旅先での立川談志師匠(右)とゆみこ氏(左)

天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

10年前、根津のマンションで師匠の介護を続けていたゆみこ氏。そんなある日の思い出。

* * *

9月17日で、私は58歳になった。こんなに長生きすると思わなかったが、あとどれくらい生きるんだろう? 子供の頃、人は60歳くらいで死ぬのだと思っていた。今になって100歳まで生きるかもしれないと言われても、ピンとこない。

父が亡くなった10年前の、9月18日の私の日記には、こんな事が書いてある。

『昨日の父は午後4時ごろから眠ってしまい、夕方、弟が下の子を連れて病院へ行った時も眠っていたらしい。そして、夜、母も病院へ行かなかったと言っていた。「案ずるより産むが易し」。母は病院の父のことを考えて家で気を揉んでいるより、介護が大変でも家にいたほうが良いようなことを言っていた。気持ちはとてもよくわかる。でも体調の悪い父は、やはり入院してた方がいいのではとも思う。どちらにしても、父のいじらしい顔を思い浮かべると切なくて、辛くなってしまう』

3月21日に気管切開をして声を失った父を半年ほど自宅で介護をしていたが、この頃はとうとう家族だけでは難しくなって、半ば無理やり入院させた直後だった。要介護5の状態で家にいた父は、何度も救急車で近くの病院に運ばれた。その度に入院を勧められても、「帰る!」と紙に書き続けてきかなかった。私とトイレにいた時に喉から血が吹き出して、救急車で病院に行ったこともある。その時も「帰る!」と言って、結局連れて帰った。帰りはいつも車椅子だった。

入院している父は、筆談で「いつ帰れるの?」「帰ろー、帰ろー」「帰りたい」「帰ります」と毎日言っていた。切なかった。父の帰りたがった家は、根津の3DKの小ぶりなマンションで、最後まで足の踏み場がないほど散らかっていた。それでも、母がいるその部屋が一番居心地の良い我が家だったんだろう。  

先日、撮影の帰りにダンカンさんと一緒に父のお墓に行き、その根津のマンションの1階にある『八重垣煎餅』に久しぶりに寄った。煎餅屋さんのファミリーは、久々の私とダンカンさんを歓迎してくれた。父が住んでいた頃大変にお世話になった。今でも毎月の月命日にお墓に行って頂いている。

元気な頃の父は煎餅屋で煎餅を焼いたり、ご馳走になったり、毎年根津神社のつつじ祭の時にはお店の前でガレージセールもやっていた。使わないものには何にでもサインを書いて、バナナの叩き売りみたいに売っていたのが懐かしい。思い出すと悲しくなるが、私が意識のある父と最後に別れた場所もそこだった。

昼間だけ病院から家に戻っていた父と一緒にマンションの下まで降り、病院へ戻る父にいつもならちゃんと顔を見て手を触って、「バイバイ! またね! 元気でね!」と別れるはずなのに、その日に限って家へ帰る私が乗るバスが丁度来た。私は、父の後ろ姿に「バス来たから乗るねー! パパまたね!」と言って飛び乗ってしまった。


普通ならなんでもない事だが、その2日後の朝早く、父はひとりぼっちで病室で心肺停止になった。蘇生して人工呼吸器を付け一命は取り留めたが、その後意識が戻る事はなかった。「もう絶対、父をひとりぼっちにしない。したくない!」「ひとりぼっちで死なせない!」と思った。その日から毎日、弟と代わりばんこに病室に泊まった。父は75歳で亡くなった。

父は60代になった頃から老いる事をとても意識していたし、嫌悪感を持っていた。「老いる肉体が精神についてこない」などといつも言っていた。その気持ちがよくわかる歳に私もなった。

落語家は、新年の挨拶に手ぬぐいを作ってお年賀にする。父は毎年、自分で文句や絵を書いた手ぬぐいを作っていた。2000年、辰年の手ぬぐいには『鶴は千年、亀は万年、辰は2000年、立川談志は後2年』と書いていた。父が64歳の時だ。

その頃の私は「何言ってんのよー」と思っていたが、2年刻みくらいの意識で生きていくのはとてもいい事だと今は思う。私は元々、生きる事に執着が薄い。そのせいか、生き方も乱暴だし、メチャクチャだと思う。だけど、2回の癌でも死ななかったし、とりあえず今元気そうだ。あとどれくらい生きるのかも、どういう死に方をするのかもわからない。父も同じような事を考えていたのだと思う。父と私は似ているんだとつくづく思う。 

父が死んだ時、私の死への恐怖もほとんどなくなった。『人生成り行き』『勝手に生きるべ し』『嫌な事はしないほうがいい』父の残した御託は、死ぬ事も生きる事も楽にしてくれる。「私が死んだら、きっとパパに会える!」これだけは信じて私もとりあえずあと2年、どうせなら面白おかしく生きてみよう。

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。

立川談志師匠没後10年特別企画、松岡ゆみこと笑福亭鶴瓶サンボマスター山口隆との対談動画公開中!