『週刊少年ジャンプ』誌上で2020年31号から連載されている宮崎周平のギャグ漫画『僕とロボコ』が今、密かに人気を集めている。今の時代のお笑いシーンに通じる「人を傷つけない笑い」を主軸にしつつも、他の同誌連載作など様々な有名作品のパロディをやりたい放題という漫画だ。実際に、『99人の壁』(フジテレビ系)にて、ケンドーコバヤシの大好きな漫画として紹介されたり、『呪術廻線』とコラボした動画は300万再生を越える状況になっている。
不思議な魅力にあふれるこの作品は、作者・宮崎周平氏がなんとデビュー8年目にしてようやくつかんだ初の本誌連載作だというから驚きだ。
7月で連載1周年を迎える同作、これを記念して7月12日(月)発売の『週刊少年ジャンプ 32号』では、センターカラーを飾る。
そんな作品の完成に至るまでにはどんなドラマがあったのか、作者の宮崎周平氏に独占ロングインタビューを敢行。過去から今、さらには今後の同作品にかける思いまで余すところなく聞いてみた!
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――今回は連載一周年記念インタビューということでお話を伺いたいんですが、実は漫画家デビューはかなり早い時期にされてるんですよね。
宮崎周平先生(以下、宮崎) はい。2012年下期の赤塚賞で佳作をいただきまして、その受賞作『むこうみず君』という作品が『週刊少年ジャンプ』に掲載されたのが13年初めの頃でした。
――それを考えると、『僕とロボコ』が開始されたのが昨年の夏、しかもこれが宮崎先生にとっては初の本誌連載作ということですから、かなりご苦労を重ねて獲得された連載だったんですね。
宮崎 相当時間かかっちゃいましたけど、ようやくたどり着けましたね(笑)。
――まずは、ここまでの道のりからお伺いしたいんですが、そもそも漫画はいつ頃から描き始められたんですか?
宮崎 赤塚賞に応募するまで、漫画は大好きでしたけど自分で描いたことは一度もなくて。初めて描いてみた作品が、赤塚賞で佳作をいただいた『むこうみず君』という作品でした。
――え、初めて描いた漫画で!? そもそもは、なぜ漫画を描いて赤塚賞に応募しようと思われたんですか?
宮崎 それまでは普通の会社に勤めてたんです。でも辞めてしまいまして、これから何しようかと思った時に、せっかくだから本当に自分の好きなことやってみようと思って。それで自分の趣味を考えたら釣りと漫画だったんで、じゃあ、まずは漫画に挑戦してみようと思ったのが最初です。
――ちなみに、どんな漫画がお好きだったんですか?
宮崎 兄がいたんですよ。その影響で小3くらいから『DRAGON BALL』にガッツリハマッて。他にも『SLUM DANK』とか『幽☆遊☆白書』とか。
――当時の『ジャンプ』作品ですね。確かに、『僕とロボコ』にも大量のパロディが出てきますもんね。ギャグ漫画の分野だとどんな作品がお好きでした?
宮崎 時代的には、さかのぼるんですけど、いとこの家にコミックスがあった『ついでにとんちんかん』(著:えんどコイチ)とか『燃える! お兄さん』(著:佐藤正)とか。それに徳弘正也先生の『ジャングルの王者ターちゃん♡』。めちゃめちゃ面白かった、これが一番好きだったかもしれないですね。
――聞けば聞くほど、完璧なエリート『ジャンプ』っ子ですね。
宮崎 でも『ジャンプ』に限らず『マガジン』や『サンデー』の作品も読んでましたよ。『はじめの一歩』(講談社 著:森川ジョージ)とか『今日から俺は!!』(小学館 著:西森博之)とか『俺たちのフィールド』(小学館 著:村枝賢一)とか。特に青山剛昌先生が『名探偵コナン』の前に描いていらっしゃった『YAIBA』(小学館)なんて、自分で最初に買った単行本だったくらい大好きでした。掲載誌に関係なく少年誌系の作品は全般好きでしたね。
――そのまま"漫画好き"の大人になったわけですね。応募の話に戻しましょう。全くの素人からということは、漫画の描き方を調べるところから始められた?
宮崎 そうですね。ネットで調べて画材をそろえて、実際に描き始めました。でも途中までセリフもペンで書いてたんです。そしたら、「セリフは鉛筆で書く」って説明を後からネットで見つけて。半分くらいまでできてたんですけど、全部捨てて、また最初から同じものを描き直したり。
――修正液で、セリフだけ消せばよかったんじゃ?
宮崎 そうですよね。でも、なんかテンパっちゃって、全ボツにしてイチから描きなおしたんですよね。そうやって四苦八苦しながらなんとか作った原稿でした。
――それくらい何もわからないまま描いた1作目で見事、赤塚賞の佳作を受賞。快挙と言っていい成果だと思います。第一報を受けた時はどんな気持ちでした?
