わかかりし頃の談志師匠(右)と、毒蝮三太夫氏(左) 写真提供/毒蝮三太夫

天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

談志師匠の若かりし頃、友人たちとの日々や恋人との出会い......。師匠の親友である毒蝮三太夫氏と、師匠の奥様が教えてくれた、まだ誰も知らない青春エピソードの数々。

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先日、約2年ぶりに毒蝮三太夫さんに『ゆみこの部屋』の対談(週刊プレイボーイで不定期連載中)でお会いした。私は毒蝮さんを子供の頃から「マムちゃん」と呼んでいて、父と同じ年のマムちゃんは、85歳で相変わらずお元気だった。

1時間程、父との思い出話をして頂いたが、マムちゃんの記憶力には感心した。父と初めて会った10代のころのエピソードから父と母との馴れ初め、私が生まれた時のこと、とにかく何でも知っていて、マムちゃんは父の親友なんだとつくづく思った。

マムちゃんには子供がいなくて、私が生まれてから今にいたるまで、マムちゃん夫婦には本当に感謝しきれない程可愛がってもらっている。マムちゃんは今も現役で、ラジオ、テレビ、講演にライブ、映画にも出演し、なんとYouTubeチャンネルまで始めている。おばちゃん達を「ババア、ババア」と呼び続けながら、自分は「スーパージジイ」になっている。普段はあまり思わないのに「パパも元気で生きてたらなー」と思ってしまう。

その日、マムちゃんが持って来てくれた古い写真には、少年のような父とマムちゃんがじゃれ合って写っていた。父と母との恋愛中の事も色々聞いた。母は第一生命ホールの受付のアイドル的存在で、母の乗るエレベーターにはみんなこぞって乗りたがったとマムちゃんが言っていた。

既に婚約者のいた母を、「絶対にオレのものにする!」と言う父に、マムちゃんは「それはお前が決める事ではない」と意見した。しかし、意見を聞かない父の態度に腹がたち、父を駅のホームから突き落とそうとしたが、父が何か柱のようなものにつかまって、くるっと回ってホームに戻ってきたという話は何度も聞いた事はあったが、突き落そうとした理由は今回初めて聞いた。マムちゃん同様、うちの母も元気でボケていない。本人はよく「忘れちゃったー」と言うけれど、昔のことも色々覚えている。

ここからは母の記憶をたよりに書く。父と母の初デートは多分、新橋演舞場で観た松竹新喜劇だったらしい。当時、藤山寛美さんの全盛期で、父も大好きだった。母はそういったものを観るのは初めてであまり笑わないでいたら、嫌味ではないが、父に「笑い方、笑うタイミングでその人のセンスがわかる」と言われたと言っている。

フランク永井さんの『有楽町で会いましょう』が大ヒットした時で、母の職場も近かったこともあり、デートは有楽町界隈が多かった。父はコーヒーを飲まなかったし、喫茶店にはあまり行かない人だった。なので、デートの思い出は食べ物屋さんが多い。 

有楽町『紅鹿舎』のかにクリームコロッケ、有楽町『かえで』のハゼの天ぷら、有楽町ガード下『フライパン』のピラフ、銀座『スイス』のナポリタンスパゲティ、人形町『菊川』のうなぎ、池袋『五十番』の餃子ライス。これらのお店で食べたものは、母にはすべて初めての経験だった。「とにかく全部美味しかった!」と言っている。まだお金もあまりない父が、安くて美味しいお店に連れていってくれていた。  

2人のデートで私が驚いたのは、高尾山! 両親にハイキングのイメージは全くないので「何しに行ったの?」と母に聞くと、「スケッチ」ですって! スケッチブックと、母が作った玉子サンドをお弁当に持って、ハイキングしながら2人で景色をスケッチしたそうだ。「パパはそういうの好きだったのよー」と母は言うが、想像しにくい。 

父は大田区の鵜の木。母は北浦和。2人共、当時は実家で家族と暮らしていた。父が初めて母の家に行った時、普段料理などしない母が玉子サンドを作りだし、母の姉妹達はビックリしたそうだ。5人姉妹の初彼氏が家に来るのだから、若い叔母たちもワクワクしていたに違いない。母いわく、その時の父は「お利口にしてたわよ。元々おしゃべりもうまいしね!」ですって。 

母が父の実家に行くと決まった時には、鵜の木のボロい長屋の襖(ふすま)も障子も全部張り替えて綺麗にして、母を迎えてくれたそうだ。母も着物でお邪魔した。その時のおばあちゃんの手料理は、ウインナーを豚バラ肉で巻いて焼いたもの、イカのお刺身、銀だらの味噌漬け......。自分の家では食べた事もないものばかりで、全部おいしくて「お洒落だなー」と思ったらしい。

今でも母は、なんでも美味しそうにパクパク食べる。若くて可愛い母のその食べ方にも、父は愛おしさを感じたはずだ。父は始めから、母と結婚する気で付き合っていたらしい。「誰よりも大切にする」とか「必ず幸せにする」みたいな事はいつも言っていたようで、プロポーズの言葉は「結婚しないならデート代を返せ!」だと、父のお弟子さんの立川キウイさんからも聞いたことがある。

最後の最後は、父が母に「有楽町駅のSOGOの前に、〇時までに来なかったら結婚は諦める!」と言ったそうだ。私が母に「それでどうしたの?」と聞くと、「何かわかんないけど、行っちゃったのよねー」と母。父の月命日の前日の今日、母は「どんなお花にしようかなー」と、いそいそと父のお墓に向かっている。

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。

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