天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。
高校を中退し、夜のお店で働き始めたゆみこ氏。そこでの出会いをきっかけに、芸能界デビューを果たすことになる。その時談志師匠がとった行動とは?
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私が15才でディスコ通いに夢中だった頃、父は「高校だけは卒業しろ! 18才までは親の言う事をきけ、18才になったら何も言わない!」と言っていた。私は「自分も高校中退のくせに」と心の中で思っていた。
子供の教育に全く無関心だった父から、急に暑苦しく一般論を言われても何も響いてこなかった。ただただウザかった。反抗していたつもりもなかったし、思春期にありがちなガキの我儘だった。私は高校1年の運動会、文化祭あたりから学校へ行かなくなり、そのまま辞めた。母が1人でその手続きと、教室に私の荷物を取りに行った。悲しいことをさせてしまった。
あまりに父がうるさいので自立しようと思い、自分の10万円の貯金通帳を持って、成増の近くに家賃1万2000円のアパートを借りた。下赤塚の駅から20分位の畑の向かいにあったそのアパートは、お風呂も無くて玄関もトイレも共同だった。ディスコで知り合った同じ年の男の子とそこで同棲した。アパートはあっという間に不良の溜まり場になった。
1、2ヶ月しかもたなかった。その時も母に迎えに来てもらい、一緒に新宿の家に帰った。今では母に偉そうな口を叩いているが、本当に親不孝だった。
18才になった頃、六本木で夜のアルバイトを始めた。瀬里奈のラウンジで『キンコンカ』という店で、スクエアビルの隣にあった。お店には毎日のように芸能プロダクションの社長さん達が来ていて、沢田研二さん、郷ひろみさん、矢沢永吉さんにもお会いできた。みなさんめちゃくちゃかっこよかった。残念な事に、父も時々来た。そうすると私は控え室に隠れた。自分が談志の娘だという事を、黒服以下には隠していた。
プロダクションの社長さんに、君面白いからとラジオのオーディションを勧められた。その頃私は夢もやりたい事も無く、芸能界にも興味がなかった。なのに、受かってしまった。
TBSラジオ『エド山口のまんてんワイド』のエドさんのアシスタントとして、月曜から金曜、毎晩9時から3時間の生放送。周りが騒がしくなり始め、どこのプロダクションに入る? 芸名は? など色々決める段階になり、さすがに私も父のことを隠しているのがヤバイんじゃないかと思い、談志の娘であることを告白した。
すると、さらに周りは盛り上がってしまい「談志の娘デビュー!」ということになり、すぐにラジオとテレビのレギュラーが8本くらい決まった。芸名は「松岡まこと」。まことは水商売の時の源氏名をそのまま。この時も父に何も相談しなかった。自分で決めたというより、周りが勝手に決めていった。
やる気も経験もない私だったが、昔のTBSのパノラマスタジオでラジオ生放送の初日、デビューの日を迎えた。スタジオ内にはエドさんと私が向かい合って座り、放送作家が隣にいた。ガラス越しのディレクターのキュー出しで、番組は始まった。私の声が電波にのった。
喋り始めて少しすると、ガラス越しにスタッフがざわめきだした。よく見ると、父が入って来ていた。父の後には、前座になったばかりの立川志の輔さんもいた。ブース内の私には父の声はまったく聞こえなかったが、「娘をよろしくお願いします」とでも言いに来たのか? 父に何も伝えてなかった私は、すごく驚いた。
父が亡くなった後、志の輔さんとラジオでお話しする機会があった時、「師匠が『俺の娘が今日から芸能人になるんだ』と、嬉しそうにズカズカとTBSに入って行くのに訳も分からず付いて行ったら、そこがラジオのスタジオだった」と教えてくれた。
芸名界の親の七光りは強い。明石家さんまさんや片岡鶴太郎さんなど、売れっ子の方々とレギュラー番組に出演させてもらった。鶴ちゃんは一緒に呑むと私の頭におち〇ちんを乗せて「タラコ!」とはしゃいでいたし、さんまさんからは電話で「ホテルに遊びにおいで」と言われたが、行かなかった。週刊誌にプロ野球選手やミュージシャンと載った事もあったが、その頃私にはお付き合いしている人がいた。不倫だった。後にその人と27才で結婚し、31才で離婚した。