10月7日、作曲家・すぎやまこういちさんの訃報が日本列島を駆け抜けた。享年90。『ドラクエ』シリーズに名曲の数々を送り込んだ"ゲーム音楽の父"に哀悼の意を表して――。
編集者として『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』を生み出し、『ドラクエ』誕生にも深く関わった鳥嶋和彦(とりしま・かずひこ)さんが当時を振り返る。
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■『ドラクエ』を作った"伝説のパーティ"
――35年前、『ドラゴンクエスト』の記念すべき第1弾が発売されました。鳥嶋さんはキャラクターデザインに鳥山明先生を紹介して最大級の貢献をなさるわけですが、当時の、『ドラクエ』風に申せば"パーティ"づくりですね、その経緯をお聞かせください。
鳥嶋 『ドラクエ』発売の4年前に、エニックスの千田(幸信/ちだ・ゆきのぶ)さんがパソコンの「ゲームホビープログラムコンテスト」を開催したんです。それを当時、『週刊少年ジャンプ』でライターをやっていた堀井雄二さんと取材に行ったんです。
堀井さんは取材するだけじゃなくて自分でも作品を応募して入賞し、そこからエニックスとのつながりができました。プログラマーの中村光一さんがエニックスに見いだされるのもこのときですね。
その後、「堀井さんと中村さんがエニックスで新しくRPGを作ろうとしてる」と聞いて、僕が担当していた鳥山さんを紹介しました。これでシナリオの堀井さん、プログラムの中村さん、キャラクターデザインの鳥山さんと、3人そろった。音楽のすぎやまさんは、プロデューサーの千田さんがお願いして一番最後に加わりました。
――最初のお三方は、最年長の堀井さんでも当時32歳と、とても若いチームです。そこに歌謡曲などの作曲ですでに一家を成していた、55歳のすぎやま先生が加わることに鳥嶋さんも驚かれたのではないでしょうか。
鳥嶋 当時55歳だったの? そうか、35年前だから確かにそうだね。
すぎやまさんについて、僕自身はザ・タイガースの作曲者クレジットで名前を知っていて、「耳に残る音楽を作る人だな」という認識でした。筒美京平さんみたいなね。
そして、ある日、千田さんが興奮して、「すぎやまこういちさんからアンケートはがきが届きました!」って言うの。エニックスが出していた将棋ゲームのアンケートはがきね。
後から聞いた話では、すぎやまさんはそのはがきを書くだけ書いて、出す気はなかったらしい。でも、自宅の机の上に置いておいたら、奥さんが気を利かせて投函したって(笑)。千田さんがそのはがきを見て、調べたら本人とわかったので、「音楽をお願いできないか」と連絡したそうです。
すぎやまさんご自身もゲーム好きで、『ドラクエ』の前にゲーム音楽をひとつやられているんですよね。エニックスが出した『ウイングマン2』のパソコンゲーム。
その後、『ドラクエ』の音楽にも起用するということになって、「中村さんが反発してる」と聞きました。ゲーム会社はみんなそうだけど、彼のところ(チュンソフト)にもサウンドプログラマーがいて、すでに音楽を作っていたわけ。それでカチンときたというのが理由のひとつ(笑)。
もうひとつはメモリーの問題です。当時のゲーム作りはメモリーとの戦いで、少ない容量の中でいかに組み立てるかという作業で。堀井さんは呪文や名前によく使われるカタカナを20字に絞って、いかに使い回せるか考えてやっていた。そんな状況だから、プロの作曲家に音楽を作ってもらって、「容量が足りなくて使えません」ということも起こりうる。
それでも千田さんがすぎやまさんを推したのは、やっぱりプロデューサーとしての勘だよね。シナリオ、プログラム、キャラクターデザインときて、「音楽・すぎやまこういち」が加われば最強のパーティになると思ったんじゃない? だから最後、ぎりぎりのタイミングですぎやまさんが加わることになったの。
すぎやまさんのすごさは、作った曲でそうした反発をかき消しちゃったことです。時間が1、2週間しかないなかで、有無を言わせず納得させるだけの曲を作ってきたんだから。中村さんの反発を抑えるってすごいことだよ? あの人けっこううるさいから(笑)。
■ゲーマーゆえの主張しすぎないBGM
――鳥嶋さんは『ドラクエ』の音楽を聴かれて、どのような印象を持たれましたか?
