『キャプテン』『プレイボール』など、いまだ愛される名作で知られる漫画家・ちばあきお氏が、当時連載中の『チャンプ』人気絶頂の最中に突然の急死。驚きとともに多くの人から惜しまれたのが1984年のことだった。
時が経ち、その続編『プレイボール2』がコージィ城倉氏によって作品化、再び人気を博し、現在は『キャプテン2』が「グランドジャンプ」誌上で連載を継続。今年は『キャプテン』初連載から50周年の節目を迎える。
そのメモリアルイヤーに一冊の評伝が刊行された。タイトルは『ちばあきおを憶えていますか』――早逝した作家の遺児であり、現在はプロダクション代表を務める千葉一郎氏が自ら家族や近しい関係者に取材、赤裸々に綴(つづ)られた父親の素顔、創作の裏にあった壮絶な苦悩とは......。
長兄・ちばてつや氏を筆頭に、漫画界で知られる"ちばファミリー"の歴史でもあり、一家の絆を窺(うかが)い知ることができる貴重なインサイドストーリーとなる本作の副題は「昭和と漫画と千葉家の物語」。そこで、執筆した思いなどを著者に直撃、語っていただいた。
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――初の著作とのことで、50年というタイミングにやはり自らがこれは書かねばと?
千葉 以前からこういうオファーもいただいて、最初は誰か書いてもらえる方がいたらお願いしてもいいんじゃないかと。ただ、その頃はまだ母がプロダクションの代表で踏み切れなかったというか......やはり、死に至るまでに触れざるを得ないこともありましたし。
それが自分に代わって、続編の新作漫画なども企画させていただく中で、父親やその作品が忘れ去られてしまわないよう、何ができるのかとさらに強く意識するようになって。一番わかりやすいきっかけとしては、父の死んだ年齢を自分が超えたというのもありましたね。
――そうした時間を経て、今だからこそ機が熟したという。
千葉 それはあります。母親との考えも作品やイメージの守り方が違うというか、いただくオファーをジャッジしてというスタンスだけでなく、それだけではどうしても今の人たちに知ってもらう機会が徐々に失われてしまうという思いもあって。
――以前にお話を伺った際も、古典として過去のものになってしまうのが残念だと。今の新しい世代の読者にも読み継がれるために何ができるかと切実に語られていました。
千葉 仰る通りで、現在進行形の作家さんがこれだけたくさんすごい作品を世に出される中で、新しいチャレンジをしていくことで記憶にも残り続けると思いますし。それがコージィ城倉さんに続編を描いていただいたり、この50周年という機会にとてもいいタイミングが重なって......。
今、ここで父親のことに触れるのであれば、自分が直接関わって、あきおの息子が話を聞きたいと言うんだったら話してもいいんじゃないかと皆さんに思っていただけるのもあり、やらせていただきました。
――第三者ではなく、やはり一郎さんだからこそ胸襟を開いて吐露(とろ)できる、今まで黙していたものがそれぞれあるわけで......。
千葉 てつや伯父はじめ、うちの家族に気を遣ってたところはすごくあって。これは当時を知る皆さんがそうなんですけど、僕が9歳の時に父が他界して、それからずっと何かあったら親父の代わりだと思って、言ってきてくれというのもありましたし。
でも、逆にこれまではどこまで話していいのか、抱えていたものも大きかったんだろうなと。今回、会いに行って最初にまず心底ほっとされてる感じでしたね。
――それこそ、まず母親の文江さんがどう思われたか......癒(い)えた瘡蓋(かさぶた)を剥がすというか、傷口をまた開くのではとご心配されたりは?
千葉 やはりまず、母親がどう受け止めるかということを確認する必要はありましたね。少し難色を示すというか、「ほんとに大丈夫?」というのはあって。そこで、これから作品を守る上でも大事なんじゃないかという話をさせてもらって。
母にとっては、自分よりも遺された子どもたちがどう向き合っていくのかということを考えて、一番心配していたのもあったみたいで。このまま墓場まで、くらいな気持ちでいたところを納得してくれたと思いますし、母親自身、重石(おもし)が少し取れたのかなって感じもしました。
――実際、読まれて何か仰られたりは......。
千葉 このことに限らず、認めてくれている部分があるんだろうなと、親子の間で言葉にはしなくても受け取っていますけど。私に対してというより、この本に携わってお話いただいた皆さんにすごく感謝していましたね。
――ではご自身は書き上げられて、いろいろな方の話からあらためて気づきも多々あった中、一番に感じたことは?
