくれよ」って。アイツら、覚えてねえだろうなぁ(笑)。
●高橋まこと(Makoto TAKAHASHI)
1954年生まれ、福島県福島市出身。1970年代からロックシーンで活躍。BOØWYのドラムスとして一世を風靡。現在は福島復興支援チャリティライブのほか、ライブハウス支援のためのバンド「Let's Go MAKOTOO'S」を結成。「矢口早苗 DARK SIDE OF THE MOON」などのバンドにも参加。67歳にして現役
■BOØWY
氷室京介(Vo)、高橋まこと(Ds)、松井恒松(現・常松、B)、布袋寅泰(G)。ロックバンドのマーケットが開拓されていなかった日本にバンドブームを打ち立てたBOØWY。シングル、アルバム等の出荷枚数は累計1500万枚を超えている(2019年、ユニバーサル・ミュージック・ジャパン調べ)