鳥嶋 「あ、シンプルだな」って思ったね。これはね、ほかのメンバーにも共通する美点なんです。堀井さんは長くライターをしていた人で、読者目線の、シンプルで読みやすい文章を書くでしょう。鳥山さんもデザイナーの腕を発揮して、シンプルで親しみやすいキャラクターを描く。
中村さんのプログラムを語る人は少ないけど、『ドラクエ』で採用されたマルチウィンドウあるでしょう? あれが出るスピード、あのシンプルさ、気持ちよさっていうのは天才じゃないと作れないものです。
そういうシンプルさで作ってきたところに、すぎやまさんの音楽もシンプルで、衒(てら)いのないいい曲だったから、やっぱり腕のいい人だなと思いましたよ。邪魔にならないんだよね、音楽が。
僕の感想に対して、すぎやまさんがおっしゃった言葉が耳に残っています。
「邪魔にならないのは当然ですよ。ゲームをやっているときにずっと鳴っている音楽が主張しすぎたら、気になってボリュームをしぼるか音を消しちゃうでしょう。そうならないよう、邪魔にならずに盛り上がる作り方をしました」と。
さすがだなあと思ったね。それができたのはおそらく、ご自身がゲーマーだったからだと思う。自分がプレイしていていやだと感じるものは作りたくないよね。きっと、主張せずに主張できる自信がおありだったんでしょう。
――すぎやま先生のゲーム好きは有名ですが、相当なものだったのですか?
鳥嶋 だって、「いつかゲームのミュージアムを開きたい」っておっしゃっていたほどだから(笑)。直接お会いした数少ない機会にね、ゲーム機やソフトのコレクションの話になって、「サブカルチャーは日本でまだあまり大事にされていないけど、大事な文化。特にみんなが支持してきたものは時代の結晶だから、誰かが集めて記録して、一堂に会して見られる場所が必要です」って言い方をされていたから。
――東京五輪の開会式では入場行進に『ドラクエ』ほか『ファイナルファンタジー』などのゲーム音楽が使われました。すぎやま先生もうれしかったのではないでしょうか。
鳥嶋 それは知らない(笑)。僕としては、アニメやゲームを取り入れるんなら、あんな中途半端にやっちゃダメだと思ったね。すぎやまさんだって、ありがたいと思いつつ、「もっと勉強してよ」と思ったかもしれない。ゲーム好きな人だけにね。
■ゲームバランスが崩れるとクソゲーになる
――鳥嶋さんは『ドラクエ』だけでなく、『ファイナルファンタジー』の坂口博信さんにアドバイスをされたりと、ゲーム業界でも活躍されましたが、ゲームのおもしろさはどこにあると考えますか?
鳥嶋 ゲームのすごいところは、学習効果です。プレイヤーは失敗すると、なぜ失敗したのか考えて、練習して、次は失敗を再現しないようにがんばるでしょう?
そのために作る側が考えなきゃいけないのがゲームバランス。堀井さんがよく「ゲームで大事なのはバランスですよ」と言っていました。あとちょっとで勝てる、勝つとまたちょっと先へ行きたくなる。そういう絶妙なバランスが大事なんだ、と。
だから、すぎやまさんの曲の中では、レベルアップの音が一番好きですね(笑)。「やった! これで先に進めるぞ!」ってうれしい気分になるから。
――そのバランスを失うと、いわゆるクソゲーが出来上がるわけですね。
鳥嶋 そうだね。『ジャンプ』20周年でハドソンが持ちかけてきた『ファミコンジャンプ 英雄列伝』なんて......荒野を歩いてるだけで死んじゃうんだもん(笑)。
――けっこう楽しんでましたよ、と、当時の小学生の私からお伝えいたします(笑)。
鳥嶋 子供はね、『ジャンプ』のキャラクターが大勢出てくるだけでうれしかっただろうね。僕としては、アニメ化、商品化されていないマンガの作家さんにも印税がいくようにとだけ考えて、オールスターキャストで開発は完全に任せました。その結果、クソゲー(笑)。
でも最初の『ドラクエ』だって、発売直前にモニターテストをしたら、主人公がバタバタ死んじゃって大変だったんです。なぜなら、当時はまだみんなRPGなんて知らなくて、発売前に『ジャンプ』で盛んに説明しても、やっぱりわからない。道具を手に入れ、装備を整えて強くなって戦いに出る、そうしないとすぐ死んでしまう、ということがね。
それで千田さんから「1週間発売延期します!」って電話がかかってきて。操作を覚えるまでは城から出られないようにするとか、ゲームバランスを直したみたいです。それくらいユーザーの声をしっかり聞いて、丁寧に作っていたということですね。
これは任天堂の話だけど、当時京都の本社を取材して感心したのは、子供も入れる通用口があって、機械が故障しちゃった子が持ってくると、無料で直してくれるのね。もちろん親切な、いい話なんだけど、それだけじゃなくて、「こうすることでお子さんがどう扱いがちかわかります」って言うんだ。いまに至るまで、子供に寄り添うその一点は変えてない。その点で、尊敬すべき企業ですよ。
■フラットで、自信にあふれている人
――『ドラクエ』誕生の頃といまと比べて、ゲーム開発の環境で大きく変わったところはなんでしょう?