宮崎 もちろん嬉しかったですけど、やっぱり驚きのほうが大きかったですよね。そんな感じでしたから、割とダメ元だったところもあって。ダメなら、さっさと別のことしようと半分思ってたほどなので。
――もしそこで賞を獲れてなかったら、漫画家の道自体も早々にあきらめていた?
宮崎 多分、あきらめてたでしょうね。当時は会社を辞めたばかりで、早く新しい道を見つけたくて仕方なかった時期で。ダメなら、その足でどこか地方の山にでも行って、もうひとつの趣味だった釣りでもしながらできる仕事を探してたんじゃないかと思います。
――何がなんでも漫画家に、というよりは、好きに生きられる方法を探してた?
宮崎 実質、そこが一番大きかったですね。それまで、あまりにも不自由な仕事を何年も続けてて、情熱は持てないし、そんな状態で会社にいること自体、周りの人にも申し訳ないような気がしてきて。それで限界が来て辞めた感じでしたので。
――ちなみに、それ以前の会社員時代はどんなお仕事をされていたんですか?
宮崎 建築関係の会社で、図面を引いたりしてました。
――じゃあ、多少は絵に関わるお仕事ではあったんですね。
宮崎 いや、でもほぼ関係ないと思います。少なくとも絵心は皆無でしたね。そこは、受賞作をひと目見ていただければ誰でもわかるくらいのレベルで......。
それでもやるからにはダメ元なりに受賞を狙いたいとは本気で思ってて、その応募には自分なりに全力を尽くして懸けていたところも確かにあったんです。だからこそ、驚きだけじゃなくて、嬉しさもものすごくあったんだと思います。
――懸けていた、というのは?
宮崎 ただの自己満足にならないように、妙に現実的なことも考えながらやってました。まず、どうせ一発勝負をかけるなら応募先は当然、『ジャンプ』が主催するストーリー漫画部門の手塚賞か、ギャグマンガ部門の赤塚賞のどちらかだろうと。
でも同時に思ったのは、この絵で手塚賞はどう考えてもありえないぞと(笑)。赤塚賞なら、もしかしたらこの絵でもアリかもしれない、と。それで自然と赤塚賞に狙いを絞りました。
――では、今に続くギャグ漫画家への道もそこで決まった?
宮崎 そうですね。描く立場になることを考えたら、ギャグに行く以外に選択肢がなかったというのが現実的なところです。
――そうして見事に賞を獲得されて、その先はどうなったんでしょう?
宮崎 最初は、驚くほど順風満帆だったんですよ。受賞作の『むこうみず君』がまず掲載されて、次も読切として『むこうみず君』の2本目を描いたところで、たまたま連載作が緊急休載になって、代わりの原稿(代原)として、すぐ本誌掲載してもらえることになりました。
――ある意味、ラッキーですね。
宮崎 そんなことがあったもんですから「もしかしたら、とりあえず代原狙いでも読切をたくさん描いておけば、掲載のチャンスがもらえるんじゃないか?」と担当とも話して、新たに描いた別の2作がやっぱり同じような理由で掲載してもらえて。結果だけ見ると、すごいことに人生で描いた最初の4作連続で全部『ジャンプ』本誌に載ったんです!
――恐ろしい強運!
宮崎 しかもその頃に、冨樫義博先生の担当さんから「この新人さんは線が綺麗だね、って先生が誉めてたよ」って言葉をいただいたと聞いて。他に褒めるところもなかったのかもしれないですけどね(笑)。
――会社員時代に、図面を引いていたことが生きたんじゃないですか!? 冨樫先生はお好きですよね?
宮崎 大好きですよ! そんな神様みたいな方が自分のことを話題にしてくれただなんて、それだけでも信じられないほど嬉しいことでしたし、その後も島袋光年先生が『ジャンプ』の巻末コメントで「力作でした」って誉めてくれたことがあって。
『世紀末リーダー伝たけし!』も大きな影響受けてる作品のひとつなんで、本当に嬉しくて。漫画家になれてよかったなぁって!
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初めて描いた漫画が赤塚賞佳作となり、読切もすんなり掲載され、順風満帆な漫画家生活をスタートさせた宮崎先生。後半では、いよいよ『週刊少年ジャンプ』の連載を狙いにいく。ところが、さすがに今まで通りとはいかず......。
●宮崎周平(みやざき・しゅうへい)
2012年下期の第77回赤塚賞にて『むこうみず君』で佳作受賞。同作を13年『週刊少年ジャンプ 11号』にて掲載、漫画家デビューを果たす。その後、『ジャンプ』本誌、および増刊『ジャンプGIGA』にて多数の読切作品掲載を経て、2019年1月から人気作『約束のネバーランド』のギャグスピンオフ『お約束のネバーランド』を『ジャンプ+』連載開始。そして20年『週刊少年ジャンプ 31号』より念願の本誌連載作『僕とロボコ』をスタートさせ、現在も好評連載中