千葉 なんだろうなぁ......やっぱり、父親がすごく愛されてたんだってことは感じましたし。そこにない背中をずっと追いかけて、この大人の歳になってしまうまでどういう父親だったのかなという思いを持ち続け、自分が見ることのできなかった本当の部分を教えてもらいたい気持ちはすごく強かったので。
こういうふうに辛くなっていったんだなとか、想像ができる歳になってよくわかったというか。こんな壁にぶち当たったら自分も苦しむなって、今となって理解できる。当時、3日間くらい同じ姿勢で机に向かって、画用紙とにらめっこしてる姿を見ていた記憶もある気がするんですけど......。
ほんとに命を削って、作品を残す仕事をしてたってことでいえば、お酒を飲みたくなったのも仕方なかったんだろうなと。
――そのアルコール依存症との闘いも心が痛むほど生々しく描かれ、家族や周囲の葛藤もいかばかりだったかと......。
千葉 そうですね。今だったらどうなんだろうって、ほんと時代もあると思うんですけど。母に聞くと、情報もやっぱり少なくて、てつや伯父も何がいいのか半信半疑でわからなかったと。
――執筆を休むことになった期間も隠れて酒を求め、ついには漫画家をやめさせて花屋を営ませるという話が進んでいたというのも驚きでした。
千葉 なんとかして健康な生活に戻らせたかったという思いをそのエピソードで感じましたね。これではあきおがダメになっちゃうということで、みんな必死に対応してるものの正解がわからないままということだったと思います。
今の自分が見ていたら「とにかく、夜は寝てください」と言うしかないですよね(苦笑)。
――そこに至るまで、担当編集者も週刊ジャンプと月刊ジャンプの連載を掛け持ちとなり無理をさせてしまったのでは?等、それぞれが自責の思いを抱えて、ずっと問いかけ続けることになります。
千葉 それは言われましたけど、でも父親自身がもっといい加減な人だったら楽だったのにと思うんです。それができなかったということなのかなと。
――その真面目さ、ストイックさこそが創作の根幹であり、表裏一体で作者にしか描けないピュアな作品が生み出されたともいえるのでは?
千葉 そうですね。それこそ何年経っても受け入れてもらえる魅力がそういうところにあるのかなと、私も思います。
――ちばあきおという稀有(けう)な才能なればこそ、それゆえ自身も作品も愛されて、今も不朽の名作として影響を与え続けています。
千葉 これはもう皆さんに感謝しかないというのは思ってまして。だからこそ、こういう形で何か残すことも恩返しというか。なってるかどうかわかりませんけど、父親のことに触れるというのは自(おの)ずと伯父たちであり、お世話になった千葉家というものに触れることでもあるので......。
今回、この機会を逃して5年後、10年後にできるかというと、本当にわからない年齢にみんな歳を取っていることも痛感しましたし。だからこそ、今話せることを全部話してくれたんじゃないかと。
――やはりお互い今の歳月を経てこそ、ここで語らねば悔いが残るという思いが......。
千葉 私もお世話になって、誰よりも心配もかけ、今まで携わってくださった方々に父のことを聞いて、こういう形でご恩返しに繋がるのであれば、嬉しいなという思いもあって。ほんとみんな、記憶が朧(おぼろ)げに少しずつなっていますし......。
――そういう意味では、父親を含めたファミリーヒストリーであり、自分探しの旅でもあった?
千葉 いつかこういう時が来るとは思ってましたが、まさか向き合えると思ってなかったことも今回機会をいただいて。樹之(しげゆき=漫画原作者・七三太朗)叔父なんかも、言わないほうがいいんじゃないかとずっと思ってたとか、武論尊(ぶろんそん)先生も「ほんと喋っていいのかな」って。
やっぱり息子のほうから、あきおのことを聞きたいって寄ってくるならいいのかなと思っていただけたのは大きいのかなと。
●千葉一郎
1975年東京都生まれ。ちばあきおの長男。現在は作品の企画・管理をする、ちばあきおプロダクションの代表を母より引き継ぎ、父の作品の商品化プロデュースに携わる。