鳥嶋 いまは全部、メーカーの製品になってしまっていますよね。著作権が全部企業にあるわけ。ここが、新しい才能がゲーム業界に入ってこない要因です。
『ドラクエ』作りの思想の何がすごいかって、一時期のバンダイもそうですが、開発チームを自社に持たなかったこと。理由は人を集めるとお金がかかって固定費が重いからで、初めに話したように堀井さんも中村さんも鳥山さんもすぎやまさんも、外部の一流クリエイターを幅広く取り込み組み合わせて、プロデュースだけした。
著作権は各クリエイターにあるわけです。エニックスはあくまでパブリッシャーで、デベロッパーではない。しかし、だからこそ手作り感があり、作家性、テイストが変わらない。このあたりのおもしろさを、もう一度振り返ってもらいたいですね。
いまはゲーム一本作るにも100人態勢まで膨れ上がっているからね。20~30人で作る時代になれば、ファミコン時代のように出来不出来はあっても、いろんなゲームが出てくるようになると思う。そうすれば新しい才能も出てくるでしょう。
マンガがいまなお命脈を保っているのは、多くても5、6人でできる仕事だからじゃない? 何百人で作りましたって時代が来ないじゃない、マンガには。その敷居の低さが新しいものを生むんですね。
――クソゲーも散々つかまされましたけど、『ドラクエ』のような情熱の結晶を届けてくださった方々には感謝の気持ちでいっぱいです。ゲームという形であれなんであれ、一級のものに触れると興味が開拓されるんですね。例えばすぎやま先生のゲーム音楽から、クラシック音楽や、より広い音楽の世界に導かれた子供たちもたくさんいると思います。
鳥嶋 そうだよね。それが子供の好奇心のすごいところで。表面的に見て、ゲームはダメだとか、ちょっとおっぱい、裸が出てくるマンガはダメだとかいって規制したがる大人は何もわかってません。
すぎやま先生はそういう態度と真逆の人でした。あの人はやっぱり、感性が若いよね。『ドラクエ』に加わったのが55歳だったといま聞いて、あらためて思います。
僕なんかもそうだけど、エンターテインメントに関わっている人間は、若さと好奇心があれば業界の真ん中にいられる、感じたままを出せばヒットになる、という一時代を経験することがあります。でもそのまま続けていくと、ズレちゃう。経験値が上がるにつれ、新しいものに対する反応がネガティブになる。その結果、「かつてはすごかったけど、いまはズレてる人」になりがちじゃない?
――いわゆる「老害」発生のメカニズムですね。
鳥嶋 僕がお会いしたすぎやまさんは違いました。それまで音楽業界の第一線でやってこられた方とは思えないくらい、謙虚で、好奇心があって、新しいものへの上から目線が一切ない人でした。お坊さんみたいな、飄々(ひょうひょう)として当たりの柔らかい方でしたよ。だからずっと年上なのに、こちらが気を使わなきゃならない感じがなかった。フラットで、同時に自分の腕にすごく自信がおありだったんだろうな。
いいなって思える年上の人、いるじゃない? 僕が仕事でお会いしたなかで言うと、ソニーの丸山茂雄さんもそうだけど、フラットで、自信にあふれている人。すぎやまさんはそのひとりです。こういう人の背中があるから、僕も新しいものに対して上から目線で否定する人間にはなるまいとね、心がけているんです。
――私たちも継承してゆきます。貴重なお話、ありがとうございました。
●すぎやまこういち
1931年生まれ、東京都出身。フジテレビ入社後に『ザ・ヒットパレード』を企画。退社後は作曲活動に専念し、ザ・タイガースやザ・ピーナッツの黄金時代を支え、『亜麻色の髪の乙女』『帰ってきたウルトラマン』の主題歌、東京競馬場・中山競馬場のファンファーレ、『ドラゴンクエスト』シリーズのBGMなど、数々の名曲を生み出した。
●鳥嶋和彦(とりしま・かずひこ)
1952年生まれ、新潟県出身。『週刊少年ジャンプ』の編集者として鳥山 明、桂 正和、稲田浩司ら人気作家を担当。マンガだけでなく、「ジャンプ放送局」「ファミコン神拳」などの人気企画も立ち上げた。1993年にゲーム雑誌『Vジャンプ』を創刊。1996年に『週刊少年ジャンプ』の6代目編集長に就任。現在は白泉社相談役を務めている。